水上勉の『故郷』単行本第一版読了

故郷

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故郷 (集英社文庫)

故郷 (集英社文庫)

どうも、アマゾンのレビューに引用されている本文を読むと、
自分の読んだ単行本初版にはない文章のようなので、
あえて題名に版と、それから魯迅じゃないよの意味で、著者名つけました。
商品の説明*1見ても、おはなしの半分しか書いてない。なぜだろう。
芦田富美子の物語はこの小説の半分でしかなく、
残りの半分は、キャシーさんのストーリーなんだけど。
キャシーさんに原発は間接的にしか関係しないから、商業的観点から省いてるのか?
たまたま図書館で手に取った本で、今検索するまで、水上勉を東北出身だと思い込んでたので、
関西弁うまいなあ、と思いながら読んでしまいました。
なんのことない。福井の人間やんか。へしこ、ぬくてーい。
その水上勉さんは、HとFの聞きわけが出来ない。

頁49
 幸次郎がひっこんだ眼をこころもちしずめてキャシーに何かいった。キャシーは首をふった。
「ノウ、アイ・ホワゴット・ロングロングアゴウ」

頁51
「マイ・マザー、ヒフティ・シックス、ナウ。アイ・ウォズ・ボーン・イン・ハア・サーティ・トゥー…」

頁257
「ライク・ユウ・オンセン」
 といった。キャシーは、爺さまににぎられている手をそのまま、
「ファット・ドゥ・ユウ・セイ」

簡単な英語ばかりと思っていると、相手が英語話者のシーンで突然光る表現も飛び出す。

頁382
「ミセス・ホキ・イズ・グッド・ネイチャー」

このホキさんは、通称ポンちゃんというフィリピン人女性で、
原発作業員やってる農家の息子と勤め先のスナックで知り合って結婚したのですが、
婚家の名字出し忘れたので、ここで作者もミセス・ホキと書かざるを得なかったみたい。
こういう部分を置いといて、芦田夫妻のストーリーだけがあらすじみたいに
書籍販売サイトに書かれちゃうと、どうも不思議。アマゾンの商品紹介に、

--このテキストは、絶版本またはこのタイトルには設定されていない版型に関連付けられています。

って書いてあるけど、絶版本には関連付けられてません
の間違いじゃないでしょうか。
初版にも原発の話はちゃんとあり、例えば下記。

頁371
あいつの原発否定論には、根本的な考えがあって、五十年使ったあとの、原子炉が、六百年もくすぶって残るということにあるらしい。ぼくも謙吉の意見には賛成なんだ。きみのいうとおりいくら安全でつとめを終えても、発電炉はぼくらが死んだあと六百年も燃えつづけてゆく。

頁372
やつが、燃える棺桶だといったうらには得体のしれない、まだ地球上で、誰もが見たこともない六百年も燃え続ける処置しようもない原子炉のことをクリーンだということに反対なんだよ。

関係ありませんが、年数を計算してわけが分からなくなったのが下記。

頁360
 孝二のニューヨークの店で働いていた西島さゆりは、東京の女子大を卒業して、ワシントンに一年留学していた。修士課程を修得するのが目的だった。ところが、帰国まぢかにお小遣いがほしくなって、アルバイト募集に応じて「風花」へ入ってきたが、まもなくアメリカ人の大学生と親しくなって、結婚の約束までかわした。孝二も相談をうけたが、学生の方が十三も年下なので不安だった。

この西島さゆりって、いくつやねん。三十過ぎで女子大卒業したばっかってこと?
あるいはこのアメリカ人大学生、飛び級のローティーンか?そら、犯罪やで。
京都の記述もありますが、下記など、全然分かりませんでした。

頁70
銀閣寺から上はずいぶん竹藪も多いところだった。それがみんな切りはらわれて、山の裾に鉄筋の家だ。石野外科の建物が、一つだけにょきっとそびえてみえたもんだが、今あの建物も近くのビルにかくれて見えやしない」

石野外科、分かりません。
ためになった箇所をメモします。

頁342
中国の禅宗の和尚さまで、慧能大師といわれるお方は、修行なさった寺のえらい和尚さまから、衣鉢を頂戴なされて、後継ぎを約束されたその大きな道場を捨てて、故郷へ帰って、お母さんとともに生きて、新しい仏法をおこされました。が、道場のお弟子さんたちが、故郷へ帰る大師さまに別れを告げにきたとき、大師は葉は落ちて根に帰るとたった一語のこして出発されました。うつくしい話だと思いませんか。わたしは、この話が好きです。わたしはアメリカの大学を出て、日本に行って仏教を勉強しました。小浜に行ったのも、その頃でした。友だちもできて、日本が大好きになりました。けれども、わたくしは、五十をすぎてから、アメリカの東海岸の生まれ故郷がなつかしくなって、また、ここへもどってきたのです。

華僑はよく落葉帰根を申しますが、仏教用語だったんですね。知りませんでした。
ためになりました。故郷ね。
あともう一か所、死んだあと何しよう、これもやりたいあれもやりたい、
という箇所があり、そういう発想がなかったのでぶっとびました。
確かに死んで終わりじゃない、死んだら無じゃないって考えてもいいんだよなあ、
地獄とか抜きで。