『居酒屋兆治』読了

居酒屋兆治 (新潮文庫)

居酒屋兆治 (新潮文庫)


来年発売かいな。
国立の公営住宅に知人が住んでいて、
新宿しょんべん横丁での忘年会のあと何度か訪れたことがあり、
谷保という駅も酔って徘徊して知っていたのですが、
国立といえば山口百恵という認識しかなく、
この店(というかそのモデル)知らないままでした。(競馬場も知らない)

また、よく考えると、酒を飲み始めてから関西にいたせいか、
モツ焼き、やきとんも知らない。
三多摩では普通のアテなのかもしれませんが、
神奈川県央では後発の店しか見たことない気がする。
関西の串揚げは、頼むたびに油を沸かす必要があるので、
気兼ねしながら頼んだりしますが、
モツ焼きの場合タネがあるうちはそうそう炭を落とすわけでもないので、
串カツより気楽に頼めるアテだと思います。

で、この小説は、むかしのいい小説?、というか、
作者が好きにやった小説だと思います。『波』ってそういうこと出来たんだな。
相対化とか客観的描写とか糞食らえな、
書かなくてよいこと、書きたくないことは書かない小説。

頁16
 さよは、軽度の兎口で、唇の上が赤く瘤ったようになっている。色が白いので、よけいにそこが赤く見えた。笹の葉のような眉は下がり気味で、目が大きかった。鼻の下や頬に、うっすらと産毛が生えている。一見してポッチャリ型に見えるのであるが、実際は驚くほど肌理が細かくて、どの部分もすべすべしていた。兆治はそのことを知っていたし、それは彼を大いに喜ばせた。

手塚治虫がインセクトにセックスを感じていたことは有名ですが、
やっぱり人類はすべからく何らかのフェチなんでしょうなあ、
という出だしで始まるこの小説は、
糟糠の妻茂子との馴れ初め、さよと兆治のすべてを知った茂子の反応、
などを一切書き込まず終了する離れ業を我々に魅せてくれます。
手練の芸、相手側はその時こう思った、みたいに、
複眼的な神の視座で読もうとする読者なんぞいらんのんじゃ。
老獪な作者の意気込みを感じます。
かつての餓鬼大将河原がタイマンで兆治にのされて、立場逆転した後の描写もありません。
覆水盆に返らなかったら、あとはそっとしておくしかないのです。小説でも。

徳富蘆花のころ機能していた三多摩の村落共同体は、
この本の昭和五十四年ごろ、カラオケブーム前夜、
まず青年団の活動休止という形で終焉を迎え始め、
転住した人間かもしれませんが、
工場長から専務になった吉野のような成功者でなければ相続税を払えないため、
住人の顔ぶれもそぞろ変わってゆくのでしょう。
秋本のように困窮して根無し草になってゆく人間は、いつか音信不通になり、
同窓会の通知も出せなくなる。

嫁ぎ先で子を産みながら駆け落ちし、
連れ戻されまた子を産みながら今度は嫁ぎ先を全焼させて
再び失踪しキャバレーに勤めたさよの死因、食道静脈瘤破裂。
こまきのだかよしのだか知らないが、何年後の統計だか知らないが、
アルコール入院者のその後の生存率50%という口コミの数字を思い出しました。
兆治は吉野との戦いから逃げた自己嫌悪から抑うつ(と私は診た)になりますが、
なにもする気が起らず大の字になったまま天井を眺める生活をやめ、
モツ焼き屋として生きていくことを決心し、そして遂行します。
第二の人生を生きる兆治の心を唯一泡立たせた粟立たせたさよは、
無言電話を繰り返しながら何も伝えることは出来ず、死にます。
そして、泡立った
粟立った兆治の心は静かに時が癒すのを待つのだろうな、と思いました。
作者は語らず、読者に思わせる、委ねる。
小説家なんてよくたかられる人種だからやっぱりその辺人物評価辛いやね。おしまいケル。

【後報】
この小説はつげ義春『もっきり屋の少女』の十年後に書かれましたが、
兆治はチヨジのもじりだったなんて真相とか捏造が明らかになったら面白いですね。

(同日)