『続・酔っぱらい読本』 (講談社文芸文庫)読了

ほかの飲酒アンソロジーとけっこうかぶってないか心配でしたが、
杞憂でした。もともと七冊あるところから精選してるので、レベル高かったです。
前巻は埴生雄高が田中英光について語ったエッセーが白眉で、
それ以外にも、武田泰淳堀田善衛の両雄がほこ・たての関係であったことなど、
目からウロコで読みました。
今回の巻でも、吉田ケニチ先生との対談では至極まともに見える河上徹太郎が、
小林秀雄の文ではどうしようもない連続飲酒の酩酊野郎として登場し、
ケニチ先生がウワバミ過ぎて目立たなかった人も、
単体ではじゅうぶんひどいと分かりました。

頁142 伊藤整「酒についての意見」
そして私はゆっくりと地べたに倒れた。地べたの冷たい感じが、この上なく快く思われた。この世でない新しい現実がそこにあった。私は、目に写るものが浮動し、自分の寝ている地面がふわふわと動くのに驚き、こんな楽しいことは、生れてから今までに無かった、と思った。私は笑い出し、立ってよろめいて歩いた。
 その後三十年間の間に私は何百遍か何千遍か酒を飲んだが、二度とそのような楽しい酔い方をした事はない。
 それは多分私がダラクしたからである。酒を飲む時にはいつも何かの目的があり、何かの便宜があり、何かの義理があり、また何か誤魔化さなければならないことがあるのに気がつくようになったからである。そしてまた言いのがれをすれば、自分の方に何かの意味で物事をゆがめる必要がない時でも、きっと、一緒に飲んでいる人が、何かしたいこと、言いたいこと、他人にしてほしいことを持っているのを私は感じ取るのである。そうすると酒は酒でない。シラフの現世の争いやエゴの拡大である。そういう風に思えば、酒の場はシラフの場よりも残忍な、怖ろしいものである。

上記はかなりナットクした意見です。

佐々木侃司の頁173の独り酒は、深夜、ベッドの枕を座布団がわりに、
テレビをつけて、砂の嵐をひたすら眺めながら、
それが七色の試験放送に変わる迄飲むという奇行で、
本人も、翌日は欠勤とあっさり認めています。
で、大阪の浮浪者の酒盛りをうらやましいと書くわけで、
やっぱりヤバいと思うわけです。幼少時ヨッパライがキライだった、
というところから書き起こしているのに、そうなるか。

頁152 加太こうじ「酒と人生」
 夜ふけの車内で、ひとりの若い酔いどれが、まわりにいる女の人をからかったり、すましている若い人にからんでいた。しまいには手に持っていた固い荷物を窓ガラスに打ちつけてガラスを割って喜んでいる。私は立っていって、その男をいきなり突き倒した。酔っているからもろくもたおれて、なにかひとことふたことわめいているのを、いきなりけとばした。それからふんづけた。五、六回ふんづけたら動かなくなった。丁度、駅へ着いてドアがあいたので、そこで降りてタクシーで帰宅した。その酔いどれが死ななかったことは確かである。私は鬱屈した思いを晴らしたように、すがすがしい気分であった。

この紙芝居画家は父親が酒乱のため幼少時親戚に預けられ、
十四歳から紙芝居で生計を立ててきょうだいや母を養うも、
父親にピンハネを繰り返される人生でした。

頁153 加太こうじ「酒と人生」
「酒飲みの気持がわからないのか」などという者があるが、そんな気持はわかっても同情する必要はない。むしろ、酒を飲んでつけあがるようなやつはひどい目にあわせる方がいい。

この辛辣なエッセーが、後半酒の味を覚え、自らの酩酊経験を記す方向に進んでいくので、
私は読んでいて、はらはらどきどきでした。紙芝居という、絶滅する業種でもあるわけですし。
http://ecx.images-amazon.com/images/I/51F-YwP0w4L.jpg
http://ecx.images-amazon.com/images/I/512CCYVM2PL._SY450_.jpg
映画は、開高健が頁213で、上記映画のウイスキー飲み比べシーンに触れていますが、
今調べてみたら、イブ・モンタン主演でありながら、
原産国フランスでもDVD化されておらず、VHSしかないという有様でした。

頁179 野坂昭如「酒歴二十七年の弁」
 あげくの果て、精神病院に、これはあえてお断りしておくけれど、自発的に入りまして、バッカス神との絶縁をはかったのだが、薬石効なく、ただし、いくらか気は楽になった。「あんたの酒乱なんて、序の口だよ、どうってことないさ」と、医者がなぐさめてくれたのだ。

AA第三章挫折編としか思えない長部日出雄の禁酒エッセーがあり、
その前にこの文章があるのですが、むかしのこととはいえ、ずいぶんひどい医者だな、
と思いました。勿論野坂が否認の病のアレから、適当書いてる可能性もあるわけですが。