『グラスの中の街』 (文春文庫)読了

えーすいません、まだ読了してないです。あと5つくらいエッセー残ってます。
これからラストスパートです。(18:48)

【後報】
この人の本を読むのは二冊目*1ですが、
本人の酒癖や酒の失敗を後悔する箇所に惹かれることに変わりはありません。

頁245 文庫版のためのあとがき 一九八七年二月
 酒では失敗を重ねてきた。近ごろは、少し酒品がよくなったと言われるけれど、それでもセルフ・コントロールを厳しくしないと、また失敗をしでかす危険が大きい。

2013年(昨年)に81歳でお亡くなりになられたわけですので、
その後の人生、制御にはまず成功したと考えてよいと思います。

頁21 春を待つ時期
 仕事が思うようにはかどらないときは、気がもめるし、苛々している。それに、空腹が重なると、仕事を途中で投げだして、酒でも飲みたくなってくる。そういうデスペレートな気持はなるべく抑えつけて、

頁78 酒との出逢い
 出会いとか、衝撃的とかいう言葉はなんだか物騒な感じがして、もともと嫌いであるが、酒との出会いだけは、私の場合、甚だ衝撃的であったといわないわけにはいかない。四十四、五歳を過ぎたある日、突然飲めるようになって、おれも人並みになったと思った。酒の味はいっこうにわからないけれど、お酒のおかげで、もう一つの、天国と地獄が共存する世界がひらけたようである。
 そこは別世界であり、お勘定をとらない酒場がたくさんある異次元の世界みたいで、そういうお店をぐるぐるまわっているうちに、はっと気がついたときは、地下の酒場の、鼻は少々低いが美しい女から、「もうイヤ、帰なさい」とつまみだされていたりする。そうして、四、五年前とは似ても似つかぬわが身に愕然とするのであるが、それは一瞬のことであり、夜は長いし、

酒の味が分からないのに飲めるようになったとか、おかしくないか。

頁79 酒との出逢い
 あいつは四十過ぎて、酒を飲みはじめたんで、飲み方を知らないんだよ、と私に半ば呆れ、半ば同情して言った人がいる。まったくそのとおりで、ほんとにいい年齢をして、と実は酒を飲む前からもう反省しております。

半ば同情して、は主観。

頁79 酒との出逢い
 しらふのときは平々凡々、小心翼々として、気弱そうな笑みをうかべているのに、いったん酒がはいると、人が変ってしまうという中年男がよくいると聞いてはいたが、それがほかならぬ私自身であろうとは思いもよらなかった。若いころは、飲むとすぐに顔が赤くなり、胸が苦しくなったのであるが。
 最近は先生のお宅にうかがうと、こちらが危ないなと先生が思われるころ、奥さまがおいしいコーヒーを淹れてくださる。それがうれしくもあり、かなしくもあり、

恩師の前でも酒癖は改まらない。

頁26 タクシーのなかで
 土曜日の午後、都心でタクシーに乗ると、競馬の放送が聞こえてくることがある。助手席にスポーツ新聞の競馬欄が見える。競馬新聞でないところがいい。つつましい感じがする。こういうとき、運転手が小ざっぱりした服装をしていると、私は安心するし、乗ってよかったと思う。この人にとっては、競馬はおそらく気ばらしなのだろう。
 逆に、同じシャツを三日も着ているような運転手であると、私はしまったと思う。後悔したってはじまらないのであるが、タクシーのなかはなにか殺伐とした感じで、運転が乱暴であり、だからなんども急停車する。こちらの行き先が近かったりすると、運転手は舌打ちしたりする。

競馬はよく出てきますが、パチンコは出てきません。

頁89 翻訳の仕事
酔っぱらったときなど、つい悪口を言ってしまうのは、私の悪い癖だ。
 あるとき、ある同業者にむかって、きみの翻訳は下手くそだと言ってしまって、酒場から追い出されたことがある。そのつぎに、しらふのときに、こちらは謝罪したけれども、相手はそっぽを向いていた。こういうときは、ほんとに情けない。口はわざわいのもととつくづく思うのであるが、お酒は私にとって気ちがい水なので、ついこういう失敗をしてしまう。

頁91 ニューヨークでビール
昨年の秋、ニューヨークで三週間ほどあそんだときは、友人とほとんどバドワイザーばかり飲んでいた。昼はハンバーガーを食いながら、バドワイザーをいただき、夕方ホテルにもどると、冷蔵庫から冷えた缶を取り出して、まず一杯という具合だった。

頁107 タクシーでドライヴ
酒を飲んで、酔っぱらって、帰るべき電車がなくなって、やむをえずタクシーに乗る深夜である。拙宅は中央線の武蔵小金井から歩いて十分のところにあるので、新宿からなら三十分、銀座からなら四、五十分である。
 タクシーの運転手が、高速で行きますかなどと訊くと、こっちはもう酔っぱらっているから、恥かしげもなく「オブ・コース」なんて言ったりして、翌朝ちょっと後悔する。
「ちょっと」というのは、大いに後悔しなければならないことがほかにたくさんあるからだ。自分の悪声を忘れて、カラオケで歌ったり、ネチネチと友人にからんだりといった、酒の上での失敗を私はかならずおかしてしまう。

かならず、と言い切れるところがこわいです。

頁183 夏の終りの酒
 酒が飲めない男はかわいそうだ。逃げ場がない、発散するところがない、自分を知ることがない。
 イン・ヴィノ・ヴェリタス――古代ローマの偉い学者の言葉だそうな。酒のなかに真実あり、という意味であるが、くだいていえば、酒を飲むと本性があらわれるということである。わが本性はいかがなりや、もちろん、ひとさまに自慢できる本性ではない。翌朝、後悔することがよくあった。

逃げ場がなくなって知る己というものもあるんじゃないかな、と最近思います。
http://ja.wikipedia.org/wiki/VERITAS

頁236 酒場の沈黙
 新宿の飲み屋で彼女と顔を合わせたことがある。私が酔って一人でその店にはいっていったら、彼女が会社の仲間といっしょにいた。私は彼女の仲間の一人につまらないことでからんで、面罵した。
 そのとき、彼女が私の名を呼んで、ひとこと、帰りなさい、ときつい調子で言ったことを覚えている。私も、自分に非があることを知っていたのだろう。彼女の言葉に従って、店を出た。
 すると、私のあとを追って、彼女も店を出てきたのである。五十メートルほど送ってきてくれた。その途中、彼女が、困るじゃないの、と言ったことも記憶にある。しかし、責めている口調ではなかった。
 そのころ――二、三年前のことであるが――私は荒れていた。仕事でも生活でも困っていて、お先まっくらという毎日だった。それで、若いころには飲めなかった酒がうまくなったらしい。
 彼女は私のそういう状態を十分に知っていて、私を店から追い出したのだろう。私の醜態が見るに忍びなかったにちがいない。私が困りはてていることも知っていたはずである。
 つぎに会ったときは、彼女は何も言わなかった。ただにこにこしていただけである。私は、彼女にわかってもらえたと思った。あるいは、これは私の甘えだったかもしれない。日本人特有の甘えなのかもしれない。
 彼女が何も言わなかったというのは、かなり日本的なことなのではあるまいか。私がそれで許されたと判断したことも日本的であるように思われる。

日本的というか、酒飲みの勝手な思い込みの可能性もあると思いました。

昨年までつくし野に住んでおられたんだなあ。
雑踏ですれ違っていたかもしれない。
人生とはそんなものか もしれない。以上