『牧夫フランチェスコの一日―イタリア中部山村生活誌』 (NHKブックス)読了

これも、麻井宇介『酒書彷徨』で紹介されてた本。
イタリア中部の小さな村の、羊を移牧して暮らす伝統生活と、
その戦後における変容の記録です。
(変容は戦中、ムッソリーニの徴兵制あたりから始まっていますが)

谷泰 Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B0%B7%E6%B3%B0

眠くなりましたし、引用もたくさんしたいので、以下後報です。
【後報】
眠れない頃。眠れる頃。夢は最近一度だけ、久しぶりに見ました。

読んだのはNHK版で、平凡社ライブラリーではどうか分かりませんが、
地名人名は偽名だそうです。
前世紀の日本語出版物で大仰な気もしますが、
日本は前世紀から個人の海外渡航が自由でしたから、
バックパッカーなんかがこの本片手に入れ替わり立ち代わりこの村に来て、
「今夜泊めて下さい」「住み込みでワンシーズン働かせてください」
なんて言語も不自由なのにおっぱじめたら、そりゃめんどくさいかもな、
と思いました。いなかにとまろう猿岩石。う〜るるん。
ja.wikipedia.org
ja.wikipedia.org
ただ、地図は正確なので、村は特定しました。上のウィキペディアは関係ありません。ストリートビューで視れます。
山村ですが、路駐が多かった。おそるべし二十一世紀。

頁16
 村に大きな変化をもたらしたのは、第二次大戦での徴兵という、都会人も田舎者をも、無差別に混ぜあわせ、接触させるという、強制的な撹拌作用による刺激がひとつにはあったと思われる。また戦後の、一種の地方交付金にも似た、開発資金ではじめられた土木工事で、現場の賃金労働者として働きはじめたという経験が、伝統的職業からの離脱をうながした。こうして、多くの牧夫たちが、いわば筋肉労働者として、伝統的牧夫稼業を放棄しはじめ、いわゆる村の過疎化がはじまったのであった。

国内以外だと、イタリア人の出稼ぎ先はアメリカという気がしますが、
(あと、母を尋ねて三千里のアルゼンチン)この村は後発のせいか、
ベネヅエラやカナダだそうです。
先遣隊みたいな、仲間を呼び寄せる成功者がそこにいたのかな。
http://www.cerqueto.net/images/notturno%20cer.jpg
www.cerqueto.net sito della pro loco di cerqueto
日本は家畜飼育というと舎飼いなので、私は放牧の違いがよく分かっていませんでしたが、
住居自体テントで移動する遊牧でなく、
夏の家、夏の放牧地と冬の放牧地や舎飼いを分ける「移牧」が、
この中部イタリア山岳地帯の放牧形式だそうです。
そう言われて標高差のある夏の家夏の放牧地と冬暮す村の生活の説明を読むと、
これはチベットやカザフなんかでも沢山見たな、と思い出しました。
結局何も知らない人間が宝石を見てもそれが宝石だとは分からないんですね。
だから、地名人名の偽名、やはり納得します。
下記は前世紀初頭の話と思われます。

頁28
急病の時は、病人を板にのせて、村人が一時間の山道を走るのをレオナルドはみ憶えている。盲腸炎にかかったら当時は、死ぬものと考えられていた。いや当時は盲腸炎といわず、ドローリ・ディ・コリカ(疝痛)といって、一〇〇人中一人助かったら奇蹟だといわれていた。こんな状態だから、まともに育つ子の方が、幸運だというほかない。レオナルドは、こうして残った一四人中四人の、三番目の子だった。

下記はスイス出稼ぎ(畜舎で牛の世話)の話。

頁59
 どだい、友人以外にイタリア語で話ができる者はいない。ほとんど一日中、沈黙の連続だ。おまけに食事がかれには耐えられなかった。スープとマーマレード、それに果汁汁、それが連日の食事の内容だ。それに連日、一日に五回もそういう甘いものをくいやがる。スープは黒い色をしている。これは本当にたべられるような代物ではなかった。イタリアだったら、残り物はすてるのに、あっちではそうではない。スープが残ったらそれをまた新たに作るスープ鍋に入れて、それを翌日また食べさせられる。それから焼きリンゴ。果物汁といって、リンゴ汁だ。砂糖入りの水みたいなものですべてが甘ったるい。連中はスープの中に、ジャムを入れてのんでいるのだから、想像するだけで胸がわるくなる。パンは一切れだけなので、パンをもっとほしいといったら、農場のおかみは、
「イタリアでは粉食をよくするさ。スパゲッティ、マケローニ。ヴィヴァ・イタリア(イタリア万歳)。だがスイスでは麦が少ないんだから我慢するんだな」

http://www.ilfattoteramano.com/wp-content/uploads/2014/11/cerqueto-1.jpg
下記は戦争が終わって、戦争から若者が帰ってきた時の話です。

頁73
 ところが、いまや家庭をもつ年ごろになっているのに、かれらのほとんどは、村にもはや生活の手段を見出すことができなかった。羊はもちろん、ほとんどが売り払われて、これから増やそうにも、年数がかかる。おまけに移牧の委託経営の口もほとんどみつからなかった。
 農民ならば、村に帰ったすぐその日から、くわをもって土地を耕しはじめれば、やがて収穫が約束される。ところが家畜だけは、一年や二年で頭数を増やすことはできない。牧畜というものは、あたかも利子取得者の生活に似ているといわれる。ある一定の頭数の家畜という動産をもっていてはじめて、その利子とでもいえる乳や肉が生活源になるのである。村の畜舎に十数頭余の羊を飼って、毎日僕地に連れて行くような日帰り放牧の仕事ならば、女子供にだって、輪番で飼育することができる。冬の舎飼い期の乾草刈りは大変な労働だが、これも老人や子供が努力してたくわえれば、これ位の頭数の羊を養うことは可能だ。しかし二〇〇頭、三〇〇頭といった大群を養って、その乳加工品や、肉を売って、生計を保つということになると、移牧は必然であり、その仕事は男手でしかできない仕事であった。徴兵という数年にわたる空白期間が、羊を所有する牧畜経営者にとっていかに大きな打撃であるか。このことは農民とは比較にならない意味をもつものである。戦後、羊の頭数を徐々に増やし、独立した牧夫の地位を保てるようになったのは、この村では、ディ・チェーザレ家のフランチェスコとエヂディオ兄弟だけだというのが、この牧畜頭数の回復の難かしさを物語っている。こうして、相対的な移牧の委託経営の減少と、中小羊所有者が羊を戦争中に手離したという事実とが、村人の伝統的生業からの離脱、そして収入源をもたぬ半失業者に村人を追いやった原因の一つであった。

農民だって撒いてから収穫するまでどうやってつなぐのさ、不作とかあるし、
と思いましたが、この村の立ち位置は分かりました。
www.cerqueto.net sito della pro loco di cerqueto
羊に山羊を混ぜておかないと、羊だけだとばらばらになって帰ってこないと聞きましたが、
逆だったかな。この本だと、羊は自動的に帰路を憶えるとあります。(頁133)
あと、草だけでなく木の芽まで食べてしまうので、砂漠化の要因になるというのが、
羊か山羊か分からなかったので、検索したら山羊でした。この本には書いてませんが。
あと検索したら、羊だけでも決まったルートだけならいいような感じでした。
http://turismo.provincia.teramo.it/il-territorio/la-montagna/la-montagna-teramana/il-gran-sasso/Cerqueto%20notturna.jpg
Fano Adriano — Teramo Turismo

頁164
カリーノは、ブドウ酒をのみすぎたのと、朝からの頭痛がとれないのとで、二階の寝室にあがって一休みすることにした。いったいフィロメナが言うように、観光開発が進んだら、店は繁盛するだろうか。司祭はいつも祭りだとか、事あるごとに、観光局のセルヂオを招待している。道路建設は、あの観光局のセルヂオと、テラモ出身の代議士の肩入れで軌道にのったのは、周知の事実だ。司祭は、村の新時代への適応のために、そして生活の向上のために、それをしているのだと言っている。出稼ぎなどにいかなくともすむように、村に新しい自活の道をひらくことが必要だ。そのためには、この道路建設を誘致し、つぎには資本を導入して、新しい近代的な牧畜経営を村の共同事業としておこす。司祭はこういうことを考えているという。しかし観光局のあとに来るものはなにか。都会の企業家かもしれないのだ。それに、近代的牧畜経営などというけれども、いったいこの村の青年たちのだれが、団結し、協力して、牧畜経営をする可能性があるのか。人民公社などといって、毛沢東思想をききかじった若い連中も、けっきょくみんな技術工をめざし、カナダくんだりまで、ガレージの機械工や、運転手になるために、出かけて行ってしまうというのに。司祭の主張もせいぜい甘い理想というものだ。要は、都会風になじんだ旧村人の、出稼ぎのあとの休息地、夏の避暑地になるのが、せめてもの上出来の村の姿なのだ。司祭のいう村の更生とか体質改善という考えには、どうも、信頼できないなにかがある。カリーノは、こんなことを考えると、自分がどうしたらよいのか心配になって、寝つかれなかった。ベッドの上に、母親の写真が、リボンのついた額縁に入って、かざってある。それを眺めながら、かれは、なにか地盤を失い、足場が宙にういているような、不安におそわれた。司祭の言葉は、幻みたいなものだ。かれは真面目な司祭だし、若者や女の人気と尊敬を集めている。しかし、心を安らげてくれるものは、おれには、やっぱり自然しかない。かれはうとうとした。

https://cerquetoinforma.altervista.org/blog/wp-content/uploads/2013/07/19piano-roseto-rassegna-pastorizia.jpg
作者は、この本を書くにあたって、どのような形式で書くか、
悩み、逡巡したそうです。結果として、上記のような書き方になりました。

調査者の視点として書かず、対象者について、聞き取りを書くのでなく、
対象者の視点として内面の吐露までを書いてゆくやり方を、私は初めて読みました。
よしあしの判断はしません。ただ、私の心に、深い余韻を残しました。

写真、特にリンクはせずにそのまま借りましたので、
そのうち見れなくなるかもしれません。
実際の村の写真だから、URL並べるのも遠慮したので…
村のサイトや州のサイトを見ると、それなりにサイトシーイング来てね!という感じです。
(2014/11/19)