『日本の居酒屋文化 赤提灯の魅力を探る』(光文社新書)読了

http://ecx.images-amazon.com/images/I/51frUznEcFL._AA324_PIkin4,BottomRight,-62,22_AA346_SH20_OU09_.jpg猪口才な帯文句ですよね。
著者が新刊を出したのは、
出した時から知っていましたが、
別に急いで読む必要もないと
後回しにしてました。
が、図書館でぱらぱらめくって、
矢張りこの箇所に
ひっかかったので、読みました。
正確にはこういう文章です。

頁8
 また、あまり想像したくない事態だが、もしドクターストップがかかり、酒が吞めなくなったとしても、私は相変わらず居酒屋に足を運び続けると思う。酒の代わりに烏龍茶で我慢しなければならないのが悔しいが、いつもどおりのつまみが味わえるし、そして何よりも、居酒屋という〈場〉そのものが楽しめるからありがたい。

作者は週一日か二日は休肝日設けてる(頁7)そうなので、
その日に居酒屋に行って、烏龍茶で我慢出来るか、
素面でも同様に〈場〉が楽しめるか試してみたらいい。
いっぺんではなく、何度か試してみる。そうすると、
自分の想像以上に、酩酊の力が〈場〉の形成に関与している事態に気付いて、
周章狼狽、驚愕失禁すると思います。失禁はしないか。すいません。
もともとアルコール分解酵素のない人間と違い、
かつてアルコールによる多幸感を知っていた人間にとって、
その場にいてそれが味わえないというのは、
砂を噛むように、ひっじょおおおぉうに味気ないものですよ。
といって、酒というそこにある道具を使っても、
もう以前と同じような適度なほろ酔いどまりなんて、
絶対に出来ないことは理性では分かってるんですけどね。
だからそこで盃を取り上げない意志の強さが問われたり、
意思ではもうどうしようもない反射の段階まで行っていたら、
扉も開けず店の前も通らず遠回りして帰宅するくらいせんならん。
私は何を熱く語ってるんだ。

作者の前の本の読書感想
http://d.hatena.ne.jp/stantsiya_iriya/20130426/1366951535
それによく似たタイトルの北村薫の小説の読書感想
http://d.hatena.ne.jp/stantsiya_iriya/20130702/1372733936

作者がゆっている〈場〉とは、都市社会学の"Third Place"という概念だとかで、
作者は以下〈第三の場〉と言い直しています。
欧州に於けるパブ/カフェ/バルと、米国に於けるその不在については、
レイ・オルデンバーグという人の下記が考察してるそうです。

で、モラ樣(棒 は、日本に於ける居酒屋がそれ(第三の場)である、
という命題を、この本で証明しようとしている、です。
頁41によると、〈第三の場〉は「同性のみで形成される共同体」だそうで、
そこらへんが頁112でスナックは考察の対象外としている所以でしょう。
でも、マーサ・グライムズの小説*1に出てくるパブは、
日本のスナックみたいなママがいたりして、男男じゃないですけどね。

頁110
 京都の寺町周辺にはちょっと変わった日本酒バーがある。「よらむ」という店名はイスラエル人の店主の名前だが、入口および内装は京都らしく非常に渋く、古酒を含め多様な日本酒がある。しかし全国の日本酒バーのなかで、中近東料理の定番「ファラフェル」をつまみで出すのは、ここ「よらむ」だけに違いない(とは言え、豆腐なども旨い)。当然ながら日本酒バーの店主は地酒に詳しく、ヨラムさんも例外ではない。京都には「玉川」という日本酒を造っているイギリス人フィリップ・ハーパーもいるから、日本酒通はもはや日本人に限られる時代ではなくなったと言えよう。

ほかの人のブログで見た気もしますが、いずれにせよ私は知りませんでした。
いつか行く機会があればいいと思います。後者の人は下記の著書があるとか。

英文版 日本の銘酒ガイド - The Insider's Guide to Sake

英文版 日本の銘酒ガイド - The Insider's Guide to Sake

私も著者のような居酒屋探索は昔やったことがあり、東長崎の北帰行など、
探索の相方がよい時はよい店に行き会ったものです。
京都では、好きなお店は、高齢化で店しめはった。
そのうち、居酒屋でなく、公園などでコンビニ酒で語り合うようになったのが、
あとから考えると、重要な分岐点だった気がします。
本書の考え方を演繹すれば、職場の同僚との飲みや家飲みは、閉鎖系の飲みであって、
〈第三の場〉ではない、〈第三の場〉の化学作用は期待しえないということでしょう。

頁152、中国の客家地方というのはなんか変かな、
イギリスのイディッシュ地方、ドイツのアシュケナジー地方、がおかしいのと同じで。
頁162、百姓は、「お百姓さん」とていねいに呼んでほしい。
高島俊男なんかも百姓は百姓と読んで、馬鹿にする意図はないとしていますが、
丁寧に語りかけるにこしたことはない。

そういう本です。作者ももうすぐ還暦なので、あちこち新規開拓して、
それを書くような時代は過ぎたと思います。いきつけの、いごこちのいい店を、
それは何故か、つらつら書く。もうそんなむやみに開拓しない。
それでいいんじゃないですかね。以上

【後報】
一晩寝て思い出しましたが、作者好みの居酒屋のなかには、
飲まない客お断りの店もあったんじゃないかな。
これも、食べて喋るだけ、の客が、場のアトモスフィアを崩す懸念があるからと、
思います。
(2015/3/19)