とっくりのがんばり―貧乏徳利は呑ん兵衛の味方 (酒文ライブラリー)
- 作者: 与倉伸司,矢島吉太郎,内藤忠行,神崎宣武
- 出版社/メーカー: TaKaRa酒生活文化研究所
- 発売日: 1998/10
- メディア: 単行本
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これも、世界文化社でなく、紀伊国屋書店販売のほうの酒文ライブラリーです。
神崎宣武は監修、与倉伸司と矢島吉太郎が本文。内藤忠行は写真。
浮世絵版画など図版多数。依拠した本も、青木寒郎『とっくりの歴史』日進堂印刷、
山本孝造『びんの話』日本能率協会、など、絶版希少本を特記してますが、
ボーツー先生みたいに、その渉猟の過程にあれこれ脱線は、してないです。
フィールドワークも、1596年創業の猿楽町の酒屋*1、
東京大空襲で資料が焼けたのが残念な東大農学部前の酒屋*2、
各地の窯元に丹念に取材されています。
TaKaRa酒生活文化研究所は、ほんらいこうした知的生産物流布のパトロンとして、
その役割を担えばよかったのに、あれもこれもと拡散してうすまってしまったのかな、
と、思いました。
上の写真、右が、今はオーナー店コンビニになってる、
座間の酒屋の貧乏徳利です。さっき思い出して撮った。
貧乏徳利とは、庶民が二合三合の酒を買いに酒屋に持って行く容器で、
明治以降は酒屋が宣伝文句を入れて消費者に貸し出した*3、
とのことです。この本は、その貧乏徳利の発生から滅亡までをつぶさに追った、良書です。
頁49
江戸時代は絶えず物価が高騰して庶民が苦しんだというイメージがあるが、具体的な数字を調べると現代では想像できないくらい安定していたことがうかがわれる。よく比較に出されるかけそば一杯十六文は、寛文八年(一六六八)から慶応年間(一八六五〜六八)までの約二百年間変わっていない。
そこで本項のテーマである酒の値段だが、これは時代、種類によって大きく差がある。
萩藩江戸詰めの規定。
頁53
ほかに楽しみのない藩士たちは、なにか祝儀ごとがあると、それにかこつけて酒宴を開いたようで、同僚を招いての宴会について、こまかい規定があった。
① 献立は香の物を含めて一汁三菜。
② 酒は三杯まで。盃は中椀より上は禁止。
③ 肴は一種、菓子も一色。
下りもの、「くだらない」語源の話に絡んで、それ以外の江戸の酒。
中部も中国と呼ばれてたとは、なんとなく聞いて忘れてた気もしますが、
こうして実例で聞くと、もう忘れません。
江戸の酒はブレンドが基本だったことに関連して、以下。
頁99
江戸時代から酒を売るには、水で薄めることも盛んに行なわれていた。利益を上げるには、この方法が手っ取り早いからだ。この水っぽい酒は、「金魚酒」(金魚が棲めるほど水っぽい)、「軒醒」(店を出ると酔いが醒めてしまう)などと呼ばれ、江戸っ子に揶揄されている。
で、貧乏徳利は明治以降、鉄道による流通の拡大に伴って、爆発的に全国に普及し、
またハレの日だけだった都市部以外の飲酒の習慣も、徴兵と従軍、その後の人生により、
晩酌、頻繁な飲酒を伴う会合、等々常態化し、全盛期を迎えるのですが、
頁206、昭和十五年(一九四〇)酒税法の改定で酒屋による酒のブレンドが禁じられ、
酒屋に容器を持って小口の酒を買いに行く行為が激減し、
頁218、禁酒法でびんの需要が激減した米国ガラス製品メーカーが、
第一次大戦の好況に沸く日本のニーズに応え、
ガラス一升瓶の自動製造機開発に協力し、世に出た製品が、その透明性のメリットもあり、
混ぜないで直販のみとなった日本酒の搬送具として、
酒屋が貸し付ける貧乏徳利にとって代わってゆき、機械化出来なかったこともあり、
貧乏徳利はその使命を終え、各窯元はいち産業の終焉に際して、
代替商品の発見開発に奔走した… だいたいこんな感じです。
これを一冊でコンパクトにまとめて、図版も多いのだから、本当に良書。
こういう本を陸続と刊行してくれれば、酒文ライブラリーは真に歴史的使命を果たしたと、
言えるのになあと思いました。以上