『創造の方法学』 (講談社現代新書)読了

創造の方法学 (講談社現代新書)

創造の方法学 (講談社現代新書)

上記の写真はいまの講談社現代新書のそれですが、
読んだのはむかじの、ベージュみたいな講談社現代新書です。
1979年初版ですが、はてなでも購入者がけっこういてびっくり。
ほんとうの良書で、ロングセラーなんですね。実用本ということもあるでしょうが…

これも洋酒天国とその時代で紹介されてた本。
⇒訂正:これは埴谷雄高の伝記『奇抜の人』*1で誰かが紹介してた本です。
 どういう文脈でこの本が出てきたか、全然覚えてないですが…
 今後その辺もメモっといたほうがいいですね。奇抜の人の作者の、
 東大の人がいかにも好みそうな本ではありすが、万人受けもする本だと思います。

借りたのは1991年の11刷で、寄贈図書です。1981逝去とのことで、
Wikipediaとかに項目がなく(はてなはありますが、この本の奥付以上の記述なし)、
世界がデジタル化された時に電子化されなかった人生のひとつみたいで、
がしかし、虎は死して皮を残す。連綿と読みつがれた本と思います。

下記は、バークレーサイクロトロン原子力研究所の先の、
ローレンス科学館の子ども向け実験講座、
水の中に立てたローソクの炎に、フラスコをかぶせると、
(1)酸素が欠乏して火が消える
(2)フラスコの中の気圧が低下して、フラスコの中の水位が上昇する

の例を用いて、因果法則を満足させる三つの条件について説明する箇所の前半。

頁79
 さてローソクの実験に戻ると問題はローソクの「焔」であった。ここでは「焔」も概念であると言うことができるだろう。しかもフラスコと焔の関係によれば、フラスコで覆う前は、ローソクの焔は燃え、フラスコで覆えばローソクの焔は消えたのであった。つまり「焔」という概念は「燃える」「燃えない」という、「値」を持っているのである。あるいはもっと簡単に焔の「有、無」というように、「値」が変化するといってもよい。従って焔は変化する「値」を持つ概念、つまり「変数」と考えることができる。それでは次になぜ「従属変数」というように、ローソクの実験の「結果」である変数に、ことさら「従属」という言葉をつけるのであろうか。念のために表四−一をもう一度見ていただきたい。言うまでもなくローソクの焔という変数の、「有」「無」という値の変化は、フラスコの「無」「有」という変化に従属している。「焔」の有無によってフラスコが動くと考える者は、誰もいないであろう。このように「結果」を「従属変数」と呼ぶのは、「結果」をあらわす変数の変化が、「原因」を示す変数の変化に、「従属」しているからである。フラスコという変数の「有」「無」という値の変化は、このモデルに関する限り、なんにも影響を受けずに「独立」している。「原因」となる変数が「独立変数」と呼ばれるのは、この「変数」の変化が、今問題になっているモデルに関する限り何にも影響されずに、「独立」しているからに他ならない。

頁57で作者は、そもそも「概念」という訳語が原語"concept"コンセプトに比して、
難解なイメージを与えるので好きになれないとまず述べていますが、
頁36では「因果関係」"causal relationship"について、日本語では、
仏教の因果タイムアウト以下後報でorz
【後報】
応報で表現してるのは面白いが、仏教と無関係に、日常生活であっても、
酒を飲んだから酔うのであって、酔ったから酒を飲んだと考える者はいないだろう、
と書いています。頁81「因果法則 causal law」でも酒の例は引かれていて、
モーターが回るからスイッチが入るわけでなくスイッチが入るからモーターが回る、
の例とともに、飲んで酔いが回る現象を、酔いが回るから酒を飲んだと考える者はない、
としています。

そうすると、ハシゴ酒は酔ったから飲むわけでしょ?とか、ドライドラry
フラスコに穴が開いてたら火は消えないよね、とかいろいろ屁理屈があって、
アジアの儒教とかは一神教でないから相対論でなんでもかんでもウヤムヤ、
と思いがちですが、一神教だからかどうかは置いといて、
因果法則を満足させる三つの条件の三つめ、
①独立変数②従属変数③その他の変数が変化しない条件の確立、が重要と書いてあり、
変化しないと仮定された変数がパラメター"parameter"と呼ばれるとあります。
で、あちらのアカデミアは、その論証検証において、侃々諤々が常態であり、
常態を維持するためのツールが発達しており、
(論文は手書きでなくタイプライターで、そうすれば即謄写版で回覧配布可能)
学生生活の大半を使ってそのための訓練が行われ、それに習熟するようになる、
ということでした。
(大量の文献を短時間で咀嚼する訓練、プレゼン、執筆、反駁に対する効果的応酬…)
慣れあわないためのプログラムが確立されている、ということかと思います。
一神教多神教の比較文明論なんかに逃げず、分析しきったところがすごい、
と思いました。

しかし、デュルケムの自殺研究、実験的方法、数量的研究法、サーヴェイ・リサーチ
"survey research" パンチ・カードと来て、ヴェーバーまで来ると、
やはりプロテスタンティズムと資本主義の精神なんかは、立証自体が千日手になり、
デュルケムが帰属集団によって自殺のパターンを竹を割ったように分析したようには、
いかないのだなと思いました。侃々諤々から終わらない。
頁136から、作者がバークレーで学んだ、ロバート・ベラ Robert Bellah 1927-教授の、
日本研究の回想になりますが、ヴェーバー自身の中国研究の記述から、
私はやはり、一時期話題になった、余英時の代表作を想起します。

中国近世の宗教倫理と商人精神

中国近世の宗教倫理と商人精神

余英時 Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%99%E8%8B%B1%E6%99%82

頁158の参加観察法が、耳にしたことのある、参与観察とどう違うのか、
調べようかとも思いましたが、検索してません。
参加観察はエイゴで書くと"participant observation"で、
人類学の成果として、ジョン・エンブリーという人の九州「須惠村」調査、
ロバート・コールという人の「日本のブルー・カラー」調査を挙げています。

頁164 現場の体験の生かし方
私はアメリカで十年の間生活して、また日本に帰ってきた。すると今まではなんとも感じなかった日本人の習慣や行動が、奇異に思えてくるのである。それ以来、私は日本の社会を分析するときには、必ず日本とアメリカとの比較をするという習慣がついてしまった。そこで私はミード博士に、私自身の体験を話して「文化人類学」だけでなく、「比較社会学」も、同様な方法をとっていると思うと述べた。するとこの偉大な人類学者は、ワインのグラスを片手に精力的な大声で「いやそれは、あなたが人類学者になったことなのだ」と叫んだ。

何もさけばんでも、と思います。ミードがワインて、どんな参与観察や。
酔っぱらったマーガレット・ミード、見たかった。

白鶴 ミード (蜂蜜酒) [ リキュール 495ml ]

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作者は、60年安保のただなかに積極的に身を置いて、それゆえに、敗北の挫折や、
当時の左翼のセクショナリズムに引くところがあり、
それで渡米したということで、だから、砂川闘争や、原水禁の思い出なども、
それなりに出てきて、それが、米国でのメソッドをカラダに叩きこむ日々と、
交互にオーヴァーラップして、本書を、独特の味わいのあるものにしています。

1931年生まれ。1981年逝去。学習院卒。スタンフォード修士バークレー博士。
1979年本書執筆の、その後の二年間、どんな人生を生きた方だったのか、
知りたいと思いつつ、終わります。以上
(同日)