『昨日の旅』文春単行本読了

『革命的飲酒主義宣言』*1で紹介されてた本。
中公文庫になってますが、読んだのは文春の単行本。諸君!連載とのこと。
違いは、グラビアページが巻中か巻頭かと、解説の有無。
解説が誰か忘れましたが、現代史の予測は当たれば先見の明でスゴいが、
はずれても、なんや恥ずかしいかしらんけど、せんないことやけどもや、まあ、ある。
みたいな感想と、作者が焦ると女言葉になることや、江戸っ子の啖呵を切ること、
など(本文でも出てくる箇所)をトピックにあげています。あと、『現代史の旅』の併読を、
すすめています。本書の南米スペイン紀行に対して、イスラエルなんか旅した本だとか。
あと、後報にします。【後報】諸君!ではなく文春本誌連載でした。S51.3.〜S52.8.
(同日)
【後報】
この本の前段は、下記を巡って、合衆国からリオデジャネイロまで、
点々と南米を移動して、さいご、コントを信奉する「人類教」総本山を尋ねる手記です。
Wikipedia オーギュスト・コント 逸話
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%BC%E3%82%AE%E3%83%A5%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%BB%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%83%88#.E9.80.B8.E8.A9.B1

ブラジルの国旗の白い帯に記されている「秩序と進歩」(Ordem e Progresso)はコントの言葉である。

作者はあっちこっちで言語のスペルを書いてくれるので、例えば、
メキシコシティで泊まったホテルの名前が頁38「ヘネベ(Geneve)」とあり、おおジュネーヴ
と読んでいる方はすぐ分かってうれしくなったりします。
カタカナだけで書かれていたら、永遠に気づかないままだったと。
で、作者の描くブラジル簡史によると、ブラジルは、

頁122
同じラテン・アメリカでも、スペイン領諸国が長い間の戦争によって辛うじて解決した問題を無血で処理して来た。

とあり、いいなあ、と思いました。独立も無血、民主化も無血。
リオのカーニバルは毎年死者が出るほど熱狂するといいながら、
実はそれは交通事故死だったりするような、そんなお国柄をしのばせます。
だから、コントの人類教がパリで青息吐息でも、ブラジルでは盛んで、
ブラジル人の援助によってパリの発祥の地はなんとかいきながらえている、と。
人類教というと、銀河英雄伝説の地球教みたいだなと思いましたが、
全然違うみたいです。

頁147
(前略)コントのいう「人類」とは何かを調べておこう。彼によると、人類というのは、ただ沢山の人間の集合体のことではない。言い換えると、沢山の人間がいても、人類に入る人間もいるし、入らない人間もいる。人間でありながら、人類に入らないものは、例えば、暴政で有名なローマの皇帝ネロであり、フランス革命に活躍し、次々に同胞をギロチンに送り、やがて自らもギロチンで死んだロベスピエールであり、フランスの栄光かも知れないが、ヨーロッパに暴力と混乱とを齎した皇帝ナポレオンである。彼らが人類に入らないのは、「人間の調和」を破るという大罪を犯したゆえである。しかし、そういう大罪を犯さなければ、誰でも人類の仲間に加えられるのか。そうではない。先人から受取ったものに匹敵するものを後人に与えない人間も、同じく人類の仲間には加えられない。学問、芸術、政治というような華々しい領域でなくてもよい。また、絢爛たる大事業でなくてもよい。どんな平凡な仕事でも構わないから、それに小さなプラスを加えた人間、その人たちだけが人類の仲間に入るのである。それが出来ない人間、つまり、人類に入らない人間は、コントによれば、「寄生者」である。また、或る領域で後人のために、どんなに小さくてもよい、或るプラスを残した人間は、その死後も生き続けることが出来る。そう言うべきではない。抑〃彼らは死ぬことがないのだ。彼らは「不死の人間」になる。死なぬというのは、その肉体は亡びても、彼が加えたプラスのゆえに、生者の記憶のうちに、生者の仕事のうちに生き続けるということである。人類は、不死の人間から成り立つ。

こらごっついですね。死者は、生者の記憶に生き続けるうちは、
ほんとうの死を迎えてない、て考えは、倫理として池上永一のデビュー作とか読みましたが、
それがロジックになるとは思わなんだ。それが西洋人のけったいさ。

頁150
 正直な話、一九二〇年代の末、私が熱心にコントの学説を勉強した当時、終始、私の気にかかっていたのは、批判の道具と建設の道具とは別物であると述べている個所であった。気にかかったどころではない、理屈は判るのだが、不満であったし、腹が立ちもした。その反面、どういう訳か、あれから約半世紀、私は、この個所を毎日のように思い出して来た。不満であった理由は簡単で、当時は、マルクス主義が資本主義社会破壊の原理であると同時に社会主義社会建設の原理であると認められていたからである。何しろ、貧困、飢餓、失業の時代で、資本主義の崩壊というマルクスの予言が成就したように見え、また、社会主義を国是とするソヴィエト・ロシアが地上の天国のように宣伝されていた時期である。二つの道具が要る筈はない、破壊即建設、道具は一つでよいのではないか。その考えが私を強く捕えていた。今も、そう考える人が何処かにいると思う。しかし、道具は二つ要る、と説くコントの主張が、長い間、私から離れないで来たのは、その後の私自身の経験が、日々、それに新しい説得力を与えて来たからである。一軒の古い小屋でも、これを叩き壊すのには、何か道具が要る。素手では出来ない。何か道具を使って、首尾よく小屋を叩き壊したとする。しかし、その道具を使って、どんな小屋にしろ、それを新しく建てることは出来ない。小屋の建設には、新しい資材が必要になり、破壊作業とは別の技術が必要になり、自ら別の道具が必要になる。もう少し立派な例を挙げれば、或る政権を倒すのに役立つ道具は、そのまま、新しい政権を作るのに役立つ道具にはならないようである。

けったいな学説が深く胸に残る人は、けったいな箇所が延々気になり、
解決には長い時間を要する。よく気にしますよね、こういうポイントを。

で、この本の後半は、ガラリと変わって、フランコ死去のスペインに居合わせた、
その手記です。作者は人民戦線をソ連による悲劇と見ているので、
バスクカタルーニャまで足を伸ばしてるのに、なかなか目の前の民族主義が、
その脳裏に定着しない。対話までしてるのに、結論を無意識に拒否してる。
何故か。作者の過去の経験がそうさせるのでしょうか。

頁232
 この感じは、見覚えがあった。石川県の内灘が、そうであった。昭和四十九年八月末、一寸した用事で金沢へ行き、用事が済んでから、土地の人に誘われて、日本海に面した内灘へ案内された。その人が私を誘ってくれたのは、かれこれ二十年前、私が内灘アメリカ軍試射場設置反対運動というのに参加していたのを彼が知っていたためである。その事情の一部は、『わた人生の断片』下巻に書いたが、これは、軍事基地反対闘争と呼ばれるものの最初の大規模なケースであった。冬至の私は平和運動に夢中になっていたので、誰かに頼まれて、というより、自分で買って出て、何度も内灘の村へ足を運んだ。村長と言い争いもした。設置反対の村民大会で演説もした。砲弾の着弾点に近い坐り込みの小屋へ行こうとして、裸足で雨の砂丘をペタペタ登って行きもした。闘争資金を東京で調達して、それを運びもした。最初から諦めてかかっている社会党の戦術に腹が立ち、それを批判して、社会党幹部と喧嘩することにもなった。マスコミは、私を小さなヒーローに仕立てたし、私自身、ヒロイックな気分になってもいた。結局、反対運動が破れて、試射場は設置されたが、短期間の後に、それが廃止されることになり、今度は村民の間から試射場廃止反対の嘆願運動が起った。ヒーローは忽ちピエロになり、マスコミの笑いものになった。私が小さなヒーローで会った当時は、共産党員が真面目に働いてくれていた。約二年後の昭和三十年七月、日本共産党六全協があって、今日のニコニコ戦術に転じた。転じた途端に、内灘に対する共産主義者の評価が変った。昭和三十二年二月、久しぶりで私が内灘を訪れたら、土地の共産党員某は、私の顔を見るなり、あの闘争は極左冒険主義の誤謬でした、自己批判しています、と言った。私にも自己批判を勧めるような口調であった。

下記、M君というのは作者の同行者で、日本人です。

頁338
M君が自分を指して、「ハポネス」と言い、少年の一人を指して、「エスパニョル」(Espanōl)と言った瞬間、火がついたような騒ぎになった。彼らは、顔色を変えて、一斉に、「ノー・エスパニョル」と叫んだ。喧嘩腰になった。六年生ぐらいの少年が、自分を指して、「バスコ」(Vasco)と強く言い、隣の少女を指して、「バスカ」(Vasca)と強く言った。それから、一人一人を指して、「バスコ」とか、「バスカ」とか言った。われわれは、スペイン人でなく、バスク人だ、と言うのだ。そんなことを言っても、バスクはスペインの一地方ではないか。スペイン人でないというのは無茶ではないか。しかし、もう手のつけようがない。

無茶で手がつけられないのは作者の固定観念だと思います。
頁273、ナショナリズムを離れた社会主義などというのは、書物の中にしかない。
この辺から、作者の思索は、下記の人の心霊修行に向かってゆく。

イグナチオ・デ・ロヨラ Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%82%B0%E3%83%8A%E3%83%81%E3%82%AA%E3%83%BB%E3%83%87%E3%83%BB%E3%83%AD%E3%83%A8%E3%83%A9

頁353
 知は科学の原理であり、情は芸術の原理であり、意は道徳の原理である。それは今も昔も変らないが、経済成長の進につれて、科学から生れた技術で生活条件が便利になり、芸術から生れたデザインで生活条件が美しく飾られることだけが求められるようになった。困難に堪え、それを乗越えて行こうとする人間の傾向、即ち、意志というものの出る幕がなくなった。却って、意志の必要があるのは、低開発や貧困の所為で、それが不必要になるのが文明や繁栄である、と解されるようになった。事実、貧しい低開発の社会では、種々の欲望を抑えるためにも強い意志が必要であったし、辛い労働に堪えるためにも強い意志が必要であった。意志の弱い人間は、真先に亡んだ。そういう時代であったから、哲学者たちは、意志に特に高い地位を認めたのかも知れぬ。これに反して、現在、「福祉社会」というのは、意志の要らない社会のようである。
 意志の要らないのが文明や福祉の証拠であるのなら、意志を原理とする道徳は、笑いものになるほかはないであろう。

(中略)
 本当に、福祉というのは、障碍に打ち克つための意志が要らないことなのか。自由というのは、欲望に打ち克つための意志が要らないことなのか。

どんどんすごいところに行ってしまう。

頁334
服従によって抑圧されたエネルギーがあるとすれば、それは、活動のために蓄積されたものであり、活動を通じて存分に解放されるであろう。また、自らの意志と努力とを信じて修業の道を辿り、自らの欲望や弱点に打ち克った人間であれば、自己放棄としての服従のうちに自己の勝利と満足を見出すであろう。

イエズス会マルクスのモデルになった由縁でしょうか。
けっきょく、思索思索でこっちに行くわけですが、ファランヘ党員の入れ墨に反応したり、
旅程をヒコーキから車にしていろいろ直接的に感じようとしたり、で調子崩したり、
それは南米の点と線のアメション旅行でもそうなって、しかし、どこに行っても、
ホテルに冷蔵庫があればミネラルウォーターをいちいちボーイに頼んで、
チップ払わなくてもよいと気をよくしています。そういう旅行記です。
(2016/1/5)
【後報】

写真と本文は関係ありません。

頁322
 クラウスは、私より十五歳の年長、白皙長身、紅毛碧眼、絵に描いたような西洋人であった。当時も、現在も、私には、こういう西洋人が薄気味悪くて仕方がない。彼が私との間の距離を縮めようとしているのは、よく判っていたが、彼が縮めようとするたびに、縮まらないように私は退いていた。自然に、そうなった。わたしは duzen のことを思い出す。これは、フランス語の tutoyer に当る言葉で、相手を Sie(あなた)でなく、du(君)で呼び合うことを指す。特別の親密な関係でなければ、duzen は行わない。或る日、クラウスは、これからは互いに du で呼ぼう、と私に提案した。Sie と違って、du となると、動詞の変化が面倒になるので、煩わしいとは思ったが、それもドイツ語の勉強にとって無駄ではあるまい、と考えて承諾した。ところが、それを実行しようという段になると、或る儀式が必要である、とクラウスは言う。彼の説明によれば、所定の型に従って、二人が腕を組み合せて、一つのグラスで葡萄酒を飲まねばならぬ……。その話を聞いているうちに、私はひどく不潔なものを感じて、duzen は御免蒙ることにした。絶対に厭だ、と私が言ったら、クラウスは、悲しそうな顔をした。

鋼鉄の童貞(精神的な意味で)。なにものかに屈服したり、無力を感じて受け入れたり、
といった経験がないのだろうなと思います。それならそれでよい。
(2015/12/19)
【後報】
参与観察としては、あくまで他者、観察者として終わる。しかし、その理由はある。
しかし、そこに不自由さを感じたのが、私の読書感想です。以上
(2016/1/5)

【後報】
忘れてた。作者特有の言い回しとして、

・夙に
・ファッシスト
・シャビエル

があります。以上
(2016/1/5)