『流』読了

流

昨年七月三十一日にリクエストして、常時九十人前後待ちを、
一歩一歩順番が上がって、一昨日の前日借りれました。
市内図書館蔵書七冊。今も後ろに八十五人待っています。

ハギワラながれと読むのかと思いましたが、「りゅう」でした。
この漢字は、北京語でもリウと読みますが、ひらがなの振り仮名なので、
日本語で読ませるのでしょう。私はいまリウと書きましたが、
作者的には國語読み、「リョウ」とカタカナ振るかもしれない。
主人公の名前「秋生」が「チョウシェン」とルビ振られてますが、
私がルビ振るなら「チウシェォン」と振るだろうからです。
ネイティヴにあれこれ言うのはおこがましいのですが、
「チョウ」だと捲舌音の“臭”を連想してしまうので…
捲舌音を全部正しく捲く人間は満洲八旗ぐらいだと思うので、
作者は“臭”をツォウと発音する…、わけではないとは思います。
「生」はセンと発音してるかもしれませんが。
主人公の祖父の名前に「ヅゥンリン」と振ってますが、
“尊隣”のピンインはzunlinですので、ピンインで学んだ人は、
ためらいなく「ズンリン」とルビ振ると思います。
その辺國語と普通话の違い、外国人とネイティヴの違い、
今天が近甜になる山東(しかも「ギン」)の違い、いろいろあると思います。
頁21の劉、これも作者はリョウ、私はリウ。同じページ、淮海戦役の、
中国語ならワイハイを、ワイカイとルビ振ってて、海を日本語読みしてて、
けど淮南子はえなんじだけど、淮海はワイカイでいいんかな、
と思ったりしました。頁24、高粱のルビはガオリャンでなくコーリャン

表紙の写真はChendongshanという人のShutterstock.comというところの、
写真とありますが、そこのページ見て、表紙のは見つからなかったです。

http://www.shutterstock.com/gallery-706162p1.html

売れたら削除するんですかね。山東の写真なのか知りたかったのですが。
以下後報ですが、直木賞審査員のしとたちは、
ホントは中森明菜直木賞あげたかったけど、明菜は歌手なので、
小説とかじゃないのであげられないので、これに直木賞
ということじゃいか、と思ったのは先に書いておきます。

【後報】
東山彰良 Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E5%B1%B1%E5%BD%B0%E8%89%AF

<作者の中国関係の著作読書感想>
『ラム&コーク』 (宝島社文庫)
http://d.hatena.ne.jp/stantsiya_iriya/20150802/1438466930
『さよなら的レボリューション 再見阿良 (ツァイチェンアリャン)』
http://d.hatena.ne.jp/stantsiya_iriya/20150811/1439295523

頁17、江南の蒋経国伝は面白いです。ニコラとウクライナ人?老婆*1のなれそめとか。

蒋経国伝

蒋経国伝

父親との確執の部分などが気に障ったんでしょうかね。

頁17
十年後、蒋経国は竹聯幇の大親分陳啓礼をサンフランシスコへ送りこみ、自分の批判的な伝記を書き著した江南を自宅で殺害させることになる。

頁50、厦門にあるキリスト教系高校ってなんですかね。改革開放前のはず。
厦門に集美という、華僑設立の金満学校があると聞いたことがありますが、
それのことかな? でも年代とかあってるかな?

この小説も、私が読んだ作者の2作同様、ジュブナイルというか、
青春小説ですが、七十年代台湾の青春ということで、作者や、
作者の父親とも年齢があいませんので、誰か親戚の話なのか、
取材に基づいたフィクションなのか、なんなんだろうと思いました。

郊外のアメリカ白人の好む遊び、ロデオなんかが、
驚くほどネイティヴアメリカンの好む遊びと似通っている、
という話をまたしても思い起こす小説でした。
外省人家庭の話なのですが、狐と狐火は無論、西瓜頭の幽霊など、
そのまま台湾の地霊祖霊が見せる幻の話ではないでしょうか。
タンキーとかキョンシーの世界。人間などしょせn器に過ぎず、
その土地の、地理と歴史からは逃れられないんでしょう、移民含め。

頁185
「うち、おじいちゃんが殺されたじゃん」

他の作品でも思いましたが、なぜ作者はクッキングパパの國育ちなのに、
じゃんか言葉を使うのでしょう。分からない。

甲府 

まあ、上の甲府のように、じゃんか言葉も、私の知る言い回しと、
違ってくる地方も、あるみたいですけれども。

頁196
生粋の台湾人にとって、おれウオがおえオーになるのは仕方のないことだった。

馳星周不夜城の主人公は、本省人の子孫でありながら、
台湾語を教わらなかったので話せないという設定でした。
この小説の主人公は外省人ですが、台湾語を、
まったく知らないはずはないので、こうやって触れているようです。

頁309
「わたしたちはみんな、いつでもだれかのかわりなんだもん」

主人公は妻と國語で会話し、彼女は高雄出身なのにきれいな北京語を話すそうです。
台湾語だったら、また全然違う性格、本来の性格をみせるような気がします。

ラストは頁294を読んだ後に来るわけで、だからこそ、
印象が深いと思います。しかし、こういう経験って、そんなみんなあるかなあ。
ないにこしたことはないので。以上
(同日)