『美酒一代―鳥井信治郎伝』 (新潮文庫)読了

美酒一代―鳥井信治郎伝 (新潮文庫)

美酒一代―鳥井信治郎伝 (新潮文庫)

昭和六十一年の初版を借りました。表紙は上記のものではなく、巖谷純介の、
黄色のグラデ地に、白黒反転したダルマや白角が右上から左下にナナメに流れてゆく図。
ウイスキーとの対話 『サントリーオールド』とその世界』*1に出て来た本です。
山本容朗の解説を読むまで、『天皇の料理番』の作者とは知りませんでした。
伝奇伝記小説の騎手旗手とかで、頭山満辻正信徳田球一
ずいぶんいろんな人の伝記を書いているんですね。滝田樗陰が誰か分からなかったので、
いま検索しました。

杉森久英 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%89%E6%A3%AE%E4%B9%85%E8%8B%B1
滝田樗陰- Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BB%9D%E7%94%B0%E6%A8%97%E9%99%B0

頁116
 鳥居信治郎は青年時代、大いに飲み、大いに遊んだらしい。だから酒の味というものを知りつくしてはいたが、彼の酒に対する考え方は、意外に厳しかったようである。彼は酒づくりに全生命を打ちこみながら、これは酔っ払いをつくるためのものではないと信じていた。
 あるとき雲雀ヶ丘の自宅で、次男の敬三と末子の道夫(現サントリー副社長)の二人が、いたずら半分にビールの栓をあけた。敬三は酒に強い方で平気な顔をしていたが、道夫はほんの一口飲んだだけで真っ赤な顔になった。
 ところがその日に限って、いつもはほとんど家にいたことのない信治郎が帰宅しており、子供たちの部屋に入って、このさまを見つけた。
「お前ら、何をしとるんや!」
 例によって、雷のような怒声が二人に浴びせられた。ところが敬三は、生意気ざかりの学生であった。
「酒を飲むことが、なんでそんなに悪いんや。お父さんは、酒づくりやないか。酒を飲むことが悪いんなら、お父さんはなぜ、そんな悪いものを造って売ってるんや」
 敬三は、負けずに言いかえした。自分が生命を賭けている職業を、それも自分の子供から批判されて、信治郎の身体は怒りにふるえた。
「お前らに飲ます酒は、造っとらん!」
 信治郎は、そこにあった花瓶を手にとって、投げつけた。彼は、百薬の長としての酒づくりを、自分の生命としていた。酒は長寿の薬、寿薬だと信じ、寿屋の社名も、社運の発展を祈るとともに、実はその意味も含めていたのである。だから彼は一生を通じて、他人の酒の乱れに対しては、いつも厳しかった。戦後になってから、酒の正しい飲み方と酔っ払いの追放の広告をしようと自分で言い出したのも、そういう考え方が基本にあるからであった。

へえと思いました。簡潔にして要点をつく本でしたが、ニッカの竹鶴サンについて、
我々はNHK朝のマッサンで、両者並列互いに尊重の関係という刷り込みがありますが、
この本では事実のみを四ヶ所か五ヶ所書くだけで、わりとそっけないです。

頁123
 実際のところ、信治郎のブレンドが真にその力を発揮しはじめたのは、山崎の原酒が次第に良くなってきてからのことである。良き原酒があってこそブレンドも生きてくる。しかしそのためには、京都帝大の片桐英郎博士らの意見を取り入れ、さらに台湾の専売局から、日本でアミロ法による醱酵を最初に成功させた、上田武敏や佐藤喜吉らを社に招く必要があった。多くの学者と技術陣の知識と研究が加わって、はじめてサントリーは、サントリーとしての味を身につけたのである。
 不幸なことに、初代工場長・竹鶴政孝は、これらの新しい技術陣と相容れず、またブレンドについても、鳥居信治郎と意見の一致しないところがあり、後日、信治郎が始めた横浜のビール工場に移り、そのあと寿屋を去って北海道へ渡り、大日本果汁(ニッカウヰスキーの前身)を設立した。

池田隼人や、私にとってはLT貿易の人、高碕達之助が出てくるのも意外でした。
そういう交友関係があったんですね。全然関係ないけど、モーニングで連載中のマンガ、
疾風の隼人に、いつ岸信介が出てくるのか、首を長くして待っています。
今はまだ巣鴨プリズンにいるんだろうなあ。この人は獄中でも毎朝朝立ちしてたとか。
出所時は佐藤栄作の家に行って、マグロの寿司食うんだったかな。
武田泰淳の『政治家の文章』(岩波新書)で読みました。記憶違いがあったらスミマセン。
で、そんなこんなで、サントリーの白洲は、白洲次郎から来た名前かと思ってました。
山梨県の二十二万坪の工場から来てるんですね。勉強になりました。以上