『チベット 聖地の路地裏 八年のラサ滞在記』読了

チベット 聖地の路地裏: 八年のラサ滞在記

チベット 聖地の路地裏: 八年のラサ滞在記

もう一冊、チベット関係の新刊で買った本。
東アジア関連専門書店からの情報で刊行を知りましたが、買ったのは八王子のくまざわ。
旅行書コーナーか東洋史現代社会どのコーナーか分からず、店員に調べて貰ったら、
宗教書のコーナーにおいてたそうです。法蔵館という京都の出版社がまず懐かしく、
箱入りハードカバーかと思ったのですが(それで本体\2,400は安いと)、
ソフトカバーで、あまつさえ中の写真はすべてカラーの本で、
法蔵館も変わる時代は変わるみんななんでも変わる、と思いました。

かつて、ラサ入りを目指す外国人がゴルムドの公安チェックで陸続とはねのけられ、
地球の歩き方チベット編に、通天河だかタングラだかで肺炎で死んだ、
潜行志望者の話が載ってて、ムダ死にはするな、みたいな伝のあった時代から、
(旅行人には、馬で星宿海を旅する、プロ中のプロみたいな話もありましたが…)
何はともあれ青蔵鉄道が開通し、カネを巻き上げる公安以外のイメージも、
対外的に見せなければいけなくなった時代、幸運にも多年に渡り、ラサに滞在し、
ダラムサラブータンの経験も踏まえて本を書くことの出来た、
そういう、幸せな本だと思いました。書けないことと書けること、
これを書こうという気持ち、読んでいて、非常にその選択が、見事だと思いました。

変わらぬ(と思えた)バルコルの記事、その後八角街も閉塞という記述(頁40)、
西蔵大学の垂れ幕写真(頁21)、ガラスがすべて叩き割られ、閉鎖された時代の、
話を聞いたのが、昨日のことのようです。

作者は最初フィールドワークのロンドン大学院生として滞在したとあったので、
访问学者の查证ならいれるんだと思いましたが、そののち旅行社の駐在員とあり、
名大の理系出た人が、こうやって天路歴程するさまは、やはり学歴の鬼、
と思いました。

頁42 茶館のアンスロポロジー
(前略)まるで「民族の結界」となっているかのように、漢民族はほぼ皆無である。彼らがこわくて近寄れないほど、なんとなく無政府的な空気が漂っているせいかもしれない。
チベットの伝統」だと語られることの多い茶館であるが、その歴史は案外新しい。二十世紀初頭、イギリス軍がラサに駐屯していたときに広まったものなのだ。

(中略)
 そういうアウトローな気の流れは、なにも政治方面だけではない。茶館に一日中入り浸る同胞を揶揄する、ある謂れがある。「資本金のない商人、車をもっていないドライバー、僧院から追われた坊主、客のいないツアーガイド、離婚したばかりの男女」云々。つまりは、社会的に属する場所がない、住む場所がない、食っていくあてがない、そういう人間が集まる場所だというのだ。

別の個所で作者は、チベットの笑い話は笑いのツボが日本と異なるせいか、
彼らほど爆笑出来ない、と具体例を挙げてこぼしてますが、ここは面白かったです。
そこで作者が描かなかった性に関する話は、頁74で、仏教の女性に対するアレと絡めた、
チベットではまだまだ女性は受け身、という話で少し推察出来るかと思います。
あと地形の、泉の話で。私は、チベット人はあっけらかんとエロ話が出来るので、
日本人的にはいいと思います。漢民族は、ムッツリスケベ(死語)なので、
どうも表面的なキレイ事ばっか言ってて、やることは逸脱してるのにアホか、と…
儒教のせいではないだろうと思っています。

頁57
地域ごとに固まりすぎてバラバラなそのチベット人たちに、中国に対する決起の行動を広く呼びかける言葉として選ばれたのが「ツァンパを食す者」であった(*)。団結することの難しいチベット人であったが、ツァンパという食文化のコードは、偏狭な地元主義の垣根をいとも簡単に越えることができる。
 二〇〇八年三月にチベット全土で勃発した抗議行動は、我々の記憶にも新しい。勃発当初、ラサのジョカン寺の前に集まった群衆のなかからは、ツァンパの入ったザックを背負ったチベット人が現われ、「ツァンパを食べる者よ、集まれ!」(ツァンパサニェン、ペーショー!)の掛け声とともにツァンパを配っていたという。今のラサをみると、四川料理など漢民族の料理を好む若い世代は増えてきているものの、チベット人のあいだの民族意識も微妙に働き、ツァンパのリバイバル運動も起こってきているのも事実である。

(*)Shakya, Tsering (1993) "Whither the Tsampa Eaters?" in Himal Sep/Oct, 1993

ここ、もう一冊の本で、ダラムサラの若い世代の、ツァンパ離れを読んだ直後なので、
非常にシンボリックに響きました。どんな符牒やねん。

チベット、薬草の旅』読了
http://d.hatena.ne.jp/stantsiya_iriya/20160905/1473023998
下記と同じページの記事で、中华人民共和国推荐の第11世班禅喇嘛は写真が売られてない、
別にそれで困らないのだろうなと思いました。

頁177 中国で愛国エリート教育を受ける子供たち
 意味不明な言葉を混ぜて話す人間のことをチベット語で「ラマルク」という。「ヤギでも羊でもない」という意味であるが、漢語まじりのチベット語を話す同胞への侮蔑語である。私の生徒たちは典型的なラマルクであった。
 中国の漢化政策だとの批判はむろんされうる。十代の多感な時期に、チベット語チベットの伝統習慣から離れ、漢民族のそれに親しませるというのは、チベット亡命政府が非難するような「民族文化の虐殺」に直に繋がっている。しかし、ここで一呼吸おいて考えるべきは、この天地教育プログラムが当のチベット人のあいだで大人気となっているということである。自分の子供にチベットでは享受できない「質の高い」高等教育を受けさせ、将来の社会的・経済的な安定を確保しようとするのである。実際にこのプログラムの参加者たちの多くは、政府の官僚や起業家、技術者などの専門職に就き、チベット社会の中枢を構成していく。
 しかし興味深いことに、ここで再び反転がある。彼等中国帰りのチベット人たちは、チベットの文化や習慣から疎外されてしまったがゆえに、逆に自分たちの民族意識がより一層強くなっているのだ。剝奪されたものへの希求というべきか。また、もともと優秀であるうえに、外国留学のような異文化体験のため、チベットの現況や自分自身を客観的に見ていく知恵も意志も備わっている。私は大学の授業の中と外で、彼らの深刻な漢化とチベット民族としての誇りを両方目の当たりにすることになる。

ここがいちばんよかった。むかしの地球の歩き方に、北京送りになる優秀な子どもの、
行く前の泣きそうな不安な気持ちの吐露が紹介されてましたが、もう何十年も続いてるので、
現在ではこういう状況なんだな、と分かりました。北京の中央民族大学でも分かることなのか、
ラサで、疎外の現実を見た上で、さらに対話してプライドが見えないと分からないことなのか。
矢内原忠雄帝国主義下の台湾』を内地でむさぼり読んだ台湾人学生の気持ちを、少し考えました。
関係ないけど。

頁166でアムドに対するヒャサ人の言が紹介されてますが、そんなこと言ったら、ゴロクとか、
さらにどうなるのかと思いました。実際どれだけアムド方言はヒャサと違うのか…
タシデレがチャシデラになると聞いた気もしますが、模造記憶な気もする。
トゥジェチェがグワzジョeンチェになる、これは確かです。
でも、日本語だって、ありがとうがおおきにになるしなあ…

頁215、海外渡航が漸次解禁される中国で、西蔵からインドに正規に渡航して、
亡命政府の宗教行事に参加して、総額七千万元(当時のレートで約十二億円)の寄付をした、
チベット富裕層数千人の話、チベットウォッチャーなら知ってるのでしょうが、
知りませんでした。その後、全員が帰国後逮捕再教育、西蔵の戸口のあるチベット人は、
以後全員パスポート強制没収されたとの由。ホントに銃口による統治だからなー。

頁220/221、仏教が己の欲望によって毒に転化するとは、ナニ教でもいっしょだな、
と思いました。都合のよい解釈ばっかり。死者との向き合い方もよかったです。
死者を忘れないことが供養の日本と、輪廻のさまたげになるから、忘れるべしのチベット
死者が忘れられることがつらいのでなく、いちばん辛いことは生きてるうちに直面する。
そっちがだいじ。う〜ん、そういう気づきが得られるほど、つきあいはなかった。
いい考察だなあ、よい時間を過ごされたのだな、おめでとうございます。そう思います。以上