『僕の昭和史Ⅲ』(講談社文庫)読了

カバーデザイン 田村義也
完結巻はセッタ。今日はⅠ、Ⅱ巻の読書感想を書くつもりが、
Ⅲ巻をとりあえずここに置いときますね、で終わってしまいます。後報。 
【後報】
頁36、マルチン・ルッサー・キング牧師
詰まる音に聞こえるものですかね。

下記は、ソ連のすべてをクソミソにけなしたジッドが唯一ホメたという、
チナンダーリの地酒を、ジッドはカヘーチヤというところで飲んだそうですが、
それをモスクワ市内で、作家同盟の招待旅行で、小林秀雄らと味わう場面。

頁73
 チナンダーリの白葡萄酒を初めて僕らが飲んだのは、モスクワのアラグビーというグルジア料理のレストランで、そこは堂々とチップをとることでも有名な店だった。ソ連ではチップは奴隷制の名残りだというので禁止になっており、普通はホテルでもレストランでもチップは受け取らない。もしチップをとって、それが表沙汰になると営業停止を食うからである。しかるに、そのアラグビーという店だけは、何べん営業停止になっても、平然としてチップをとる。これは店主がグルジア出身であるため、スターリン時代には特権的にチップをとることを許されてきたからだという。フルシチョフ政権になって、スターリンは批判され、政府からもスターリン一派は一掃されたはずなのに、なぜこの店がスターリン時代の特権を固執するのかわからないが、とにかくこの店は、料理もサーヴィスもソ連としては例外的に、おそらく西側の国の一級レストランに匹敵するものと思われた。僕らはタバカと称するヒナ鶏の丸焼きをとったが、鶏の味も焼き加減も申し分なく、とくに炭火でこんがり焼けた皮を、にんにくの利いたサラダ・ドレッシングみたいなソースに漬けて、ジュッと音のするのを口に入れると、焦げた匂いと淡い塩味が何ともいえずウマかった。そして、これと辛口の白葡萄酒チナンダーリとは、じつに好く合うのである。

作者は東京オリンピックで、市川崑の記録映画に協力します。新興国の選手団を、
ひとつ軸に据えてやろうということでチャドを選ぶくだり。

頁119
  ○早朝の明治神宮参道。朝モヤのなかに欅の並木が浮かび、樹木の幹をとおしてチャドの選手の走る姿が見える。選手たちが走りやめ、カメラに向って歩いてくる。と、日本の子供たち数人、駆けよって選手たちにサインをせがむ。
  少年「サイン、サイン……」
  選手はとまどって首を振り、チャド語でつぶやく。「わからない、わたしわからない……」
  少年「サインだよ、名前書いてくれよ」
  選手、やっと了解したように微笑し、少年のノートにマジック・ペンで大きく署名する。
  ○画面、チャド文字によるサインの大写し。
 きわめてありふれたものとして、こんな場面を想像したのだが、実際にやってきたチャドの選手に会ってみると、これがまったく見当違いであることがわかった。第一に彼等はフランス語をはなし、チャド語というものは存在しないというのだ。無論、土着の言語はある。だが、それは一つの村、一つの部落のなかだけで通ずる特異な方言であって、国全体で通用する言葉はないというのである。固有の国語がないぐらいだから、無論チャド文字などあるわけがない。こんなことでショックをうけたのは、われわれが父祖代々単一民族、単一言語の島国のなかで育ってきて、外国、とくに新興国というものに、まったく無知であったせいにすぎない。

作者は戦前のベルリン五輪とその有色人種の扱いや、中止になった東京五輪が、
思い返され、頁128、ベルリン大会で幾つもの金メダルを取った黒人選手オウエンスが、
オリンピックのあとプロになって、馬と駆けっこの見せ物をやっているという話を新聞で見て、
妙に裏悲しい気がしたものだ
と書いたりしてます。

http://eiko-runner-movie.jp/
この映画見損ねたんですが、こう書かれると大変な第二の人生で、
それもちゃんと映画に描かれてるんかなあって思います。
ナチを悪役にした映画で、アメリカでも辛かったにしてしまうと、
メタになって、白黒はっきりしないと感動出来ない観客が戸惑うと思うので。

頁122
 開会式がはじまった。ファンファーレが鳴りひびき、選手の入場に先き立って、少年少女の鼓笛隊が行進する。
「こんなの、たいしたことないよ、創価学会の運動会のほうがよっぽど凄いよ……」
 僕のとなりで、フリーのカメラマンN君がつぶやく。しかし、それは胸の高鳴りを押さえようとして言っているとしか思えなかった。

(中略)
各国選手団の列が、次つぎと入場して、流れるように行進し、天皇の席の前でいったん国旗を傾けて通る。天皇はそれに手を振ってこたえる。――ともかくこれで日本は国際社会に復帰したことになるわけだろうか。僕は、胸に何かが突き上げてくるのを感じながら、わけもなく口の中でつぶやきかえした。
「平和はいいな、平和は……」

頁170あたりで、文化大革命について書いていますが、
これに日本で真っ向から反対したのが三島由紀夫で、
これ以降彼は盾の会を結成して真逆の方向に突っ走っていくとして、

頁171
この一連の動きをみると、やはり文化大革命が起点にあって、三島氏は紅衛兵的な私兵を養成するなど、毛沢東に学んで、その反対側の路線をまっしぐらに突き進んで行ったものと言えるだろう。

この視座は目からウロコで、私には新鮮でした。
作者の太宰評もよかったのですが、(戦後の斜陽や人間失格はホメず、
戦中の、徴兵に対して本物のモラトリアム、逃避を発揮する文學をホメる)
Ⅱ巻でしたかね。メモしわすれました。

下記は復帰前のオキナワ。

頁174
米軍基地のなかも見学させてもらったが、そこにはかつて日本全土が占領下に置かれていた頃の威圧的な差別感は目につかず、沖縄人のオバさん連中が基地の内部のゲーム・センター(?)に這入りこんで、わきめも振らずスロット・マシーンをガチャンガチャンといわせている姿ばかりが、印象深かった。
 基地のなかに、沖縄戦を記念する博物館があり、米軍が日本軍といかに戦い、いかにして勝利をおさめたか、その作戦を電気仕掛けで見せたものがある。それを見ても、僕はべつに興奮はしなかった。ただ、帰りがけに、日本軍から鹵獲した兵器が飾ってあり、その中に十一年式軽機関銃があるのを見たときだけ、一瞬胸を突かれた。この軽機は、僕が入った歩兵部隊でもさかんに使われたものだが、その性能は極めて悪く、一時間の戦闘訓練中、四挺のうち三挺までが毀れて動かなくなるというシロモノであった。沖縄の攻防戦であの機銃をあたえられた機関銃手は、敵兵を前にして弾の発射できなくなった銃をかかえて、どんな叫び声を上げただろう? それを考えると僕は、シーンと静まりかえった広漠たる米軍基地の、どこかしら旧日本軍兵士のすすり泣く声がきこえてくる気がした。

民間人の犠牲とか、おいおい分かっていったことなので、この時点では、
こう書いてても仕方ないかも。水際作戦を敢行せず、4月1日米軍無血上陸で、
内陸に引きずり込んだかて狭い島やで、民間人犠牲になるの分かり切ってるやん、
みたいな話はまだ出てこない時代でしょうか。同様に、中国に関する部分では、
日中友好満開時代で、まぼろし派はひっそり息をひそめてた頃なので、
そういう気づきもないです。

21世紀にも動作テスト出来たり、さらにコメント欄で冷静に考察されてたりと、
この世界の奥の深さに簡単に触れることの出来るインターネットってすごいですね。

ここのコメントはよく分かりません。陸上自衛隊負の遺産でも継承されたんですかね。

頁189
ハーレムに行くなら、黒人と結婚している日本人妻を探して、案内して貰うがいい、そういう日本人妻は創価学会に行けば会えるだろう、とそんなアドヴァイスをしてくれる人があったので、僕は電話をかけたわけだ。

黒人の変化に伴って、ハーレムが危なくなったので、こういう展開になり、
何故か作者はあちらの会館に行って、あちらの信者が日本語の法華経を大合唱したり、
セレブ御用達の高級住宅街でも、メディテーションの一種として、
ゴンギョーやる白人たちに逢ったりします。で、その時は、学会は、
もっとアメリカで広まると思われていたが、韓国系の別の新興宗教に押されて、
思うように伸びなかったそうだが、ほんとかどうか知らない、と書いていて、
ほんで、何故か、下記のニュース思いだしました。

産経ニュース 2016.6.30 16:43
テレ東社長「特定の宗教に加担する番組は作らない」
http://www.sankei.com/entertainments/news/160630/ent1606300011-n1.html

あとは、最後のほうで、高野生のよど号犯人グループインタビューとか、
それに関連して連合赤軍に触れて、

頁248
要するに、旧軍隊をリンチのプロとすれば連合赤軍はアマであろう。たかだか三十人に足りない兵力しかないのに、十二人も殺してしまってはどうにもならないはずだ。

と書いたりしてます。本書は1988年、バブル前夜に刊行されてますが、
エイティーズの風俗に関する記述は見つけられませんでした。
かつての友人の、戦争の死にざまをその連隊の生き残りに聞くとか、そういう展開。

最後にあとがきと、野間文芸賞選評のことばのラレツ。
作者の人生、やっぱりⅡ巻の脊椎カリエスとその治癒が大きかった。
そしてそこがいちばん読めた、と思います。以上
(2016/12/27)