『家はあれども帰るを得ず』読了

家はあれども帰るを得ず

家はあれども帰るを得ず

家はあれども帰るを得ず (文春文庫)

家はあれども帰るを得ず (文春文庫)

読んだのは単行本。
【カバー写植印字】前田成明(帯・別丁扉も)
【用紙】カバー・別丁扉…リベロナチュラ
    表紙………………リベロ・タン
    見返し……………リベロ・ミスティ
装画 矢吹申彦
装丁 日下潤一

あとがきあり。いろんな雑誌に書き溜めた随筆をまとめたもので、作者はあとがきで、これはエッセー集ではない、噂話集であると書いています。さよけ。家族の思い出が多く、たまさか昔の彼女の話、対人恐怖症?だかなんだかで始めたばかりのフリーライター生活が閉塞しかけた頃のプール通いの話、銀座で勤めた出版社の話、逼塞の頃読み出した日本近代文学/文豪の、面白い話、etc.

頁63「軽免許と「軽」軽自動車」
 なんでもことわりきれない、というのは父の性格である。酒を飲めないのによくつきあい酒をしていた。ことわれないひとを探すのがじょうずなのは、たいてい酒癖のよくないひとである。酒を飲みこみかわりに職場の愚痴を吐き出す男。誰も聞きたがらない「私の生い立ち」を語りながら「世が世であれば」と泣く男、飲むほどには眼は険を含んで顔は青みを帯び、口数が減る男、話す言葉も尽きたから帰ろうと立ちあがるとやにわに袖口をつかんですわり直させる、そういう男たちである。
 酒場から、これもことわり切れずに酔っぱらいを家へ連れ帰ったことも何度かあった。彼らは子供の眼から見てもたちがよくなかった。酔えば「お別れ公衆電話」だの「めんない千鳥」だのを高声で歌い、便所があるのにわざわざおもてへ出て木の根に小便をひっかけた。
(略)
 夜も更け、拝み倒しおだて倒すように酔漢に退散してもらったあとは必ず夫婦喧嘩だった。
 母はいった。
 ひとがいいにもほどがある。あんな酔っぱらいを相手にして、かかりもばかにならない時間もばかにならない。寝穢く酔った男を見ていると、ひとはなんのために生きているのかわからなくなる。

(略)つきあいだからしょうがねえじゃねえか、とだけ父はいい返し、飲めない酒のせいで頭痛のする頭をかかえこんだ。
 母は思いのたけをすべてぶちまけないと気の済まない性格で、執拗だった。酔漢と対応する不条理について、あらゆる角度からねちねちと言葉を費やした。言葉は悪意の湿り気を帯びて糸をひくようにえんえんとつづき、ときにわざと反発を買おうとしているとしか思えない高調子になった。
 父は青い顔で頭痛に耐え、色のさめた畳の上で酒臭く荒い息をついていた。いわゆる正論は、それが当っていればいるほど素直にはうなずきたくなくなるものだ、とわたしも長じてようやく知った。

頁87、著者の親族にも引揚者、それも延辺からの引揚者がいることが分かります。

頁91「ぼくの伯父さん」
 わたしははじめて知ったのだが、新潟の墓は骨壺をおさめないのである。墓石の前面、線香立てをとり払うと細長い隙間が見える。その奥は玄室の小さな深い闇である。そこに直接骨片を投げ入れるのだという。だから、やがて一族の骨はここに積み重ねられて混じりあい、長い歳月を経て水に還る。

これは私も知りませんでした。そうなんですね。
下記は神経症から宮仕え生活に入った前後。

頁152「かつて魚になりたいと念じた」
(前略)やはり初夏の、若葉がきらきらと輝く日にわたしは会社を辞め、フリーの書き手に戻った。以前とは違って気分はとても楽だった。少なくとも自己憐憫の悪癖からは自由になった。

頁153「西銀座駅前」
 銀座という場所の利点もいくつかあった。
 出版社、とりわけ小出版社ではありがちな、酒にまみれる病気にかからずとも済んだのはそのひとつだ。

銀座の酒場は過去を振り返ることしかしない編集者向きではなく、そして新宿ゴールデン街は遠い、という理由だからだそうです。でも、大竹聡さんは銀座のコリドー街によく行ってるようにそのエッセー読むと思えるので、個人差もあるかと。ちなみに西銀座は私にとっては、いまだに完治せぬ、レンタル電動自転車に後方から追突された場所でもあります。昨年夏だった。

頁159から「道路上から眺めた「東京八景」」というコラムで、バイクに乗り始めてから知った、その八景を記載しています。
(1)春の千鳥ヶ淵
(2)靖国通り深夜の新宿
(3)首都高速道路環状線
 ⇒いまは湾岸線がありま。
(4)甲州街道調布付近
 ⇒味スタのあたりでFAでしょうか。
(5)明治通り原宿交差点
(6)丸子橋
 ⇒川崎銭湯スタンプラリーで歩いたような気瓦斯。
(7)有明のフェリー・ターミナル
 ⇒行ったことありません。
(8)環状七号線若林の踏切
 ⇒環七と略せばいいのに、という…松陰神社は一度行きました。
(番外)奥多摩有料道路
 ⇒二輪車に開放されていた頃の話だとか。

頁170「ファミリー・レストランの昼と夜」
エスタデイ、ハピーモア、サンデーズサン、アニーズ、コックドール8というファミレスは知りませんでした。ロイヤルホストは福岡の米軍基地御用商から出発して一号店は1977年三鷹デニーズはイトーヨーカドー100%出資。一号店は1974年横浜の上大岡、東京は1975年小平から。すかいらーくひばりヶ丘の乾物屋が1970年に立川市に一号店。だそうです。下記はフィリピンホステスをファミレスにアテンドするも会話が成立しないパンチパーマの人が店員に呼びかける言葉。
「おねえさん。肉マンとアンマン五十個ずつくれる?」
「おねえさん。コーヒーのおかわりください。それからフトンしいてください」

頁194「阪急ブレーブスは不滅である」
 今井雄太郎の気弱さはプロに入っても長く治らず、ずっと二線級の投手として過ごした。ある日、監督がなかば自棄でビールを飲ませてからマウンドに送ったら、なんと別人のようなピッチングをした。強気かつクレバーに投げて、あざやかに勝った。マウンドの上でビールの力を借りているうちに酒場でも斗酒なお辞せず、極端に強気になった。

以上