『象の消滅 村上春樹短編選集1980-1991』読了

 Wire Art:藤掛正邦 Photo:田村邦男(新潮社写真部)Book Design:新潮社装幀室

 読んだのは2012年3月末日の19刷。

「象の消滅」 短篇選集 1980-1991

「象の消滅」 短篇選集 1980-1991

 

THE ELEPHANT VANISHES 

ニューヨークが選んだ村上春樹の初期短編17篇。英語版と同じ作品構成で贈るCollected short stories of Haruki Murakami

これら17の短編は、まさしく、わたしが当初期待していた通りのものとなった。作家として多くの引き出しを持つ、驚異的なハルキの才能は、国境を越えても揺るぎない。ゲイリー・L・フィスケットジョン(クノップフ社副社長/編集次長)

村上春樹「象の消滅」英訳完全読解

村上春樹「象の消滅」英訳完全読解

 
村上春樹「象の消滅」英訳完全読解

村上春樹「象の消滅」英訳完全読解

 

 ビニルカバーの本で、図書館がつけたのかと思ったら、新潮社愛読者ホムペへご意見ご感想お待ちしてま、との宣伝文が刷られていて、ビニルカバーの装幀だと分かりました。韓国映画バーニングの原作、『納屋を焼く』を再読したくて借りました。

Barn Burning納屋を焼く

韓国版『螢・納屋を焼く・その他の短編集』は、「반딧불이」(ホタル)だけのタイトルになっていて、『納屋を焼く』だと、ポークナーと同じタイトルだから表紙にバーンと書けないのかなと思ったりもしてます。

https://www.ato-shoten.co.jp/public/uploadImg/10244172.jpg?1490780296#h

螢、納屋を焼く(韓国本)_

韓国映画「バーニング」が納屋でなくビニルハウスを焼くとしてるのは、ハングルで「納屋」"barn"を意味する「헛간」が、見るからに耐火建築っぽいのを指すからではないかと推測します。

ko.wikipedia.org

あるいは、韓国に残された数少ない茅葺屋根の伝統家屋を燃やす映画にしてしまうと、模倣犯が心配されるからかと考えてみたり。

4travel.jp

映画は、小説で語り手がふと思う、なぜ彼はそんな事実もないのに納屋を燃やすとか燃やしたとか虚言を弄するのだろう、そうすることによって、イメージを刷り込んで、私にそうさせようとする、コントロール心理操作ではないか、という部分を膨らませて、小説の語り手村上春樹のような、どっしりした軸のブレない自分を持っている人物でなく、弱くて押せば腰砕けになりそうな人物を主人公に据えて描いてみた実験作です。

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しかし映画は、カンヌを争った映画ショップライファーで言うなら、リリー・フランキーらが夜逃げを諮って確保される場面までしか描いておらず、その先の審問審判を描いていないので、事実関係の整理としてはちゅーと半端と思います。逆に心理描写では、火病を発症してカタルシスにもちこませちゃったので、そうせず、モヤッとしたまま終わってもよかったのではと思います。発狂するなら発狂で終わらせずその先まで描いてほしいし、発狂は顕示でなく隠喩でもよかったのではと思います。

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 本書全体の構成に話を戻すと、巻頭に上記フィスケットジョンさんの「刊行に寄せて」が収録されています。日本語版刊行に寄せてです。日本語版刊行のタイミングは『海辺のカフカ』英語版出版直前。ミシマ好きのこの人がハルキ・ムラカミに逢った時は、『ダンス・ダンス・ダンス』英語版出版準備時期だったそう。『羊をめぐる冒険』と『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』英語版を読んでいて、共通の知人レイ・カーヴァーを通じて知り合ったそうです。

 その次にハルキ本人が書いていて、ニューヨーカー初掲載時の思い出や、だいたい日本語発表其のままだけど、例外もあるの詳細(英訳からの再邦訳混入とか)が書かれています。

収録作品一覧と英語タイトルは下記。

象の消滅 短篇選集 1980-1991 - Wikipedia

パン屋再襲撃』を私が最初に読んだ時、もう八王子スーパーの事件が起こった後だったのですが、読んだ時は特にそれを連想しませんでした。今回読み返したら、ふっと思い出した。"The Second Bakery Attack

私は村上春樹を読んだのはかなり遅くて、ノルウェイの森だけ、ベストセラー同時期に赤と緑の上下巻で読んだ以外は、前世紀末、某中国の省会で、中国にも海外青年協力隊が来てたんかい、というその隊員が春樹と龍を大量に置いてったのを読んだです。そこには荷物の整理などで不義理をしたなと今でも思います。その後『ねじまき鳥』と『海辺のカフカ』は読みましたが、『IQ84』の冒頭を読んだだけで時が過ぎています。青豆が首都高降りただけ。色彩も騎士団長も読んでない。

ので、今回、幾つかの短編の主人公が女性だったりすることについて、なんかぎくしゃくしてるような気持ちになりました。とにかく袴田君と手タレの世界から私自身逃れていないので。ねじまき鳥やカンガルー通信、眠り緑色窓TVピープル踊る小人沈黙午後の最後の芝生象の消滅、だいたい読んでると思うのですが、パーティで女の子に話しかけるにはとかよく分かりませんでした。本邦初登場?の、『レーダーホーゼン』という短編は、下着を洗濯機でいっしょに洗濯しない話では小説にならないが、こうすると小説になると、小説の書き方教室で講師がくっちゃべっていたらずるいと思います。

 『中国行きのスロウボート』は、何度読んでもいい、ような、逆に、あっさりしすぎなような。「こんな小説書いててあんな顔でアイビー着てるんだよ、ディスコとかナンパとかほんとに実体験なのかね」と口に出した方が負け的な小説であることは今も昔も変わらず(田中芳樹も『夏の魔術』書いたころは、あんな顔してこんな小説、足速いのか作者は、みたいに言われてたような言われてなかったような)で、ときどき思うのは、私と中国は鑑真号がなければ最初に出会わなかったかもしれず、もしインドやイギリスやアメリカが最初だったら、ぜんぜん違った人生だったかもな、と思うことがあり、作者とこの小説にも同じことが言えないかと思うのです。これが、"A Slow Boat to China"でなく、『玄界灘を越えたスロウボート』だったら、全然違ってただろうなと。

頁372『午後の最後の芝生』"The last lawn of the afternoon"

「体が丈夫なんだ」と彼女は言った。「だから酔払わないんだ」

 僕は曖昧に肯いた。僕の父親もそうだった。でもアルコールと競争して勝った人間はいない。自分の鼻が水面の下に隠れてしまうまでいろんなことに気がつかないというだけの話なのだ。父親は僕が十六の年に死んだ。とてもあっさりとした死に方だった。生きていたかどうかさえうまく思い出せないくらいあっさりした死に方だった。

作者とレイモンド・カーヴァーに親交があったのは必然、と考えてしまうとやっぱりレッテルかな、とも思います。以上

The Elephant Vanishes

The Elephant Vanishes