『10年目のセンチメンタルな旅』読了

 デザイン■ミルキィ・イソベ 

10年目のセンチメンタルな旅

10年目のセンチメンタルな旅

 

 1982年に冬樹社から刊行された本に未発表の写真を加え再構成したとのこと。1981年六月に結婚10周年でフランス、スペイン、アルゼンチンを一ヶ月かけて旅行した記録。1984年の国内近場旅行をエッセーにした『愛情旅行』のほうがヨーコさんの人は若く見えるという不思議があります。髪形が、こっちはオバサンショートで、あっちはソバージュのちがいから来るのか。ほかのことでケンがあるのか(海外での緊張状態とか)

同行者は桑原甲子雄夫妻というひとたちと石原悦郎というひと。アルゼンチンはヨーコさんの母が再婚相手と暮らしているからアラーキー夫妻は行ったので、そこまでは同行してません。途中で別れてます。

桑原甲子雄 - Wikipedia

ツァイト・フォト・サロン - Wikipedia

アラーキー夫妻の最初の海外旅行は1979年のニューヨークだそうで(頁7)その時は中華航空で行ったので周囲からバカにされたんだとか(頁10)アラーキーに言わせると中華航空のスッチーのチャイナドレスはもっとスリットが太股まで切れてないとダメで、サービス悪いそうです(頁11)こんなことを言いながらオシャレ用にトランクに入れたワンピースはカルバン・クライン(頁10)そんな時代だったと言うべきか、今世紀もあまり変わってないやろと言うべきか。

この頃も地球の歩き方はあったのでしょうが、ふたりが持ち歩いたのはブルーガイド

ブルーガイド編集部|実業之日本社

頁82、パリ最終日は、アンアンのパリ特集<今、レ・アールが新しい>のブティック地図を頼りに、アニエスb.などに行っています。私はアニエス・ビーという日本のDCブランドだと思ってました。フランス人なのか。

ja.wikipedia.org

頁82

(略)樹の花を飾り、放し飼いの小鳥が飛び回っているナチュラルな雰囲気の店で、レジの女の子は水玉Tシャツにヘアバンドの可愛い子だった。tシャツが沢山積んである中から、夫と私はお揃いの、ピンクと緑の横縞のTシャツを選んだ。この他、オリーブ色の木綿のジャケットも夫は買う。女物なので体にぴたっとして粋な感じ。(以下略)

検索したら相模大野の伊勢丹にも店舗がありましたが、店内に小鳥は飛び回ってないと思います。パリのサン・ドニ通りという飾り窓?の盗撮がありますが(頁23)アラーキーの名にかけていちおう載せておこう的な、ここまでかなという一枚でした。袋叩きに遭ってフィルムぬかれてカメラ取り上げられるほど頑張るわけでなし、そういう「コンセプト」の旅行でなし。欧州人は肖像権の権利保護にチビシーので、行為自体の正統性をしっかり理論武装したりするのもめんどくさいと思います。

旅行ぜんぱんを通じて、おふたりの夜の営みがかなり密な間隔で繰り返されたとあり、口さがない人は、アラーキーも海外ではちょんのまアヴァンチュールの相手探しに苦労するんだろう、だからてじかなところにいく、どうぶつだなと言うかもしれません。言わないか。おしりの写真は数枚ありますが、すべて奥さんのです。万引き家族リリー・フランキーが魅せた、中年男性なのにかたじしのオシリのようなプリントは、ありません。もっとこの時のアラーキーは若いですけど。かわりに、頁10に、針治療で痛みがおさまったアラーキーの痔の再発に備えて、ヨーコさんが旅装にこっそりヒサヤ大黒堂一式をしのばせるこころづかいの記述があります。

パリ、マルセイユバルセロナ、マルベージャ、グラナダコルドバ、マドリー(ママ)あちこちで中華料理を食べていて、給仕のなかに日本語のかたことを話せる人がいるのが、デラシネというかディアスポラというか… スブタをよく頼んでいますが、筆談で「酢豚」と書いて通じている。このころまだクックドゥは日本にチンジャオロースを広めてなかったのか。そして陳建民もマーボードーフを以下略。

スペイン編は、トルティーヤと私が覚えている単語がトルティージャだったりするのが、あちこちにあったはずなのですが、いざ探そうとすると見つからない。頁173、宝くじのことをスペイン語ロッテリアと言うとは知りませんでした。ジプシーがヒターノ、ヒマワリの種がピパ。下記はグラナダ

頁181

 ここの人達は大人も子供も始終口を動かしているなーと思っていたら、ピパというヒマワリの種を歯でうまいこと割って、中の身を食べているのだった。歩きながらも、電車の中でもこれをカリカリ食べている。

 道路はピパの殻やら煙草の吸殻、紙クズで汚いのだが、パリ以来道に物を捨てることを当然と思うようになってしまった私は、エラードの食べかすなどポイポイそこいらに捨ててしまう。道路掃除やカフェの掃除人などがちゃんといて、あまりきれいだとそういう人の仕事がなくなるので困るんだとかどこかで聞いたんだけど、本当かな?

エラードはアイスクリームのスペイン語"helado"だと検索で分かりました。

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頁236、ブエノスアイレスの記述は、観光者のそれから、母親が在住ということで、探訪者のそれへと視線が変化しています。富岡多恵子の宿六の菅木志雄が外国の日本人家庭を訪ねた時秘蔵の梅干しをパクパク遠慮なしに食べて恨まれた、海外で日本食品がいかに貴重かを表すエピソードとか、日本から定期購読してる読売新聞を開いたら佐川君事件が載っていて、パリに帰ったらフランス人から白い目で見られると懸念しつつ、猟奇的な事件の刺激に飢えていたのでワクワクしながら邦人男性がオランダ人の恋人をあれしてカニバリズムの記事を読んだとか、ブエノスアイレスは日本人日系人が結構いて、花屋や洗濯屋を営んでいるとか、専門食材店で味噌も納豆も手に入るとか、そんなの。池上永一『ヒストリア』でも、ボリビアやペルー、ブラジルの日本人開拓地から都市にフケるとなるとブエノスアイレス、みたいな書き方でした。頁251で、陽子さんの人が母ひとり子ひとりと初めて知りました。で、娘が嫁いでから、母は再婚して地球の裏側へ(相手は貿易自営業の邦人)それでスペイン語を勉強したんでしょうか。映画「東京日和」には旅行会社で流暢にスペイン語の電話応対をする場面があり、本書ではカタコトと謙遜?しています。

1981年6月28日にボカを訪れて、帰りのバスはサッカー観戦帰りの客でごった返していたと書いていて、この年は、20歳のマラドーナがボカに一年だけ在籍してチームが優勝した年ですので、夫妻がサッカーに興味あればものすごく貴重な記録が残せたかもしれなかったですが、そういうことはなく、えてして世の中はすれちがいでした。二人は港町でうらぶれた路地探して猫モノクロで撮ってましたと。

頁250

ブエノスで覚えたのだが、ヴィーノ・ティントをセブンアップで割って飲むと 重くなく、甘味が加わるので飲みやすくなる。

d.hatena.ne.jp

映画「東京日和」を観て、少しこの夫婦の本を読んでみようと思って、四冊読みまして、これでおしまいです。クロワッサンの本がいちばん面白かった。どっとはらい