神出鬼没の10連休七日目、天網恢恢疎にして漏らさずの10連休七日目、風か嵐か青い閃光10連休七日目

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立てた掘り炬燵

昨日は朝、ラジオ体操の前にゴミ拾いする人と会って挨拶しました。いつもより早い時間に出勤するとそういうこともある。今朝も仮眠時間短縮。まれにそういうことがあります。

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毎日ブログのタイトルにわざとらしく「平成最後の四月〇〇日の写真」を連投掲載した身としては、しゅんとなるにじゅうぶんな燃料投下です。正直、私はこの人が『ザ・ベスト・オブ・ドッキリチャンネル』の作者だとよく誤解するのですが、それはそれとして、明治大正昭和の終わりはいずれも、一世一号の元号が終わるときで、それは畏きあたりがおかくれになるときですから、大喪の礼あり自粛ありで、今回のように、平和裡にバンバンハジケることが出来る新元号発令は、事実上初めてじゃいかと思います。明治以前は、為政者というか京の制度上の為政者のキマグレで気ままに随時元号が変わっていて、それが迷惑だし煩雑だったので一世一号になったわけですが(お江戸のしとがやったことじゃなくて薩長ですよ)小刻みな明治以前の改元方法は、一方的な上意下達で、事前に告知して浸透させて今か今かと盛り上げるギミックがなかったので、天保とか明和とか寛永とか元禄とかはたぶん、発令した途端待ってましたとばかりに便乗商品が野に溢れたりはしなかったであろうと。事後周知の後付けで納得も得心もさせられていたので、しらけムードもあったかもと。と書くと、いやいや江戸時代も室町時代鎌倉時代も新元号発令時はそれなりに市井は盛り上がったもんだっせ、と資料を元に光文社新書とかで考証が出版されるかもしれません。

全然関係ありませんが、昨日のメモに、選択と集中、と青字で大書してあるのですが、その時の心境がまるで思い出せません。

フロンターレのホーム、等々力にいちばん近い銭湯で、何度か訪れた天神湯が看板降ろしていたと知りました。試合帰りにここを利用していたサポはほかにもいたはずで、そうした人たちの数は多くなかったでしょうが、それでも残念です。丸子温泉はまた違うしな~、試合後武蔵新城や平間に行って帰宅するとなると、少し遠い。登戸の銭湯も廃業。

学習院のカレー。思うのは、なんで学習院でなくお茶女付属なん?という… サーヤ、よく学食でカレー食べてたよ、と学習院に通う人から聞いたりした時代は遠く去りにけり。学習院のカレー。そういえば、むかし、池田小学校という名前を聞いてもピンとこない関東人に、「大阪でもウチのほうは天王寺に行くんやけどな」と泉州人が説明してくれました。今検索したら平野小学校というのもあった。

今日の残りも、明日も、穏やかに、静かに、落ち着いて、平和に。そして、出来ることなら、自分も周りもみな、しあわせにすごせますように。