『ブックショップ』"The BOOK SHOP" BY PENELOPE FITZGERALD ペネロピ・フィッツジェラルド 山本やよい訳 読了

以前アミュー厚木で映画「マイ・ブックショップ」を観た折、置いてあった「勝手に応援kiki鑑賞隊」フリーペーパーに、原作も邦訳有というので借りました。

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ブックショップ (ハーパーコリンズ・フィクション)

ブックショップ (ハーパーコリンズ・フィクション)

 

ブックデザイン アルビレオ 

映画化されているのにスチールを表紙に使わないのは、ハーレクインロマンスの出版社としての矜持なのか、あるいは装幀者の趣味なのか。読んでみて、だいぶ映画と違うと思いました。映画の脚本家、よく頑張った。脚本家の勝利です。このそっけない原作の絶望から、よくあれだけ希望あふれる映画のエンディングを思いついたものだと。

Penelope Fitzgerald - Wikipedia

巻頭に、作者没後の版に添えられたと思われる、「編集者ハーマイオニー・リーによる覚書 ペネロピ・フィッツジェラルド」があります。それによると、彼女の作家デビューは六十歳近くになってからで、六十三歳でブッカー賞受賞、2k年に八十三歳で亡くなるまでが作家キャリアだったと。ウィキペディア日本語版にはほとんど彼女の人生が語られていませんが、この編集者による序文は饒舌で、この小説も幾つかの部分が、作者の人生、実体験の投影であることが分かります。ロンドン大空襲時BBCに勤務していたこと、戦後、小さな書店の経営に手を貸していたこと。etc.

いつからでも人生はやり直せるかもしれないが、その時点その時点で、ついてまわる限界点や、それを測るものさしがある、と思います。エクスペクト・パトローナムというか、ハーマイオニー役だった女優さん、こんなにあられもない画像が多数江湖に広まってるのか… いつからでも人生はやり直せるかもしれないry

以下、小説と映画の相違点。まず、映画でも主人公を窮地に追い込むのに一役買う遊び人の地方文化人、マイロ・ノース。彼の恋人は、映画ではただ、一回り以上年下のビジネスガール(BG)もしくはオフィスレディ(OL)ですが、小説ではそれに加えて黒人という一行が貼付されています(頁35)1959年、日本では第一次安保で樺美智子の時代ですが(現代は21世紀なので、この人の名前を検索エンジンに載せると、アンド検索ワードが「自業自得」だったりします。時代時代で価値観は変わるものだ)その頃の斜陽の大英帝国で、有色人種の若い職業女性とつきあうヒモ的中年知識白人男性というと、映画とだいぶイメージが変わることはいなめません。

 それから、

・主人公は肩までの雨具で海岸を散歩したりしない。

・主人公は若い頃大規模書店で働いた経験があり、舞台となる新装開店書店の在庫の一部も、閉店する以前の勤め先から流れてきたものである。

ネスカフェが市販され始めた頃で、熱湯で淹れてはいけないといううわさを口にする場面がある。

ブランディッシュは主人公に貸本屋はやらないのかと提案するだけの存在で、彼女からブラッドベリを勧められて夢中になるといった、読書サークルの夢みたいな場面はない。ブラッドベリの著作自体一冊も出てこない。また彼のお茶会の場面は、映画のほうが、全然みじめなさみしい、零落の気分を味あわずに済む。ナボコフに関するひと騒動はほぼ映画と小説で同じ。死に関する描写も同じ。

・主人公が書店を開業した古い家は、霊がいて、絶えずラップ音や石降り現象が起こる。映画にはそんな設定はない。この頃まだポルターガイスト、騒々しい霊という単語はなかったようで、本書では「ラッパー」という言葉がそれにあてられている。

ラップ - Wikipedia

頁25、配管工が“お宅のラッパー”と言うのをやめてほしいと主人公が思う場面があります。サイタマノラッパー。頁147では、日本では労働基準局、労基ということになるのでしょうが、当時のイギリス法での、商店法の査察官なる人物が、書店での児童労働について査察し、主人公と書簡で応酬する場面があり、そこでは、怪奇現象は少女の健康と安全を脅かすとしていて、

頁148

委員会で検討したところ、商店法の条項に従えば、超自然的現象は、怪我をする危険があるため若い人々に使わせてはならないベーコンスライサーやその他の調理器具と同じ範疇に入るとのことでした。

 要するに、霊がドアを強く閉めたり開かなくしたり、人のいない部屋から聞こえてくるラップ音は労災になりうるという当局の見解です。これも書店乗っ取り、地権略奪の一環なわけですが。

主人公の追い込まれ、閉塞感は原作のほうが、救いがないぶん強いのですが、その分作者が年の功で、わりと何があっても平然と落ち着いた文章です。主人公が衣裳を縫ってもらった洋裁店も原作では敵に回りますし、そこには主人公が厄介払いしたヘンな居候が居着いてしまいます。アルバイトの少女も、映画より更に読書に関心がありません。主人公も彼女に『ジャマイカの烈風』を勧めません。『ジャマイカの烈風』も火星年代記も映画が加えた要素で、私たちはそこに共感したのですが、原作はナボコフを、論評抜きで、二百五十冊博打で仕入れて売り切るだけの存在として描いてるだけで、リチャード・ヒューズもレイ・ブラッドベリも出ないのです。趣味としてペネロペ・クルス華麗なるギャッツビーがこの二人を好きだったかどうかも分からない。

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当時のイギリスは普通科に進学するか工業科など技術科に進学するかは、成績その他で振り分けられていたとのことで、日本ではひとりひとり面談による「進路指導」で、納得も得心もさせられて資産のない家庭の子は工業高や商業高に進学して高卒で社会に出て高度経済成長を支えたわけですが(しかし大卒でないと本社の出世競争で頭打ちの反動から、その子らの世代では受験戦争、猫も杓子も普通科の流れになる)イギリスのように当たり前に個人が主張する社会では、ひとりひとりきめこまやかに納得させて工業科へ押し込むことなど不可能なので、アルバイトの少女は望まぬ技術科へ上意下達で進学します。映画にこんな場面はなかったかと。

頁137

「あのね、ディオールって、ロマ族の一人に出会ったとき、“十年のあいだ幸運に恵まれて、それから死を迎える”って言われたそうよ」クリスティーンは言った。

 頁160、進学したクリスティーンは、扱いにくい子になっていて、人を傷つけることが唯一のストレス解消法になっていた、と描写されています。傷つける相手は、インテリ。読書家。労働者階級の旗手っぽく、プチブルとでも言ってたんでしょうか。こうなると、映画が描いた、貧者の一刀もないし、未来からのまなざしもありません。

冒頭の編集者による作者評伝によると、作者は書店経営に携わった後、テムズ河に係留された雨漏りしやすい平底船で暮らす生活に入ります。イギリスの蛋民となる。それが還暦前後に始めたライティングノベルに反映されるとき、もう牙はなく、おだやかに、世の中は食うもの食われるものしかない、しかし諦観はしない、という文章に結実してゆきます。

どういうつもりでスペイン人の監督たちがこの本を見つけ、掘りだし、さまざまな要素を加え立派な脚本にし、映画として完成させたのか、それは分かりません。原作者の提起する理不尽な現実、それをもう一度映画としてカタルシスまで一直線に描き切り、天国の作者にいっときのやすらぎ、安寧を望んだのだとしたら、それはなしえたのでしょうか。作者はそれを見て微笑んだのでしょうか。

Penelope Please - YouTube

上の、テレンストレンドダービーの「ペネローペ、プリーズ」動画は"Music Premium"メンバーのみ視聴可能とのことで、再生回数も四千回行ってませんでした。違反をばんばん削除しているせいか、ほかに誰ぞがあげてる動画も、なべて再生回数が百回とか、そんなんばっか。

最初読んだ時、ムーミントーベ・ヤンソンの、ムーミン以外の小説の、荒涼としたそっけなさを思いました。それとは別の意志を作者は持っていたのでしょう。はたして、こんな映画要らないと言うのか、静かに微笑むだけなのか、ラッパーとして降臨してくれるのか。以上

【後報】

映画にない原作の内容のひとつに、貸本屋のくだりがあります。貸本屋がやりたかったら、専門の問屋がセット単位で書籍を卸してくれるのですが、これが抱き合わせ商売で、皆が読みたい人気本一冊とそうでもない本数冊、誰が読むんじゃ的な本それなり、がセットで卸されてくるんだとか。で、図書カードで前に誰がその本借りたか分かってしまうので、個人情報保護の点で当初は大いに問題があり、結局は近隣都市に公共図書館が出来ることでその商売は終焉を迎えたとか。原作のブランディッシュさん、こんなものが欲しかったとは、という。

(2019/7/9)

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都営新宿線神保町駅ホーム

(2019/7/11)