『キャンティ物語』(幻冬舎文庫)読了

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飯倉 小道を挟んで向かって左隣りはオーガニックを謳うインドレストラン(ビリヤニあり)右は中華。(違うかな、パン工房かなんか挟んでたかな)山崎洋子を読んでみようの一環です。安井かずみのくだりで登場する関連書籍です。

キャンティ物語 (幻冬舎文庫)

キャンティ物語 (幻冬舎文庫)

 

 ●カバーデザイン 真舘嘉浩 for Waters 1994年同社単行本刊 巻末に資料収集関係各位への謝辞 あとがき 解説は幻冬舎社長見城徹

飯倉片町本店|CHIANTI|キャンティ イタリアンレストラン 飯倉 西麻布

ランチでも5k前後とか手が出ないやと思ったのですが、よく見るとカフェランチなら1.5kほどで食べれるようでした。知らずに入店しなくて残念閔子騫ドレスコードもそれほど難解なものでなく、過度に肌を露出した男性を戒め、襟付きシャツくらい着て来いてなもんでした。ただ、支店も各地にあるので、何も常連の魂の故郷デロリンマンへいちげんさんが乱入することもないかなと思いました。

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Chian ti Il Piatto Dellacena 季節のおすすめ(17:00~) Tartuffo Bianco アルバ産白トリュフ ・パスタ・リゾット・玉子料理 ¥9900~

現在では流石にラストオーダー21:20、23時閉店のようです。本書に登場する時代のキャンティが賑わうのは午前零時を過ぎてから三時くらいまでで、高速道路は整備されてないがそもそもマイカー族自体が珍しい時代なので、鎌倉まで飛ばして帰ってくるなどしても、さして時間はかからなかったとあります。

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2nd Floor Chiantissimo 1st Floor AL CAFFÈ CHIANTI Basement RESTAURANT Chian ti

頁30

(前略)「石井君、ジンくれよ」とウェイターの石井に命ずる。この年、一九六九年の初めから浩史は深酒をするようになり、昼間からジンのストレートをなめるようになっていた。 

 梶子という名前も相当に珍しいですが(最初は梶芽衣子を縮めたペンネームかと思った)、彼女が味や料理法を会得しているからという理由で、フランス料理でなくイタリア料理というのも面白いと思いました。私はちゃんとしたイタリア料理店にほとんど入ったことがなく、フレンチは数回あるのですが、イタリア料理というと、家でパスタ茹でてもいいし、ピザの生地買ってきて、植えたバジルの葉っぱを散らしてトマト切ったのとチーズのせてオーブンで焼いてもいいし、自分でエスプレッソ作って胃を荒らしてもいいしと、自分でやれちゃう気がするので(ここまではイタリア人から教わった)(でもオリーブオイルが一ヶ所も出てこないので、たぶんそこは記憶が抜けてます。中国で必死こいてオリーブオイル探して、"橄榄油"ganlanyouという名前だけ覚えて、やっと見つけた店の店員が、美容にもいい、こうやって顔に塗る、と、ここは何を売る店なんだという体験をしたんだか聞いたんだかの思い出はあります)お店行くイメージがないです。それで本書も、おいしい料理の秘訣やこころ暖まるエピソードというよりは、あれです。スピリッツに連載してた漫画『バンビーノ』のようなホールスタッフの汗と奔走がまずちょっとあります。客の大半が、おごりおごられをしない、個人個人で払う、徹底したAA制、各付个,ダッチアカウントの「日本上流の常連客」で、かつ彼らは勝手気ままに席を移動するので、ひとりずつつけている伝票もその都度移動せんければならん。残りが外国人客。その特殊な状況下でのホールスタッフ奮戦記。それから、主眼は、バロン薩摩ほどではむろんないけれど、薔薇色の人生の水面下で、溶かしてゆく不動産等先祖から受け継いだ資産、創業者夫妻の人生への冷徹なまなざしです。ウェブで閲覧数を稼げる「名店のいい話」でもないし、「名店のウラの話」でもない。こういう人が戦後を駆け抜けていたよ、アラーキーとか白洲次郎とはまた別にね、という話。

頁32

なかには黛敏郎のように、一般の常連客が金曜日に食べるブイヤベースをわざわざ土曜日まで残させておいて、そのうえイタリアンレストランだというのに「これが一番合う」と称し、日本酒を燗させて ブイヤベースを味わう者までいた。 

黛敏郎は、酔っぱらい読本最終七巻収録座談会「正義の味方 下戸仮面」で、いちばn過激で先鋭的な主張を繰り返す人物でしたので、なんだ飲めたんじゃんよという思いを抱きました。

stantsiya-iriya.hatenablog.com

以下後報

【後報】

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頁78、スマッシュヒットにカッコして(大当たり)と書いてあり、スマッシュヒットって、小粒だけどよい安打の意味だと思っていたので、へえと思いました。

dic.nicovideo.jp

頁93、イタリアの彫刻家エミリオ・グレコが梶子をモデルにした『湯浴みする女』像(ママ)は、本書の時点でも、「数年前まで渋谷の東急百貨店本店前にあった」としか書かれておらず、その後の消息がないのですが、今検索すると、版画家の方の2009年10月のココログに、今年一月時点でコメントが書かれ、たまプラーザ東急百貨店屋上、一段低い場所にあるのがそうではないかとの情報で、それがそうだったみたいです。名前はひらがなで「ゆあみする女」もしくは「ゆ浴み女」もしくは「浴みする女」だとかなんとか。

頁103、梶子が自分をそう呼ばせていた「タンタン」は、イタリア語で“おばさん”の意味なんだそうで、しかしおばさんをグーグル翻訳でイタリア語にしても、"zia"にしかならず、この言葉のはっちょんが「ツィア」(破裂音)に聞こえる地方があるので、ツィアツィアでタンタン、いや、それは苦しいなと思いました。どうもよく分からない。

「タンタンの冒険」の主人公の名前は本当にタンタンでいいの... - Yahoo!知恵袋

たんたんの意味や使い方 Weblio辞書

イタリアに関する質問です。イタリア語で「乾杯」は「チンチン」と言うみ... - Yahoo!知恵袋

鍛高譚。ニュータンタン。

頁106、終戦から返還されるまでの14年間は、東大生産研の場所にはハーディバラックスという米軍基地があって、六本木、飯倉周辺は米軍将校の屋敷が多かったんだとか。商店や飲食店は戦前は数えるほどしかなかったとか。検索すると、この生産研の跡地に国立新美術館が出来たとのことで、生産研の前は、陸軍歩兵第三連隊兵舎とのことなので、ハーディバラックス時代が「抜けて」るサイトや資料があることが分かります。戦前は職人の街で、丁稚がたくさん走り回っていた(あるいは自転車乗り回していた)と古老に聞いたことがあるので、それが西洋人の遊び場になるには、どうしたってやっぱ、米軍が絡まないとなと(いくら大使館街だからって、それで盛り場になるんじゃ北京の酒巴街ですよ)思ってたので、まあ分かってよかったなと。キャンティなどが出来たのは'50年代で、アマンドは1963年だとか。

頁106

 川添家の長男・象郎と慶応中学で同級だった福井雅英は、当時二十歳で慶応の学生。学習院、立教に通う遊び仲間の学生達と、毎晩六本木にくり出していた。そして遊びがこうじた福井は一九六一年には、学生の身ながら「ガウチョ」という名のスナックをはじめる。ちなみに、バーと喫茶店を併せた飲食店を“スナック”と名づけ、流行させたのが、福井である。

 彼によれば、六本木と他の繁華街の最大の違いは「車で行けるか、行けないか」だという。新宿、渋谷、銀座、浅草といった繁華街は国鉄(当時)か地下鉄で行くことができたが、六本木へは、一九六四年に地下鉄日比谷線が開通するまで、車で行くより他に交通手段がない。一般の大衆が六本木へ行こうと思えば都電を利用するしかない。 

 スナック発祥の話は初めて聞いた気がします。あるいは忘れてるか。

頁129

 ミッキー・カーチスは、閉店少し前の深夜三時頃の「キャンティ」が好きだった。けだるい空気のなかに疲労した表情を見せる客がいる。そろそろ腰を上げようか、それとも、もう一杯だけワインを飲もうか、と迷ってる様子が見てとれる。ウェイター達は平静さを保っているようだが、早く家に帰りたいのだろう、顔にはちょっと迷惑そうなじりじりした表情のゆがみが浮かぶ。

 彼自身は酒を飲まないから、そうした人々のゆっくりしたシルエットを眺めて、日本茶を飲んでぼんやりしていることが好きだった。当時、まだ二十代前半だったのに、少年の頃からスターとなり、大人とばかりつき合ってきたミッキーには、醒めて老成したところもある。 

 黛敏郎のポン酒熱燗といい、ミッキーの日本茶といい、家帰れよ、って感じ、と思わないでもないですが、山手線の内側のマンション暮らしとかだと、そうなるのかな。この店に来ると、皇族も作家も、不良もおかまも、みんな一緒にメシ食って、話は全然かみ合わないが、一緒にいて、相手の言い分も聞く。それがたまり場で、それが「自由」ってことなんじゃいか、とミッキーさんは続けて回想します。

頁165には、高校生だった景山民夫が、年上の女子大生を誘って「キャンティ」に来た時のことが、老ウェイターの回想として語られます。当時加賀まりこナベプロ関係者が出入りするので、そうやってやってくる高感度アンテナ人間の最先端がどうのこうの。まだツグミは禁鳥でなかったのか、その日のメインはつぐみだったんだとか。でもメニューを書くペンは万年筆でなくボールペンだし、イタリア料理はイタリア料理だと思います。入信とかプラモデル出火で焼死とか、これも数奇な人生。

頁206で、頁30と同じ描写になり、時間が還るのですが、この時点でオーナーは、本人は宣告されてないのですが(家族告知のみ)肝臓ガンで、もう一軒の飲食店「光臨閣」が、時代の趨勢で、閉める方向に進んでいること、ミュージカル「ヘアー」を仕掛けたこと、などで、昼からジンをぐいぐいあおって、従業員をわけもなくしかりつける人になっていたとか。このページにさりげなく、赤木圭一郎が死ぬ前にひとりでここに来て食事して、翌日、というエピソードが出ます。頁235は梶子の逝去の描写で、シワがよるからと笑わない女だったと書かれていて、その前のページにひっそりと、三島が市ヶ谷で割腹自殺する一週間前に「キャンティ」で松竹の人間と会食した話が出ます。

ズズ(安井かずみ)という人が時代のファッションシグナルだったという山崎洋子のエッセーから、ズズが崇拝したタンタンという女性とその亭主の話になり、後は、この店でランチを食べてみるか、いや、別に常連の聖地飯倉に行かなくても、どこか支店で、という記述の後、笹塚や幡ヶ谷や江の島の、同名だけど関係ない、支店でもない店に行って、「やられた!」というユーチューバーやニフティの体を張った企画のようなことをやるか、やらないか、どっちかだと思います。イタリアレストラン行ったことないし、ひとりで行くのもさびしいからです。以上

(2019/11/23)