解説 逢坂 剛
単行本は平成六年同社より
読んだのは平成十九年の三八刷
文庫と単行本で表紙の絵が異なるのですが、どちらも鉄筋コンクリートの病院の中庭のようなところから空を見上げて鳥が飛んでて、みたいな構図で、窓ガラスに鉄格子があるかないかの違いのようです。
私としては、映画の、もっと低層建築の病院のほうがしっくり来ました。外出時間に、薔薇の名前の僧院みたいな感じで、だらだら、里へ下りてゆく描写。この小説の時間がいつくらいなのかさっぱり分かりませんでしたが、援助交際的なことが世の中にあって、満州からの引き揚げ者もまだ入院している時代、となるといつなんだろうか。消費税とかなさそうだなあ、福岡なのですが、まだまだ個人商店が元気なので、ダイエーが猛威を振るう前なんだろうか、などなど考えながら読みました。昭和三十一年にチュウさんが戦中に十代で働き出した電力会社を退職して、それから一年プラスアルファで幻聴等から暴れたりで入院、三十年後に退院だから、平成になる直前くらいなのか。映画は、21世紀最初の十年くらいに設定を移したそうで、それでも現在ではないという。
現職の医師でもある作者自身が言わないので、読者のほうから「これ、準開放病棟ですよね、どう違うんでしたっけ」と言い出しづらいという。男女の別やらなにやら、本書でもほんとにほんとの閉鎖病棟はこうだった、的なことは書かれていたりはするんですが、戦中に患者が多数餓死したとか、そういう描写と混然一体なので、どうも情報が未整理のまま提供されてるんだなと。
頁79、中学生の女の子の、通院患者に、チュウさんがラジカセをプレゼントしたら、彼女の主治医にこっぴどくおこられた、という記述。聞いたような話ではあると思いました。負担になるからでしょうか。彼に下心はなくても、ほかのやましい人間が同じことをしたらどうするのかということでしょうか。聞いたような話の人は元気だろうか。
頁102、駅で女子大生に押されてよろめく場面。ヘルプマークをつけていても満員電車はこわい、と、以前聞いたのを思い出しました。
主人公のチュウさんも半島からの引き揚げ者ですが、頁171に、大野山という実在する地名が病院から見える山として登場し、「朝鮮式山城」と書いてあるので、そんなものが九州にはあるんだと検索しました。
https://www.town.umi.lg.jp/soshiki/12/oonojou.html
ちょっと行ってみたい( ´∀` )
頁188
「(略)もちろん刑務所にはいって懲役くらっても、罪は帳消しにはならん。ばってん、刑務所の独房は、来る日も来る日も自分のしたことば考えんわけにはいかんようにできとる。病院は逆。思い煩うより、ついつい昔のことを忘れてその日暮らしになる。病院の生活は結構楽しかけんね。そのうちどっと、いっぺんにつけが回ってくる」
秀丸さんは何袋めかの蜜柑を歯でかみ切った。
時代を考えると、手旗信号の子は、現代の映画キャラとは違う属性があるように思います。重宗は、映画でもこの小説でも思ったのですが、手下、子分、パシリを作らないのだろうかと不思議でした。だいたいこういう人間は、自分の言うことをずっと聞いてくれるパシリをすぐ作るわけで、患者の中に、いくらでも強いものにはこびへつらう連中がいそうなので、そこが不思議でした。両手の小指がないそうなので、そういう社会でも駄目なのだろうか。昔会ったことのある、ヤクザになろうとしてなれず、何度も脱走して連れ戻されたり説得されたり土下座を繰り返した人が最後、女にもひどいことをして、河に浮いてたそうで、出身地は全然違う地方なのですが、浮いてたのはやっぱり博多のあの川だったのを思い出しました。今は暴対法と半グレの時代なので、そんな昔話をしても仕方ない。
この小説の病院も、以前は人里離れた隔離された環境だったのが、宅地開発で人家がどんどん迫ってきたという、よくある話です。でも、まあ、まだ、さみしい、山の奥の、薔薇の名前みたいなところもありますよと。コンビニも近くにない。舗装された道路はあって、自動車は通る。そんな病院。
あと、ヒデマロさんが考えて実行した彼女の救済へのサクリファイスが、ほんとに彼女を掬っていたという、その奇跡が小説ならではでした。「それが余計なお世話なんよ、あーしに心理的な負荷をかけよう思うてからこげなことをするとじゃろ」みたいに切れられたりしないで本当にほんとうによかった。神さまありがとう。上帝保佑你。以上