ほかの人のブログで拝見した本。
同社が出してる専門誌「こころの科学」(奇数月の隔月刊なのかな)188号(2016年7月号)~203号(2019年1月号)連載の同名タイトルエッセーに加筆訂正、間にはさまるコラム二篇は、それぞれ「臨床精神医学」第42巻11号、2013年、「ヘルシスト」第252号、2018年からの転載とのこと。まず、軽く、エッセーであろうと思って借り、その間アマゾンなどの内容紹介で、著者の小説家が、小説は何度か読んでいたのですが、うつであることは知らなかったので、それを知り、北杜夫みたいなものかとたかをくくっていたのですが、いざ手に取ってみると、専門誌連載ということで、前半は非常にハードルが高かったです。後半は、依存やハラスメントなど、鬱以外の問題に拡散してゆくので、エントロピーがアレで、希釈されて、さほど痛痒を感じなくなります。よかった。前半の調子で最後まで押されたら大変だった。
頁018、「躁のときこそ寝る」へえと思いました。作者は双極性のⅠ型だそうで、Ⅱ方煮方型との違いは書いてないのですが、検索しまして、躁と軽躁の違いらしいのですが、その両者の違いは、一行で定義されるものでなく、症例の特徴の積み重ねで省略せず書き連ねないと理解出来ないようなので、それで書いてないんだなと思いました。
エナジードリンク飲んでテンションあげたりとか、疲れマラとか、そういうノリの次元ではないことは分かりました。ただ、ハイテンションで書いた創作は、後から見直すとどうしようもない箸にも棒にもかからないボツ作でしかないというのはうなづけました。バロウズとかどうだったんだろう、調べませんが。
頁019
意識が高揚していても、体力は消耗しているのである。それを正しく感じられないから病気なのだ。
頁026、休職期間中は、医師の指導に従って晩酌を断っていた、というのはよいことだったと思います。つらく感じられたそうですが、薬と酒の飲み合わせの弊害は私も他の本で読んで、むか~しここで読書感想書きました。こわいこわい。
『アルコールとうつ・自殺――「死のトライアングル」を防ぐために』 (岩波ブックレット)読了 - Stantsiya_Iriya
頁029
結論から言えば、病気の説明は患者がするべきことではない。一人ひとりの症状も処方も異なるのだから、主治医にしてもらうべきことなのである。精神科への診察に同行できる立場にない方は、医師の書いた本など読んで一般的な知識を養っていただけたらありがたい。かつて後輩から「うつ病に関する本を買って読み始めました」と手紙をもらったときには、お見舞いよりも感激したものだ。当事者が欲しいものは、アドバイスや共感ではなく理解なのだと思った。(以下略)
アドバイスは論外ですが、理解よりも共感、話を聞いてもらえることを望まれていると感じたことが多く、ラシオナルであるべしとは思わなかったので、これ、この人だけなのか、けっこうみんなそうなのか、腕組みしてしまいました。どうなんだろう。
頁55で、いくつ病院にかかって、それぞれの医師がどうだったかについて、転院理由が物理的な転勤だったり、入院に際し慎重深く検討した結果だったり、と自身のことを書いて、「通った病院が合っていなければ、転院することは悪い事でも何でもない」と言い切っていて、清々しいと思いました。信頼関係が築けることが前提で叱られたり投薬されたりするので、まあそうだろうなと。診察時間の短さについては、双極性障害に関してはとのただしつきで、患者側にも体力がないので自覚症状や相談事項をちきんきちんとまとめて話して解をもらうピリオドとしては、ありなんだそうです。ここでは精神科とカウンセリングに違いについての見解も書いてあります。私は、薬漬けというのが世の中にはあると思っていて、それを回避するために医者を代えるのはありだと思っているのですが、それには触れられていません。ただ、著者は医者との相談を継続しながら微調整を繰り返して減薬し、断薬という言い方は日一日でないからか使ってませんが、服用せず日常生活を送るとこまで行ってるそうです。ただし万が一のための備蓄は医師に報告の上所持している。
頁040
たとえば、躁状態に効果のある代表的な薬としてリーマス(炭酸リチウム)があるが、炭酸リチウムがなぜ効くのか、脳のどこに作用するのかもわかっていない。
大昔の人々は草や木の実などを痛みのある場所にあてたり、煎じて飲んだりして試してきたはずだ。最初はどうして効くのでかではなく、効いたという事実が蓄積され、活用されてきたのだろう。現代のわれわれが処方される薬も、大筋ではかわらないのである。
ここを読んで、初めて、頁016「リチウムの金属イオンから発生する電気と感覚の関係が解明されたら面白いだろう」の意味が分かりました。ホリエモンならやってくれるかもしれない。味の好みが変わったり聞きたい音楽が変わるというのは、可逆的なものなのかと訝しんだりしました。突然すっぱいものが食べたくなるのはをのこの場合、夏バテだと思うのですが、実はうつとか、そういうふうに双方向で考えたくはない。私はプログレを聴いたり聴かなかったりしますが、分析したくない。筆者は、何故病気になったか考えることはループにしかならないのでやめなとしています(病状が進行した後の段階では、そもそものきっかけは解消されてたりする場合も多いとも書いてます。解決してるのに病気が残ってるところで、振り返ってもと)あと、SNSもネットも遮断しとけと。だだ入りで振り回されるから。
この人はセルフコントロールの鬼だな、と思ったのは、未病と早期予防などで、その辺の人がインフルエンザやノロウイルスで仕事を休んで復帰する期間と同じくらいで復職出来るよう調節、コントロールして、仕事に穴を空けないよう実践しくふうし、それに成功しているという点です。ラジオパーソナリティも一度しか休んでないとか、執筆の休載は一回もないとか(でも突発や臨時の、講演会や朗読会は調整する)そういうところ。ワセ女であり、政経であり(政治ではなく経済、とかは私が考えることではない)メーカーの営業職と病気との並走から、将来的なライフプランを考えて?か考えないでか、執筆業に転じるあたり、すべて活かせる方向で生きてきて、生きてゆくんだなと。
頁059、火を落とすと次の点火に時間がかかるというのは飲食店のようだと思いました。閉店間際に客が暖簾開けて、「まだいける?」と訊いて、大将が「ごめんもう火落としちゃったんだ」「まだ大丈夫っすよ火落としてないんで」どちらを答えるかのあの感じかと。昔、串揚げを一点だけ頼んで、おかみさんが鍋の油に火を入れるところから始めて、私をその店に連れて来てくれた人が、「もう若くないんだからそういうオーダーの頼み方しちゃいかんよ、いちいち火を入れて作るわけだから、ひと串だけとかダメ」と言われたことを思い出す。
頁064
女性性のほかに、私が自分に禁止してきたことのなかに「さびしさ」があった。長い間「さびしい」と言うのはみっともないし、女々しいし、自立の妨げになると考えてきた。するといつの間にかさびしさを感じなくなった。しかし最近、古い知り合いに会って別れるとき、ごく自然に「さびしいなあ」と思ったのである。それは久しぶりのものだったが、自分一人で感じるぶんには、決して悪いものではなかった。自分に足りない部分を満たしてくれる柔らかさがあり、他人を尊重したときに生まれるものだということにも気がついた。「さびしさ」もネガティブな感情だが、相手にぶつけたり、ほかの感情や行動と結びつけるべきではない。昼間に対して夜があるように、自分の周囲にある豊かなものの一端として静かに受けとめられるようになりたいと思う。
作家だなあと思いました。うまいこと書かはる。この本を読む直前に知った「感情労働」という言葉も、この本には当たり前に出て来ます。
頁068
(前略)
つまり、出かけない言い訳を考えているのである。出かけない言い訳は、できない言い訳とほぼ同じである。そして言い訳ばかりで何もしない自分を責める。
そのうえ、あきらめがつかなくて一日中言い訳を探し続けていたりするのだ。これはなかなか疲れるし、つらいことである。
(中略)
そんなとき、私は自分を「だらしない」と思う。そのあとは自己否定的な感情が優勢になってしまう。
だらしない、と自分を責めるのはいったい誰なのか。
それは、普段よりもっと完璧になりたい自分なのである。完璧にできるのはいいことのように思えるが、「一〇〇パーセントでなければやらない」というのは、「一〇〇点じゃなければテストを受ける意味がない」と言い張る子どもと同じで、ただのわがままだ。
完璧主義の危険
主治医からの指導に「受動的な状態では休養にならない。能動的でないとこころは休まらない」というものがあった。
(以下略)
後半、「依存」についての個所は、たばこと、あと、パチンコもあったみたいですが、パチンコのほうは、あんま書いてないので、よく分かりません。そういう感じで、私自身今調子よくないので、こりゃエラいタイミングでエラいの読んだなと思ったのですが、まあ、誰しも(私も)書きたくないことは書かないわけだし、別にそこはそれで、と思いました。ウィキペディアのこの人の項目で「映画脚本を巡る訴訟」という項目があり、彼女はこの件について自身の電脳世界での情報発信では一切触れなかったとあり、それは、闘病と同時進行であったわけなので、抽象的にいくつか書かれた散文的な文章がもしこの件なら、そういう形でしか書かれていないということであり、もしその部分でないなら、書かなかったということであり、でも別にそれはそれで自由だと思います。
そのかわり、お金がなくなることへの不安がいつもあるという部分(私もあります)などが率直に書かれているので、それでよいと思いました。
頁082
(略)
「性欲が昂進して困っているのですが」
と言ったのだった。病気に関する本をあれこれ読んでいたからそういう表現ができたのだと思う。もちろん、親に言うくらいなら切腹したほうがマシというくらい恥ずかしいことである。結婚しているわけでも、決まったパートナーがいるわけでもないから、友人にも言えない。
だが、主治医は淡々とした口調で、
「そうですか。ではデパケンというお薬を頓服で追加しておきましょう」
と言った。
私が感じている恥の意識と、医師が知りたい病気の症状がまったく異なることを知って私は驚いたし、医師の対応に感動した。そして、結果的には 観念の逸脱を話したことが行動の逸脱を防いだ。処方されたデパケンが効いたかどうかはわからないが、ある症状に対処しているという自覚をもつことが逸脱を防ぐためのブレーキとなったのである。
私はここは虚を突かれた、というか、はっと、清新な驚きを感じました。いや~、人類は何処まで行くのかな。以上