山崎洋子サンの本の、女性の評伝についての箇所で出てくる本。
書誌情報、表紙や帯の画像、アート・ディレクターの御芳名は上記で見れます。初出がないので、書き下ろしなのかなぁ。
上記には中表紙の画像はないので、私の自己主張として、貼っておきます。でも上が切れてる。読んだのは1980年8月の十三刷。あとがきあり。冒頭巻頭にひとつ、晶子の歌を置いて、その次本文です。まえがきはないのですが、冒頭の部分はまえがきのようなものです。おせいサンが自身の戦中の体験なども交えつつ、晶子の歌を批評してゆき、段を代えて、生前の彼女を知る人の証言を載せ、いつの間にか、私たち読者の目の前に、少女時代の晶子が堺の生家である老舗菓子屋の帳場に佇み、手代の定吉が、笑いながら彼女に声をかける。落語の導入のようです。
以下つづく。
頁17
(略)
「えらい熱心に本読んではるよって……さっき、お客さんが来はったんも知らはれしまへんかったやろ 」
「そうか」
と晶子は上気した頬を定七に見られまいとするように、また目を本におとした。
「しょうとはんは頭がおよろしいさかいにな。えろう、むつかしそうなご本でおますな」
「ふん……」
と晶子はもう眼もあげない。
「何ちゅう本だす」
「定七にいうてもわからへん」
「それはそうだんが」
これは何ことばでしょうか。山崎豊子だったら、なんでんかんでん船場言葉と言い切ってしまえばいい気がしますが、田辺聖子で泉州となると、何語なんだろう。
頁76
「まあまあ、いつも、しょうがお世話になりまして、ありがとうございます。どうぞ、まあ奥へ、お上がりやしておくれやす」
この、「しょう」が晶子の本来の名前で、戸籍名は「志ょう(志やう)」フラウを意味する「いとはん」をプラスして、「しょうとはん」と丁稚や手代から呼ばれていたとか。苗字がカッコよくて、父親が明治に苗字を作った時、おおとりと書いて「ホウ」と読ませる「鳳」姓を役所に届け出たとか。商家ならそれ以前から苗字あったんジャネーノと思ったり、大鳥でなく「鳳」なのは、大阪商人に流れる漢学の血脈、「懐徳堂」のエスプリを受け継いでいるのではないかと想像してにやにやしてみたり。お聖どんアドヴェンチャーのしとは、ホウ・ショウとはまるで外国人のような名前と軽やかに書いています(頁21)
頁14、晶子研究が進んで知られるようになった写真を見ると、晶子は美人というより、意志の強いがっしりした人間に見えるとのこと。肩も怒り肩で、胸は豊満。それが、着物の衿をルーズにはだけてるように見える、実はそれは関西風の着こなしで、腰元で締め付ける着付けでとか。髪はトレードマークの「みだれ髪」
その着付けの与謝野晶子の写真はわりあいサクッと出ましたが、着付けの特徴を別のデルモで見ようと思うと、関東巻と関西巻の話しか見つけられないのでした。
さらに言うと、与謝野晶子で画像検索する場合はまだいいのですが、旧漢字の與謝野晶子で検索すると、文豪ストレイドッグスのコスプレに埋め尽くされてしまう感があります。その漫画だかアニメだと、どういうキャラなんだろう。本書は、一貫して旧字で、「與謝野」と書いています。人名は、当用漢字に変えたらアカンという思想でしょうか。ピロシは、「鐵幹」ただし、来年の干支でもある鼠輩と叩かれる(頁237)文壇照魔鏡事件以降は本人がテッカンと名乗らなくなるので、田辺聖子も「寛」と呼び方を変えています。『美は乱調にあり』の漫画でしたか、一環してテッカンと書いてあるのをどっかで読んで、その時は何とも思いませんでしたが、本書読了後、あれはどうしたことならとハテナマークです。
頁97
(略)癇癖のたかぶりは一向やまず、百姓馬を引き出して田の中、畑の中かまわずのりちらし、馬の脚を折っては兄に償わせたりする。百個に近い鶏卵を籠ごと砕き破ったり、手も通さぬ服を湯殿の火にくべて、ああ胸がせいせいした、といったり――。狂的な乱暴者というべきか。変人といわれてもしかたのない所行だった。
「新内の上手な子がおりますけえ、坊さまそれでもきいてみられたらどうなら。ちっとはお気もはれましょうに」
村人のすすめで、寛は、その少女を呼んで「明烏」をきいたりした。その子はお安といった。美しい子ではないが、いかにも気のいい、やさしい鄙の少女だった。寛が発作をおこして、寺の塀の瓦を一枚一枚めくっては叩き割ったりすると、お煙草盆のあたまを寛の胸にすりつけ、とりすがって泣いた。
「坊さま、こらえてつかあさい、こらえてつかあさい」
津山三十人殺し。岡山なので、ヒロトみたいなべしゃりになります(ちがいます)
このテッカンサンは、本書の読書感想を読んでいても、本職が、現代なら人格障害のナニ型と書いているくらいで、最初の嫁は別れた後教師として手に職つけて上京して生涯独身、次の嫁は閑谷学校(本書では閑谷黌こう。頁297)出の穏やかな年下と再婚。岡山、池田藩。關係ないけど、昔行った閑谷学校の写真を貼ります。
すべて2009年撮影
作者が、「いまもその遺構が、静かな山村の中にのこされて、好学の藩風をしのばせ、郷土の誇りにもなっている」(頁296)というそのまんま。
話を続けると、晶子と同時期にコナかけた美しい方の女性は、嫁いだんだかなんだか忘れましたが、結核で死にます。(旦那が先に死んだんでした)あと、雅子というのが出ます。あと朝鮮の娼妓。ほかにもいるかもしれないが、記憶に残らず。
頁73、晶子の性格を「ナイーブ」と書いていて、まだこの時代はナイーブが「ばか」の意味であることが日本で理解されていない頃だったのだなと思いました。私も昔は「ばか」の意味だと思ってなかったので、どこで日本人は間違ったのだろうと訝しんでいます。誰がテキトーな外来語としてナイーブを日本に広めたのか。コトバンクの精選日本国語大辞典に田山花袋や芥川龍之介の用例が載っていて、そのころ既に原語と乖離した意味に捉えられてるんだなと分かります。
本書を読むまで私は時系列をあまりきちんと認識してなくて、事実であるところの、①まず鐵幹が色魔として糾弾される ②晶子が「みだれ髪」で女神になる ③君死にたまふこと勿れ を分かってなかったです。②③だけかと思ってた。晶子の「親は刃をにぎらせて、人を殺せとおしへしや、人を殺して死ねよとて二十四までをそだてしや」「死ぬるを人のほまれとは、大みこゝろの深ければもとよりいかで思されむ」にかみついたのは、昨日感想書いた吉田類の本にも出てくる大町桂月で、確かにすめらみことのくだりは、21世紀の昨今、私も前段省略してここに写しました。③で與謝野晶子は晴れて乱臣賊子と罵られることになったそうで。
頁330
焼鉛なまり背にそそがれしいにしへの刑にもまさるこらしめを受く
なぜこんな歌をわざわざほかをさしおいて写したかというと、鉛を蛤に空目して、「その手は桑名の焼き蛤でえ!」と思ったからです。焼きハマグリ背中に入れられるとか、何の罰ゲームなのかと思いますよね。「蛤のオスメスはどうやって見分けるのかしら」「蛤は蛤じゃないかね」(つげ義春『やなぎ屋主人』より)
頁188
(略)女にとっての最良の友は(いや、友の一人は)、男ではないかと、私にも思えるのである。ただし、その男は、友人であると共に男の要素もある、まかりまちがうと恋人にも擬せられるべき好みの男で、それを友人にとどめておく楽しみは格別のものなのである。(略)
本書は、田辺聖子が、実在の人物の架空の会話を、見てきたように脳内で作り上げてスラスラ書いてゆくという、今ではあまり見られない技法の小説ですが、数少ない、時々挿入される、彼女自身の感興が矢張りキモだと思います。自分が一貫して書いている、恋にまつわるあれこれより、天下国家や飢餓問題のテーマの小説のほうが高尚と考える男(活動家?)に傷つけられた、とグチる部分も面白いですが、それより、上記のような部分のほうが好きです。今でもこういう光り輝く男子をサエないヒロインの周りに本命以外の存在としてはべらしておくのは、少女マンガの鉄板設定と思います。これの錯覚がホストクラブ、と言ってしまうと身も蓋もないか。以上