『愛と心の迷宮 -イタリアと日本ー』読了

 吉田類が『酒は人の上に人を造らず』でハチキンとして紹介していた女性のイタリア本を読もうシリーズ第二弾。

愛と心の迷宮―イタリアと日本

愛と心の迷宮―イタリアと日本

 

 ハードカバー 装丁 丸尾靖子 装画 寺田伸子 

第一章「心の迷宮」は日本イタリア京都会館での同名講演、第二章「女の迷宮」は石川県美川町主催「島田清次郎恋愛文学賞」授賞式記念講演「現代において恋愛小説は成立するか」を、それぞれ大幅に膨らませたもの。講演はどちらも1999年。第三章「愛の迷宮」は書き下ろし。

はちきん - Wikipedia

男性の睾丸は一般的に2つであるため4人の男性が揃うと睾丸が8つになるが、8つの睾丸を手玉に取る女性ということである。

 本書第二章で、バンドーさんは、ロミオとジュリエットのロミオを「ふにゃちんロミオ」ゴーンウィズザウィンドのレッド(レット?)・バトラーを「ポテちんレット」と表現し、「盆栽女」(徳富蘆花『不如帰』の浪子)でも「アンチ盆栽女」(『痴人の愛』のナオミ。剪定してないだけで、経済的に自立してないので、盆栽女同様、男が水をやらないと枯れる)でもなく、女性が性的に熱く生きるにはどうすればよいのかを問い続けています。それがハチキンということか。

岩波は時々、血迷った本を出します。返本不可の出版社なのに。第一章で、帰国後、東京でバンドーさんがコートを肩から羽織って一升瓶持ってぶらぶらあるってると、「偉そうにあるきゃーがって」と中年男から罵声を浴びせられる場面があります。東京ではあっても中央線沿線ではなかったのでしょう。そうやってカタにはめられる日本社会の苦しさからの脱却と、性的に熱く生きること、しかもそれは男にとっての都合よさを意味しない、のふたつを模索し続けるのがワタシデスヨ、という本だと思いました。ちがうかな。

本書時点でもうタヒチに住んでいて、それもひとつの解だと思います。彼女のタヒチエッセーも読んでみたいと思いました。頁148にひとつ、タヒチ帰りの新婚日本人カップル観察記があり、これなー、バカップル批判ならみなウンウンうなづくのに、日本文化の批評にしちまうから、後年マグマのように噴出した子猫騒動(この本の感想書く際にやっと知りました)の素地が水面下でグツグツ醸造されたんだよ、と思いました。

あとがきに唐突に、本書は何百時間にも及ぶ、ジャンクロード・ミッシェルという人の発言と罵倒に耐えることによって、ブラッシュアップされたとあり、ジャンクロードの鋭い指摘と意見がなければ本書は完成しなかったとあります。このジャンクロード・ミッシェルという人が、またエゴサーチから巧みに逃げおおせてるわけではないでしょうが、インヴィジブルな人に見えます。バンドーさんの『血と聖』2006年のデザインしたとか、バンドーさんと共著で梟森南溟名義で『恍惚』『欲情』を2008年に出した、くらいしか、検索結果では分かりませんでした。検索結果一覧 | KADOKAWA

で、そのレビューの書き込みなどで、共著出版後に別れた、という情報を得ました。そのあたりで、ウィキペディアにも書いてあることは書いてありましたが、読み飛ばしていた「子猫殺し」が、ネットで炎上してたことを知りました。

作家の坂東眞砂子が55歳で亡くなったのは、子猫の祟りでしょうか... - Yahoo!知恵袋

ウィキペディアの記事と、東野圭吾自身のエッセーでは、ニュアンスが違ってるもんだなと、追悼文もウェブで読めるので、思いました。

坂東眞砂子さん追悼文 『じつは子猫を殺してなどいなかった坂東眞砂子さんのこと』 東野圭吾

過去のウィキペディアの魚拓?では、共著後に別れたパートナーと書いてあったのに、現在のウィキペディアではその記述が消えているジャンクロードサンも、やり手であると思います。同名の俳優はいるわけですし、FBやインスタ、ついったがあるかないかもよく分からなかった。猫でタヒチ離れたわけでなく、そもそもタヒチを選んだのって、パートナーがフレンチだったからじゃん、別れたからタヒチ離れたんじゃなかろうか、という仮説を立てたのですが、いつタヒチを離れてイタリアに行ってまた日本に帰って来たのか、時系列、タイムラインが明記されてないので、さっぱり分かりませんでした。仮説は仮説。本書も、すべてバンドーさんの仮説なんだそうです。

私としては、彼女がネットで炎上した素地のひとつとして、頁56、南京「あった派」であることなどもあったんじゃいかと思うのですが、それも仮説。第一章は、どうも、イタリアと日本の二項対立ばかりに拘泥していて、イタリアにだって移民や外国人はあらーな、悪童バロテッリや、旧聞ですが、イラン人空手家アリ・カバキの卒業旅行日本刀アレ事件、私もナポリの女性から昔、パキスタン料理屋は睡眠薬盛られるので行かない、ノー偏見、ノー偏見、わたしのともだちの話、ホント、ノー偏見、なる話を聞かされたことがあり、イタリア人の特性とやらも、イタリア人だけが暮らしてるわけじゃないんだから、またちがうんじゃないの、だいたいシチリアとかサルディニアとかの、半島と少し違うイタリア人が一切出ないし。と思うです。イタリアが能天気でスペインが少し暗い(頁8)というのも、どこから来たのか。モラヴィアなんか、ネクラもいいとこではないですか。ムッツリスケベだし。ぜんぜん開放的な性じゃない。

アルベルト・モラヴィア - Wikipedia

第二章は、『痴人の愛』を出すならナボコフと対比させてほしかったし、1976年の『カウガール・ブルース』という小説を教えて頂いて助かりましたが、ユマ・サーマン主演の映画化と同年?の1993年に、その日本形が松浦理英子『親指Pの修業時代』として登場した点も、クリティークしてほしかったと思いました。遠藤周作の『白い人』がジッドのパクリじゃねーかと思う時代から、1㍉くらいはズレたんでしょうか、と。

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第三章は漢語の「愛」とキリスト教の愛の違いがどーたらこーたらなので、後者がセックス前提って、そりゃ違うだろ、アガペーのぺーも出さないでよく言うよ、と、多分ジャンフランコ・ゾラ、否、ジャンクロード・ミッシェルも突っ込んだ(比喩)んだろうなと思いました。いやー、仏典に「愛」があるんですかね、あるかもしれませんが。そしたらそれ、サンスクリットでは、なんという。

http://labo.wikidharma.org/index.php/%E6%84%9B

バンドーさんは、仏教の「愛」は漢字になった時点で儒教の影響を受けてどーたらと書いてましたが、中村元が訳したブッダのことばを見ると、そういう話でもないですね。

 というわけで、次を読みます。以上