『上村松園全随筆集 青眉抄・青眉抄その後』読了

 装幀 晴山季和 巻末に初出一覧 カバー画は東京国立近代美術館蔵の「母子」(部分)昭和9年 中扉も同じ。それをめくると、昭和十五年くらいの製作中の著者の写真

上村松園全随筆集 青眉抄・青眉抄その後

上村松園全随筆集 青眉抄・青眉抄その後

  • 作者:上村 松園
  • 発売日: 2010/07/01
  • メディア: 単行本
 

「序」はお孫さん。大戦末期の食糧難の時代に、疎開先の神功皇后陵北側のアトリエで、近くの池でつかまえた食用ガエルをばぁばに食わせた話なぞ書いています。

この本を、ほかの人のブログで見たのか、はたまた、東京富士美術館の展覧会観ようと思ったのが休館で見れませんので、それでふと借りたのか。

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ja.wikipedia.org

たいがいコロナにみんな飽き始めてるようで、ネットでイキオイのある不要不急外出絶対忌避派が以前ほどの「いいね」をつけられなくなっており、風通しのよい郊外などに自家用車で向かう多数派との乖離が目立ち始めている気がします。それでまあ、私の周りでも、開いてる美術館を必死に調べ、開かれた空間の彫刻の森美術館でも行けばいいものを、山種美術館は開いてるぅ、なんつって広尾に行った人がいます。広尾駅の銭湯と改造湯にはさまれたあの辺なら、私も行きたかった。閑話休題

鏑木清方の随筆は大層面白かったのですが、この人、ウエムラサンはどっぷり画家だったみたいで、それほど文章で人に何かを伝えようと思ってなかったのかなと思います。お子さんどないしてつくらはったのかも全然書いてない。ウィキペディアで、独身のまま出産育児しやはったと知りました。自身も早くに父をなくして母一人子一人。

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/0/0e/Uemura-Flame-1918.jpg/225px-Uemura-Flame-1918.jpg私はこの人が女性であることも頭に入っていませんでしたので、当然代表作など分かろうはずもなく、「焔」は、芸大の冥土の土産展で見たかなあ、りっぱなおいどやなあ、と思うくらいで、女性を、どう描こうとしたのか、まだよく分かってません。美人を能面のように描きたかった時もあるかなくらい。

絵に関するめらめらの文章はときどき面白いです。

頁206

(略)低級な雑誌の口絵を模写したり、ひとの足跡を追っているようでは寧ろ初めから出直したほうがいいと思います。しかして現代の婦人作家は模倣性が強くて少しも自己に資料を求めるというような真摯な態度は少しもありません。(略)例えば私が松園といえば、東京にも大阪にも園、園と沢山に似交った雅号の作家が出るような有様であります。(略)(談)(大正九年) 

頁247、店先で模写するため何時間でもそこにいるので、画商の丁稚から嫌われ者として扱われたくだりで、丁稚が「アッ又来やはった」と、どうでもいい時でも敬語にしかならない京都弁でおそれおののく場面もよかったです。

もともと美人画だけがやりたくて、ジャンル創出に近い形で苔の一念で画業の世界に入っただけに、美に関してドンカンな人へのまなざしもするどいです。パーマはだいきらいだったようで。

頁211

 近頃の電車の中などでも、昔のように丸髷や文金などの高雅な髪を結った人が少なくなりまして、馬糞をのせたような手つくねの束髪を余計に見るようになりましたが、(略)時には浅ましくなって現代を詛いたくなります。 

 髪形にはうるさい人だったようで、日清戦争頃から明治三十年にかけて流行った揚巻という髪型が、鏑木清方の《築地明石町》の婦人髪であると、頁239に書いています。鏑木清方が出てくるのはここだけ。

頁317、皇太后皇后陛下だった自分に御前揮毫した時のことを書いていて、そういえば、美智子さまかたはどっちだったかしらと検索しました。

www.asahi.com

昭和天皇皇后陛下に対し、「ぼくらはみんな生きている」の替え歌があったことを、知る者は今どれくらいいるのでしょうか。

京都人なので、頁354、〳よいさっさにゆきましょか 〳よいさっさ、よいさっさ、江戸から京まではえらいね とか、〳ざとのぼーえ とさんさ、さかずきしましょう などの歌も面白かったです。以上