先日苦し紛れにあげた古谷三敏のマンガ日本の古典ですが、岩波文庫も出て来たので置いておきます。 正式名称『柳髪新話浮世床』(たぶん)
この自序を読んで、もう絶対買おうと思いました。唐山と書いて「もろこし」とルビを振るわ、媽媽と書いて「かゝあ」(かかあ)とルビを振るわ、滅満興漢や小中華朝鮮からは決して出て来ない発想の「大清中華」なる単語は出るわ、儒学者が白髪三千丈をそのまま信じて大陸の人間は髪の毛まで長いと見て来たようなバカを言い、するってえとなにかい、ひたいのワタりが一尺で眉間尺なら、鬢(びん)が四間で閔子騫てか、と問うと先生さんは黙ってしまう。そのとなりに国学者ありける。以下略 …
和漢唱へのかはるのみにて。人情すべて同じけれど。
丁度この頃、「支那」という呼称は明治の、日清日露以降江湖に普及した名称で、江戸期は「唐」と書いて「もろこし」「から」と読むほうが主流だったとの説を補強するために江戸時代の書物をパンパカ読もうとしていて、新井白石だの平田篤胤だの荻生徂徠だの頼山陽だのもうすべて㍉、小生(棒)には読めま千円と泣き言を言っていたので、本当にこの本には、何か救われたこころもちがするですでした。この出だしからして漢学について、式亭三馬に含むところがあったのは明白で、続く本文にイキナリ市井のツブレ儒学者、孔糞先生が登場するところからも三馬のルサンチマンの深さが伺えます。でも一ヶ所も「支那」という呼称は使われていない。
ステキな消費税3%時代。デフレ脱却。
https://www.iwanami.co.jp/book/b245856.html
本書に解説や校訂者あとがきはありません。いっそ潔い。
初版は昭和三年。最初に買ったのはカバ欠というかカバーの無い時代の岩波文庫で、次がこの平成四年の岩波書店創業80周年リクエスト復刊。五百円も出してたのか。惜しくないですけど。
頁67
一杯の水の手向がナ。唐からの鏡かがみの屎うんこをたべたよりも。嬉くて〳のウ。
戯作者とは、ほんとーにいい意味でバカな話を作る人のことだと、よく分かりました。身も蓋もない。以上