『従兄ポンス ―収集家の悲劇』"La Cousin Pons" (バルザック「人間喜劇」セレクション 第13巻)Balzac: Les Chefs-d'œuvre de La Comédie bumaine バルザック生誕200年記念出版 読了

 髙村薫『地を這う虫』で、避難入院の与党大物代議士が、こんな時でもないと読めないからと病室に持ってこさせる本の一冊。装幀 毛利一枝

 責任編集は鹿島茂山田登世子、大矢タカヤス。冒頭に関連地図三点。巻末に訳者解説と、鹿島茂福田和也の対談。福田和也じしん、フランスのあまり値段が高くない詩人の直筆原稿のコレクターなんだそうで、いろいろと話に花を咲かせています。バルザック自身のコレクションは、本人は価値があると思っていたが、死後、くそだったことが遺産鑑定で分かったとか。本書だと、それはすりかえられた結果なのですが、バルザックのは、すりかえられたわけではなくくそだったそうです。それから、コレクターと借金体質の相似。私も本を売っていた時、「もううちの主人に本を見せないでください」と奥さんに電話口で泣かれたことがありますが、それは以前にも書きました。掛売だから、売る方も、払わない客にバンバン見計らい吸い取られて苦しくなる一方なんですけどね。見かけの営業成績だけ見てウハウハして、売掛回収までが仕事というふうにならなくなると、そんな会社もう推して知るべしで。でも当時の銀行相手だとそれで通用してしまうのかなあ。まさかね。不詳アラマタは、蒐集本を捨てた母親を生涯許さなかったそうです。杉浦日向子と内縁の妻との想い出は、そんな母との相克で説明はつかないと思いました。不肖カワバタもまた、骨董蒐集の代価をほとんど払わず死んだそうですが、死後現物でとりかえそうにも、遺族がカワバタ記念館を作ってそこに展示してしまったので、指をくわえてみてるだけの泣き寝入りになってしまったとか。それでかどうか知りませんが、この対談では、収集品は溜まったら放出して、美術館などに死蔵させないようにしようというポリシーが語られます。もっとも、海外の美術館は、定期的にオークションなんかに出品して、空気の入れ替えと資産形成を同時に行ってるとこもあるとか。それと、鹿島うじは、個人で買えないものを古書店に耳打ちされ、科研費で買って大学に収めてしまったとか、そういう研究員あるあるもちゃっかりやってるとのことでした。青山二郎、北王路魯山人福富太郎の批評もあります。

対談で、鹿島うじが主張して、福田和也もあわせてるんだけど、ほんとは福田和也ちがうだろと思ったのが、コレクターとグルメは両立しないという考え。鹿島うじによると、コレクターは三度のメシを抜いても欲しいものは手に入れようと思うはずだから、おいしいものも食べたい、あれもほしいこれもほしいは成り立たない。それをこの小説の主人公、ポンスは両立させているから(あるいは破綻させているから)それがこの小説のすごいところという。福田和也って、大森だか蒲田だか大井町だかのトンカツがどうとかとかも随筆に書いてた気がするので、ほんとはそれに臆面もなく賛成しちゃいけないのですが、うわべはウンウンうなづいてる。ここ、でふ先生こと南條竹則をゲストによんどけば、鹿島うじの主張に気持ちよく相槌なんかうってくれないだろうから、面白かったのになと思いました。

あと、パリで、娼婦が水商売あがったあとやるのが骨董業という個所。目利きというわけでなく、イロでガラクタ売るという。須加田さんの彼女を思い出しました。あれはアメリカ小説なので、目利きというファンタジーでしたが。で、あとは、金融小説、相続小説、というジャンルが欧米にはあるが、日本は相続税が高いので成立しない。金融小説で、法律知識とエンタメを両立させたのはナニワ金融道が最初ではないかという個所。ほんまかと思いました。後妻業とか、今はそういうの増えてよいと思います。

そんな小説です。悪漢小説、ピカレスクロマンと言ってもいい。主人公ポンスと役に立たない盟友シュムッケは、そうした連中に食われる側。風采が冴えないし、汚いジジイなので読者にも同情されない。映画後妻業で観客に笑われる側。

盟友シュムッケはパリで暮らすドイツ人で、ほかにもドイツ人は出るのですが、何故かこの人だけせりふが全部カタカナです。原文の字体が違うとか、何かあるのだろうか。まさかせりふが全部ドイツ語ってこともないと思うのですが。『きのう何食べた?』で二人とも自炊しないで賄いもらってる状態。

そんな本です。饒舌なので、だらだら読むがいいと思います。でも現代人は時間がない。とりあえず、アラビア文字なのにサンスクリットとか、そういうのがなくてよかった。「シボの上さん」は、锡伯族のカミさんと思いはしませんでしたが、だったらいいなと思いながら読みました。それでいえばタイトルも、「いとこ」とは最初読まず(ルビ振ってるのに)「じゅうけい」とおもおもしく読んでいて、「重慶ポンス」などと駄洒落を考えていました。以上

【後報】

「魚鳥木ポンスかポンスか」「ポンスポンス」

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頁27

情熱のない、ひたすら正義だけの人間などは、人間とは思えず、まだ翼が生えてこない半人前の天使である。天使はカトリックの神話では頭しか持っていない。 

 中公文庫のマークを連想しました。押井守の本も検索で出ましたが、未読です。知りません。

https://www.chuko.co.jp/common/images/bunko/bunko_tit.gif

文庫|中央公論新社

頁230

 いつものように突然慌ただしく飛び込んできたシボの上さんは、母親と食卓についていた医師を驚かした。食べているものはノヂシャのサラダで、サラダのうちで一番安上がりなものである。デザートはブリー・チーズの細く切ったものと、ほんのわずかの四人乞食(干しイチジク、干しブドウ、ハシバミの実、アーモンドを混ぜたもの)と呼ばれる果物、それもブドウの軸が多く目につくのが添えられた皿と、固くて小さいリンゴの質の悪いのが載った皿があった。

「お母さん。ここにいらして結構ですよ」と医師がプーラン夫人の腕を取って言った。

 女盗賊プーラン。ブリー・チーズを最初ブルー・チーズの誤植かと思ったのですが、私が物知らずなだけで、ブリー・チーズというのもありました。

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ハシバミの実というのは、よく西洋の小説で出てきますが、食べたことないので検索しましたが、ヘーゼルナッツのことかもしれないです。でもだったらヘーゼルナッツって書くだろうし、よく分かりません。

ハシバミ - Wikipedia

いずれにせよ、こういう実際上の文物の記述が豊富に散りばめられている点が、本書の、ひいてはバルザック小説の、世紀を跨いだストロングポイントなのだと思います。

頁253

「知りたいんですか? どうしてあなたがギロチンにかけられるようになるのか?」

(中略)

 シボの上さんは身振りで何か言おうとする。

「いや、別にあなたを非難するわけじゃない。それは僕の役目じゃない」とフレジエが客のその身振りに反応して言った。「これは戦いですからね。それに、あなたは自分が思っている以上に深みにはまりこむことになる。自分の思いつきに酔うと、ひどく酔いがまわるもんです……」

思いつきに酔う、という表現がよかったです。

ポンスは美食がしたくなると金持ちの親戚の家に呼ばれもしないのに行き、親戚はしょうがないので食事を出すのですが、その親戚の一人娘に恩返しとばかり縁談を持ち掛け、交響楽団の独身四十代ドイツ人で多額の遺産が転がり込んだのをあてがうのですが、相思相愛と思いきや、ドイツ人が、一人っ子の娘はわがままだから、俺喰われちゃう、やだ、と破談にしてしまい、親戚はその恨みをぜんぶポンスに向け、ポンスはおいしい呼ばれメシにありつけなくなります。それでポンスは仕方なく同居人のシュムッケと毎晩シボの上さんの作る、材料費をそれとなくどんどん浮かせてちょろまかされたまかないめしを食べるようになるのですが、そこからが転落で。

楽団のドイツ人はふつうのせりふを話すのですが、シュムッケはカタカナでせりふを話します。

ポンスが死ぬ場面というのがよく分からないです。死ぬ直前、突然精気を蘇らせて、収集品を横取りしようとする陰謀もこれまでだ、貴様ら全員地獄を見せてやる、みたいになる場面は分かりやすいのですが、ローソクが燃え尽きる前の輝きで、一気に死んでしまうところが分かりにくいと思いました。

(2020/7/17)