『アジア・旅の五十音』(講談社文庫)読了

 カバーデザイン 菊地信義 ●装丁/菊地信義 ●本文アートディレクション上田宏志 ●本文イラスト/加納登 ●写真/著者 ●解説―魚のアラ煮の深いコク 酒井順子

アジア・旅の五十音 (講談社文庫)

アジア・旅の五十音 (講談社文庫)

 

 前川健一を読んでみようシリーズ 文庫書き下ろし。本書の前に、旅行人から『東南アジアの三輪車』を出しているそう。1999年9月15日初版。ノストラダムスの大予言が外れてから二ヶ月後。

https://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000002822609-00

人生の折り返し点を過ぎたんだか過ぎてないんだか、来し方行く末、弥縫、エトセトラエトセトラを、内田百閒やら稲垣足穂やら青べか物語やらなんやらかんやら、のような、ごく短い散文の書き連ねでモノローグを語ってこまそうと云う本。それだけでは終わらず、後半は出生地池袋と幼少期暮した奈良の賀名生(あのう)探訪記と、ミャンマーカンボジアエッセー収録。カラー写真の、ワンピースで右足漕ぎをする女性(シャン族?)がえっらいきれいです。あとがきによると、この頃は黒子として本の出版企画を立てることが楽しいそうで、本書も、吉田敏浩という人に、書いてほしかったのだが、書かないので自分で書いたとあります。吉田という人は、この後、大幅に政治的な本を書くようになるみたいなのですが、この時点ではそうではなかったということなのか。吉田という人の本も読んでみます。日米地位協定の本とか、私が読んで分かるんだろか。

吉田敏浩 - Wikipedia

これまでの人生の回想を小出しにしないと埋まらない本ですので、一般旅行業務取扱主任の資格試験に一発合格したが、結局旅行社には就職しなかった話が出てきます。個人旅行者はなんでもひとりでやらなけらばいけないので、航空会社の略称やら、実用英語やら、トラブル対応やら、なんやらかんやらに通暁してしまうので、有名観光地を知らなくても、そっちでいけたとか。そういう話が冒頭に出てくる本の解説が「負け犬」の産みの親、酒井順子で、あーし、いっつも人にお膳立てしてもらった旅しかしてませんわオホホ……キップの手配もひとりではようせんねん、みたいなことを書いていて、それはそれで正しいと思いました。こういうおちょくり合戦がライターの精神を健全化する。

酒井順子 - Wikipedia

他のことに金を使ってきたため、自動車の運転が出来ない著者が、電車とバスを乗り継いで賀名生に行って、帰りのバスの時間にあわせて帰ってくるくだりは、国際免許とレンタカーがひとつの旅のスタイルになっている国。地域を避け、そうした旅のスタイルを選択して来なかった結果、まったく日本の過疎地旅行に適応出来なくなっている貧困さが浮き彫りになっているように見え、読んでてさびしかったです。終バス気にせず野宿のライフスタイルを完遂すればよかったのに、奈良の田舎町で。というのは、私自身が、新宮からバスとヒッチハイクで十津川越えて五條まで行って、そこで野宿して、ウネビ山から葛城山を越えて、大阪の富田林に出た経験があるから言ってるので… 海外と日本で旅行スタイルを分けるのはなんかおかしい、と思ってた時代の意固地な旅行なんですが(新宮ではビジネスホテルに泊まって、お盆の時期の浜辺で、死んだ人に会おうとする)作者ならもっといろいろできたんじゃないの、敏腕ライターだし、と。

www.youtube.com

ダーキー ดาร์กี้

カントゥルム กันตรึม

後半のシエムリエップ編頁428で、カントゥルムというタイとカンボジアの国境音楽の箇所で、ダーキーという歌手が出てきて、著者の友人とのことでしたので、検索してみたら、前川健一本人のはてなブログが出てきて、2003年にそのダーキーという方がなくなられていたことを知りました。合掌。

でも前川健一、はてなブログやってたんですね(私が忘れてるだけ説あり)本人の名前で検索上位に来ず、「カントゥルム ダーキー」の検索結果で出るとは。ブログに注力しすぎて、本を出せなくなっていたとしたら、そりゃなんだなあと。昨日も更新されてるし、お元気だとは思うのですが(ダーキーの記事しか読んでない)

tokuhain.arukikata.co.jp

とにかく今はリアルタイムでいろんな人が現地情報を発信してるので、とても見きれないと思います。絞るとすれば、どういう基準で絞るか。

話は変わりますが、前川健一という人は、多分、書くほど関心がないから、みたいな理由で、本書執筆時点、中国へは行ったことがなく、しかし、前半部分に、台湾旅行を少し書いています。感傷的な記事はないですが、どうやらマカオにも行ったことがあると。さらにいうと、中華修業時代も、台湾人のコックについていたそうで、台湾人から國語を習ったこともあるのかな? 父親は出征時(東南アジアや島嶼部ではなく)中国大陸にいたそうで、母親も上海育ちだとか。それでメインランド・チャイナに行かないというのは、なんとなく説明がつくような気がしました。あと、タイ北部のKMT残党、アヘンアーミーを書かない理由も。

前川健一にかかると、カオカームーみたいな料理は中国系タイ料理だそうですが、私にいわせればタイ風中華料理です。中国醤油を使うと言っても、「タイの」中国醤油ですから、中国共産党の中国醤油とはちと違う(と思うが、それを味わい分ける舌を持っているわけではありません)日本の、キャベツメインのホイコーローを中国系日本料理と言わず、日本風中華というのと同じこと。

その前川健一が本書で唯一中国に言及する箇所が、ニーハオトイレで、その歴史と変遷を誰かちゃんと書いてまとめておかないと、光芒の彼方に散佚し、記憶も不確かになって、曖昧模糊になるよ、ということなのですが、21世紀の今、中国のトイレはどうなってるんでしょうか。もうあの仕切りのない大便器はなくなったのでしょうか。まだまだ健在なのでしょうか。検索すると、紙を流すか流さないかばっかで、それでいうと、台湾も流さないで横のかごに紙入れますよね。ここが変わってないのは、インバウンドの訪日中国人観光客や台湾人観光客が、紙を流さず三角ボックスに入れてくのを見てるので、分かります。水流が弱いせいだったか、戦前日本の「落とし紙」的伝統を守っている清華(日本じたいは戦後全国津々浦々、農村僻地に至るまで、アメリカナイズに水洗化された)どうでしょうーか。

仕切りなしは密告防止のため始まったと聞きます。集団化されてない農村のトイレは灰をかぶせるタイプの一軒ごとの個室だったりします。台湾人は、中国に行って困るのがニーハオトイレ、とよく言いますが、密告防止なら、清野作戦や白色テロを経てきた国民党支配地でも、ニーハオトイレなんじゃなかろうか、少なくとも、台湾に逃げる前に国民党が大陸で始めていた事業なんじゃなかろうかと考えたいときがあります。ミッキー安川アメリカ南部留学記を読むと、ルイジアナなんかの米国南部の大学寮のトイレも、ニーハオトイレの1バージョン、水が流れるタイル張りの溝が一本掘ってあって、そこをまたいでみんなしゃがむタイプであることが分かり、蒋宋美齢アメリカ南部に長くいたし、そっから中国に入った様式というふうには言えないだろうかと思ってます。黒人料理の玉米湯(コーンスープ)や軟炸鷄(フライドチキン)が中華料理に入ったように。中ソ蜜月時代にソ連の援助で作った五十年代の建築物には既にして仕切りなしのトイレがありますが(後から改造されたかもしれない)、ソ連自体には仕切りなしトイレはない気がします。

頁60、昔のガイドブックは史料的価値があると書いてます。私も同感ですが、しかし、海老名のツタヤ図書館のように、昔の地球の歩き方の自社中古品在庫を、それを理由にがばっと公費納品してしまうような荒業を繰り出す企業が出て来るとは、著者も予測出来なかったに違いありません。著者がそういうフィクサー的な仕事をしてないことを祈ります。

頁70、カメラ。オリンパスのOMシリーズというのを使ってたそうで、それは、旅するライターやカメラマンが多く使っていたのだそうで。蔵前仁一の名前がここで出ますが、さん付けしてます。藤原新也も出ますが、呼び捨てです。理由は不明。

頁135、小説家。ラングーンで、マウンターヤという作家に関する話。日本語に訳されたビルマ文学はすべて読んだと豪語する箇所があり、これで『タイ様式』に書いたように、小説は読まない、ツマラナイと言うのはイヤミデスヨと思いました。マウンターヤという作家の邦訳作品は、以下列記すると、勁草書房・井村文化事業社の例のアジアシリーズで『路上にたたずみむせび泣く』1982年、大同生命国際文化基金の『ミャンマー現代短編集1』1995年、新宿書房『それを言うとマウンターヤの言いすぎだ ラングーン商売往来』1983年、目の大きな土建屋のオヤジ的外見のオッサンなのですが、何故かビルマ女性作家選『12のルビー』の選者で、それは段々社「現代アジアの女性作家秀作シリーズ」全12冊のうちの一冊。

図書目録〜注文票

てな具合なのですが、著者が挙げるのは、図書館にも古本市場にもなかなかない新宿書房の本だけで、古書ブローカーとタイアップしたパブ記事ではないだろうけど、う~んと思いました。著者は本書か前書で、例えば、小田実がアジアの飯の炊き方を知らずしてアジアを語るな、と言っている割には小田実自身ちっともアジアの飯の炊き方を書いてない、知らないんじゃねーの、と書いているようなスタンスなのですが、前川導師の読むようなアジアのテクスト自体が左派コーな色を帯びていて、煮て批評しても、焼いて批評しても、どうしてもその匂いから逃れられなかったのではないかと推測します。マウンターヤが新宿書房で、ウィタヤコーンは、どこだろう、大学書林? 大学書林なら普通か。

このマウンターヤのくだりは、もう一点書いておくことがあり、著者は街に出てインド人の屋台で、「シンガポールでムルタバと呼ばれるスナック」を食べます。このムルタバというスナックは、地球の歩き方のマレーシア編でしたか、インド発祥でありながらインドでは衰退して、マレー半島島嶼アジアで隆盛な料理で、ケニアのムカテ・カヤという料理も似ているので、アフリカ東岸にもやはりインドから広がって到達したのではないか、と書かれています。もうその記事を書いたのは前川健一としか思えない自分がいます。なんでわざわざビルマビルマ語の名前も分からない、シンガポールのインド点心を出すねんと。

ムルタバ - Wikipedia

頁148、作者は、ことバンコクに関しては、旅社やゲストハウス生活を80年代もしくは90年代に打ち切って、しかしアパートを借りるのではなく、居候や間借りをしてきたとあります。定住しては見えないものがある、旅人の視点だからこそ見えるものがある、と書いている初期著作と違うじゃないデスカ、アパート借りなかったから定住じゃないとか、詭弁デスヨ、と絡んでくる学生旅行者はようけおったろうなと思います。ふつうの作家と読者の接点って、そんなないですが、旅行作家と旅行者は、特に海外だと割と接点が出来そうですし。ここは、沖縄移住計画を考えたが、ライターと両立出来そうにないのでやめた、と、過去を振り返る個所でもあります。沖縄、合ってない気もします。

226、ナイロビでケニア人の書いた小説を読む話。また小説。ほんとに嫌いなのか。エモい。否、キモい。ソマリア人は、ミラァと呼ばれる覚醒作用のある葉っぱをいつも嚙んでいる、とあり、これは、高野秀行ウィキペディアだとカートと書かれる植物だと思いました。スワヒリ語だとミラーだそうで。

カート (植物) - Wikipedia

頁237、本城靖久『グランド・ツアー』が出ます。イザベラ・バ-ドの日本奥地紀行とともに。セネガルのお雇い外国人の著者は、その後こういう仕事をしてたのか。

本城靖久 - Wikipedia

頁251、ネポティズムという単語は知っているのに、ナベのフタ(lid)を知らないので、アメリカ人に不思議がられるヶ所。たぶん武士道の新渡戸稲造もそうだったのではないでしょうか。

lidの意味・使い方・読み方 | Weblio英和辞書

ここで「水道」を英語で何というか聞いて来るのですが、知りません。中国語なら、〈自来水〉です。とここまで書いて、それは「水道水」で、水道じたいは同じだんべと思い直しました。英語はタップウォーターで合ってるのかどうか。

cjjc.weblio.jp

頁308、幼少時扁桃腺が弱かった、大人になっても時々発症、の箇所で、旅先でひとり寝ついた時の描写が、コロナかと思いました。その次に、田舎の闇には安らぎを感じ、都会の闇には恐怖を感じる、と書いてる箇所。またしても若い旅行者から、あの人田舎嫌いって言ってたのに、違うよなヒソヒソと揚げ足を取られそうなヶ所です。

頁447。カラー写真の、ワンピースで右足漕ぎをする女性は、インダー族だそうです。

ja.wikipedia.org

このページに、ビルマの米の値段で、砕けたコメなら安いとあり、砕けたコメなんて、それがジャポニカ米なら中国産の古米だろうくらいにしか思ってなかったので、ミャンマーにもあるんだなあと思いました。カンボジアの屋台の米が砕け米だった。UNTAC時代なので、中国の支援物資とばかり思ってました。インディカ米でなくジャポニカ米だったし。実際はどうだったんでしょう。以上

(2020/8/9)

【後報】

頁296、「もう一つの人生」もし自分がタイ人だったら、とシュミレーションする小文。だいたい旅行者は、もし自分がインドでリキシャ引きだったら、と、もし中国人に生まれていたら、を想像すると思いますが、それに比べると、タイは現地人に生まれ変わっても、いいものだな、と思いました。もし自分が白人だったら、とか、黒人だったら、とかも考えるのだろうか。そこを旅してたら。

ページを忘れたのですが(ひょっとしたら、『タイ様式』所収の話だったかもしれない)母親をタイに連れてったら、現地の人が何のためらいもなく自然に高齢者を手助けして、手を添えて船に乗せたりしていて、自分一人ではまったく知り得なかったタイ人の一面を見た、と書いています。ここはすごく印象に残りました。以上

(2020/8/14)