[装幀]坂根 舞(井上則人デザイン事務所)初出は月刊コミック乱 2018年11月号~2019年8月号。読んだのは2020年5月29日の2刷。
まだちゃんと読めてないのですが、最近、新聞のコラムや、身近で、長崎について見たり聞いたりするので、ふとぱらぱらめくって、それで。
賛否両論のオチですが、これは、頁230でいちどオトしてからのことなので、セットで考えたほうがよくて、作者がなんぞこだわらねばならん(あとがきで書いてる出身地の歴史とおなしくらい)眼鏡ロンゲでタッパのあるインテリからの祝福とバーターなのではないかと思うです(ネタバレで書きますが)あのキノコ雲は。
_______<以下後報:2021/1/16追記>________
頁213から頁215を読んで、嗚呼、分かったと思いました。「変えられる物は変えていく勇気」「二つのものを見分ける賢さ」これを出された後で、あのラストシーンというのは、いかなる困難も乗り越えられるはずという大前提に対する、ちょっと意地悪なオチでもあり、誰に対しての意地悪かというと、自分にブーメランのように返ってくる意地悪で(ループというか自傷というか)かつ、「アラスカにあっても、サレルノの進攻のときも」出来たというなら、アジア人の我々にとって、こういうことが、霊的な原理が受ける大きな試練と考えていいのか、という、欧米人への問いかけ、イジワルでもあるのかしらん、です。イギリスのウィンチェスター大聖堂のそばの古い墓石にへぼな詩があるのなら、ナガサキにはどんな詩があればよかろうか、という。
でもその試練に立ち向かう孫娘は健常者ですから、そういうふうに読んではいけないのかもしれません。それに「回復する率が平均までいかない人たち」もいるわけですから、なんでもかんでも立ち向かえるわけでなく、オールマイティはありえないわけですから(進行が止まっているだけなので)、「変えられないものを受け入れる心の落ち着きを」(頁213の言い方に準拠)となるのかな、と、もう一度考えます。
で、あと付け加えるなら、本書のオチについて、依存からの回復という角度でのアプローチ、解釈も出来るのに、帯の煽り文句「幸せな時代を生きる、幸せなはずの私たち。」はミスリードというか、読者を視野狭窄に追いやるのでよくないと思います。
||||||||<以下後報終わり>|||||||||
私ならこれは、第一部ジョナサンジョースター編が終わって、第二部ジョセフ編が始まったように、ウルヴァリン=サムライではヒュー・ジャックマンが井戸の底に隠れて無事生還出来たファットマン投下爆裂から始まるものとすればよいと思うのですが、今描いてるのはまたも遊郭ものだそうなので、ニュクスの角灯第二部_戦後大村みっちゃん大作戦編は描かないんだろうと思いました。
この最終巻は、ホーチミンの肖像のベトナム紙幣やカンボジア紙幣、ラオス紙幣を挟んでるのですが、まずカンボジアの紙幣をカンボジアの人に渡さないとな、と思っています。アンタック時代のお札だそうなので、まあその前に来日した人が多いでしょうから、あまり懐かしくもないでしょうけれど、一度その人たちにお札を見せていろいろ聞いた時に、自分のもとにいつまでも置いておいてもしかたないので、いつか渡すと、勝手に約束しているので。
またあとでゆっくり読んで、他の感想書きます。こじらせたものを書いても書かなくても、おだいじに(次作でまた取り組んでいるという妓女遊郭ネタは、そんなに描かなくてはいけないこととも思えないのですが、どうなんだ)
私は、中国の核がきれいな核なら、日本の核も美しい核だろうから、日本も核武装していいんじゃいと思ってますが(中国の原爆工場跡地とか諸々の話を聞いて総合的な感想)、このオチは、それに賛同するものでもないだろうと思っています。翌朝追記。
以上
【後報】
大浦慶という人は、昨年、朝井まかてという作家さんが潰れてしまえ新聞日曜版で連載、好評を博したそうで、それで何故か私がホニャコムでコンビニ併設書店に取り置きしてもらって入手したこのマンガも、それを読んでいた人が今、冬の夜なべが終わった後、ふむふむ言いながら読んでいます。
(2020/12/13)
大事な後報は上に挿入したので、それ以外を書くと、コンフィは、ゼルビアの試合のスタグルで有名ですので、出してくれてよかったです。パスティマライスは水を五倍入れてもぱさつくとありますが、それならタイのお粥、カオトムとかジュークはありえないので、ちゃんと作ればお粥にもなると思います。でも、いいカラーページの使い方と思いました。
頁158の褥瘡は、カボシ肉腫を連想してしまいました。私以外にも、20世紀最後の数年間に蘇った新しい苦難の時代を重ねて読んだ人はいると思います。
ヒロインが、父との関係性の経験を踏まえた上で、ジュディットに対応しようと正しく考えるくだりや、それとの対比として、このやりかたでいいのだろうかと思える接し方しか出来ない黒川の描写(ときどきせつなかったりするのがまた、自己憐憫で困る)が重ねられ、それぞれに納得するのですが、その中に、するっと、頁101のマリーのように、「ウチには家族の問題は何もない」と言い切る場面を入れてしまえるのは、よかったと思います。読みながら、まあそういう人いるよね、でも、実は問題はあって、棚卸をすれば出てくるのかもしれない、と、思った瞬間、鏡を見れば、そこには頁168の、猜疑心の塊になって何も信用しない依存症者の姿が映っていると(違い探し)
昨日、届いた関西からの年賀状に、このご時世に対応して、医療機関へのメッセージをオンラインで行っているという一文を見つけ、試練には終わりがないし、小さな祈りを唱えつつの対応にも終わりがないと、改めて思いました。
以上
(2021/1/16)