『霞村にいた時 他六篇』《我在霞村的時候》"When I Was in Xia Village" 战后版翻译(岩波文庫)読了

https://images-na.ssl-images-amazon.com/images/I/41yvmZycqvL._BO1,204,203,200_.jpghttps://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/b/b1/Hu_Yepin_and_Ding_Ling.jpg積ん読シリーズ

右は、醤爆みたいな顔して銃殺された最初の宿六と彼女、作者の丁玲。ふたりのストーリーは、本書巻末の『真の人間の一生』に詳しいです。左は、私がこの本を思い浮かべる時、同時に思い浮かべてしまう内田善美のマンガ。表紙としては、『ひぐらしの森』や『空の色ににている』のほうが好きで、しかもどんな話だったかまるで覚えていないのに、何故か印象に残っています。

内田善美という人は本当に失踪して、正真正銘行方知れずなので、再版しようにも許諾がとれず、これまで出版された本はすべて古書市場でバカ高値がついているそうです。私は全冊持っていたはずなのですが、どこにも見当たりません。この人のマンガを最初に読んだ時は、紅楼夢の主人公のように、生まれて最初に女の子のオモチャを選んだ男性の、その後の人生のひとつという気がしてならなかったです。女性に生まれ変わって女性を愛したい男性という、LGBTQ?の中のひとつのパターン。女性に生まれ変わって男性を愛したり男性に愛されたいのではなく、男性として女性を愛したいのでもない。

kotobank.jp

丁玲 - Wikipedia

baike.baidu.com

百度には、オバーサンになった丁玲の写真や、毛沢東と一緒に撮った写真もあり〼。

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/d/d1/Ding_Ling.jpg/270px-Ding_Ling.jpghttps://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/a/a4/Ding_Ling_1.jpg/220px-Ding_Ling_1.jpg内田善美の話と丁玲はまったく関係なく、ディンリンちゃんが、とにかく生きてる間も何度も「政治」による浮き沈みがあった人であることは間違いないです。本名からして、本書あとがきとコトバンクのブリタニカ国際大百科事典2014年版では蒋偉文となってますが、ウィキペディア百度では蒋偉。毛沢東と同じ湖南省出身。

ご主人が銃殺された後、入党して懸命に活動に打ち込むのですが、國府に捕えられて転向を条件に釈放、すぐさま長征中の紅軍へ逃亡した、らしいのですが、そのあたりで二人目の旦那と子どもをこさえている、らしく、なんか彼女をテーマにした論文はいっぱいあるわりに、皆そこをぼかして書いていて、まわりくどいです。

Wikipedia日本語版

この収監の経緯のため、丁は転向と出産に係る疑惑に生涯悩まされることになる 

 この部分のソースの、江上幸子という方のフェリス公式の記事は、現在フェリス公式が変わってしまい、消えて読めません。このソースは、下記の元記事にもなっているので、消えてしまったのは如何にも惜しい。

 日中戦争(抗日戦争)期間中の丁玲は、上述の国民政府に収監された自身の体験を織りこみ、社会動乱の中で本来は自身の責任でない「罪」を負った女性たちを描いた、と江上幸子は評している[2]。しかし丁はこれら女性たちが糾弾されることのない社会の実現を切望したにもかかわらず、そのような女性たちの存在を「恥」とみなす上層部により、この時期の作品はかえって「反共産党の毒草」と批判されることにもなった[2]。

 『霞村にいた時』と『新しい信念』は、ともに山西省の日本軍兵士の女性暴行を、解放区目線で描いた小説です。延安の陝西省まで日本軍は来れなかったので、いきおい話はその東隣、蟻の兵隊でお馴染み、戦後は閻錫山麾下の精鋭として国共内戦に巻きこまれた山西省の日本軍と村人の話になるわけです。娘と日本兵の話だけなら、日本側の小説でも、例えば伊藤桂一『黄土の狼』や洲之内徹の小説で読めるのですが(またそこで朝鮮人軍属がエグい役回りを演じる)、村に帰った後の、21世紀の言い方で言えば、セカンドレイプ、まさにセカンドレイプとしか言いようがない事態については、日本側作家の想像力の及ぶところでは無論なく、それをあまさず書いてしまったがために女流作家自体も揺さぶられたのが『霞村にいた時』ということになります。まったくよく書いている。本人にも隙があったとか、前から遊んでいたとか、あの男に色目を使っていたとか、治るのかもう手遅れなのか、どうとでも読める病気をもらって村に帰って来た娘に言いたい放題。

いちおう、アイリーン・チャンのラスト・コーションばりに、後半はやられっぱなしでなく、日本軍の情報をゲットして後方攪乱に貢献していたということになっています。しかしそれだけで終わらないのが作者。最初は拉致だが、後の二回は、誰かが行かねば娘の供出なんだか奉仕なんだかのノルマが果たせないので、自分から買って出たのだが、村人はその辺ぜんぜん考慮しない、というかあえて無視して、好きなんだろうとか、ヨゴレの面だけ強調して来る。こんな不条理があるものか。

 その辺の、銃後の大後方で起こったセカンドレイプについては、上記、21世紀に出たルポにも書かれてるそうです。この本もネトウヨ界ではプロパガンダとして一蹴されてますけど、セカンドレイプについて書いてますので、それが中国側でいまいちバンバン取り上げない理由かもしれない。昨日今日取り上げた問題でなく、戦中の丁玲の提起にまでさかのぼる問題であることは認識されているでしょうから。

news.1242.com

この記事の通りならもっと中国本土にバンバン慰安婦像が建っててもおかしくないのですが、まだロクにないはず。香港に像を建てたとこの記事で書かれた保釣じたい資金難でクラウドファンディング始めるような状況ですので、カードは持ってても、切らずに今のところ飼い殺しなのだと思います。韓国みたくフェミが進まないと、セカンドレイプの克服は難しいのでは。で、克服したら、それは大陸でなく台湾になっているのかも。人権的に。

b.hatena.ne.jp

b.hatena.ne.jp

痛快!布マスク新聞が、保釣は死に体ですよと12/8にブラフ記事を撒いたら、12/12に即頭狂が否定記事をageたようにも見える見出し合戦。

『新しい信念』のほうは、五十代で連れ去られて帰って来た女性が語り部になるのですが、それはそれで、指導部としては、丁玲どうして余計なこと書く、と言いたいようなことをふつうに書いています。

頁142『新しい信念』

婆さんがそこから敬老会へつれて行かれた時には、もはやほかへつれて行かれていた。そのとき彼女はまだ息をひきとっていなかった。だから、婆さんのいうことはほとんどデタラメだったのだ。

デタラメかそうでないか知りませんが、この小説のこの部分を、日本のネトウヨが動かぬ証拠と言ってさかんに引用してる事実は全くない気がします。

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この岩波文庫の霞村は、戦後版にそって改訳したそうで、作者的には、戦前版に愛着があって、1956年の岩波文庫まではすべて戦前版の翻訳を使ってたそうですが、作者から私の意志を尊重してよと言われたとのことで(あとがき)岩波文庫から戦後版の訳にしたそうです。

1951年に初めて日本で霞村が四季社から出たのですが、それが戦前版の訳。

霞村にいた時 (四季社): 1951|書誌詳細|国立国会図書館サーチ

その次に、1953年に青木書店から出た丁玲作品集は、訳者がちがうので、不明。

丁玲作品集 : 新中国文学選集 (青木書店): 1953|書誌詳細|国立国会図書館サーチ

1955年に代表作『太陽は桑乾河にかがやく』と一緒に河出から出た時は、戦前版訳。

現代中国文学全集 (河出書房): 1955|書誌詳細|国立国会図書館サーチ

1956年に、私が読んだ岩波文庫。戦後版の訳。

霞村にいた時 : 他六篇 (岩波書店): 1956|書誌詳細|国立国会図書館サーチ

1956年の新潮社版は、どっちか不明。

現代世界文学全集 (新潮社): 1956|書誌詳細|国立国会図書館サーチ

ちなみに私は、『太陽は桑乾河にかがやく』をずーっと読みたいと思ってたわりに(昔現物を見たこともあるのですが、私なんかが読んでも猫に小判だろうと謙遜して買わなかった)作者をハン・スーインだと思い込んでいて、しかもときどき『太陽はヤルツァンポー河にかがやく』とか、ムチャクチャなタイトルの覚えまつがいを披露したりします。

参考にしつつ、いろいろ問題点(出産とか)に気づかせてくれた何処かの人の論文。

http://file:///C:/Users/10438196/Downloads/3_tagenbunka13.pdf

で、翻訳した岡崎俊夫という人は、1959年、鎌倉に引っ越してすぐ、わずか五十歳でなくなられたそうで、ビッグローブの個人の方のウェブサイトによると、心臓が原因で、松枝茂夫さんや、武田泰淳らがたくさん葬儀に来たとか、生前の郁達夫との交友が書かれていました。これも消えないで残ってほしい。どうも鎌倉という土地柄は、例えば平家の子孫が住んだりすると、何か起こったりすると聞いたこともあり、藤沢で入水自殺した中国国歌の作者ニエアル聶耳にひかれたのかもしれないとか、いろいろ考えもしました。

岡崎俊夫 - Wikipedia

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私がかすみ三部作としてアンソロジーを編むなら、もうひとつは、バオ―来訪者の霞の目博士です。

少年よ… あることは、死ぬことよりおそろしい。私やお前がそれだ。

これは霞の目でなく、バイオレンス・ジャック、もとい、ウォーケンのせりふ。

以上

【後報】

その他の短編について。

『ある夜』(1932年) 一挙にドバッと検挙された政治犯たちが、穴掘ってまとめて銃殺、を描く。

『夜』(1941年) 岡崎俊夫激賞の一作。とりあえず農村で党から役職を割り振られた夫婦が、わけもわからず、しかし必死についていこうとする物語。

『阿毛姑娘』(1928年) 若い女性の農民が、嫁ぎ先の女性たち、嫁ぎ先の周囲のお金持ちの住人、嫁ぎ先から城市に行ってその商店街に売られるきらびやかな商品を次々に知るようになり、もとの暮らしには戻れず、かといってお金持ちの生活など出来るわけもなし、という、西洋の童話に出て来る農家の強欲な嫁さんのように破滅する話。寓話。訳者によると、ボヴァリー夫人の影響があるということですが、分かりません。

『莎菲女士の日記』(1928年) たぶん結核で療養中の若い娘さんのツンデレライフ。複数の男性を惑わせるほどの容姿なのかは書いてません。処女作。たぶんこうした本人の性向が、乳飲み子を残してツレが銃殺されるなどの経験をへてケミストリーを起こして、後年、党からたびたび批判されたり名誉回復したりの繰り返しにつながる、なんともあやうい、党にイマイチ素直になれない作品群の素になったのではないかと。今なら心療内科から処方されてFAな気もしますが、どうか。

(2020/12/21)