『モノ書きピアニストはお尻が痛い』"A Writing Pianist Has a Sore Butt" by Izumiko Aoyagi(文春文庫)読了

著者が書いた祖父青柳瑞穂評伝の感想文で、ほかの方から、この人自身のエッセーも面白いですよと言われて、何か読もうと読んでみた本。

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 イラスト・山口はるみ デザイン・中川真吾 解説 小池昌代 2008年11月10日初刷 単行本は『双子座ピアニストは二重人格?』"Is the Gemini pianist a dual personality?" 音楽之友社 2004年12月を改題文庫化

この読書感想の書名の英題はまたしてもグーグル翻訳ですが、私は、お尻の英語はヒップだと思っているレベルの人間で、"pain in the butt" という慣用表現も知りませんでしたので、その辺の谷間を注意深く避けた翻訳を即座に提起してくれるAIはあったまいいなあと感心しました。

「お尻」は 英語で“ヒップ” ……ではない!? 上品系から下品系までお尻の英語表現イロハ | GetNavi web ゲットナビ

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あとがきによると、著者は六月四日生まれだそうで、まんま中国のエヌジーワードですが、その日だとふたご座「♊」になるそうで、ライター兼プレイヤーズピアノ、もとい、文筆業兼ピアノプレイヤーという両極端?な二刀流人生を回顧し、それは「わたしも」「わたしも」という読者の共感を呼び、そこから単行本タイトルが出てきたそうです。肛門性交と本書は関係ありません、と書いてみるてすと。

青柳いづみこ - Wikipedia

頁258

 音楽するときはよい子モードのほうが生きやすいし、モノを書くときは悪い子モードのほうがフィットするというのは、これはもう、実際に体験した人じゃないとわからないと思う。 

 その両者を体験出来る人生は稀有なものだと思いますが、この人の執筆は主に評伝ですし、文章もじゅうぶんカタいというか、ふつうのひとが考えないことを考える分、ふつうのひとが気に留めることを気に留めない感じがします。道ばたの野の花に気づかないというか、映画「ポゼッション(憑依)」でイザベル・アジャーニが地下道の壁に一リットル紙パックの牛乳をぶつけまくる場面で、紙パックや、飛び散るまっしろな牛乳という小道具に目もくれず、ヒロインの狂気のみを結晶化して抽出してしまえるような、そんな観察眼。

単行本あとがきでの謝辞は、清水久嗣、荒井真理子(フリー編集者)ムジカノーヴァ編集長大高達夫、装丁の伊勢功治、校正大野温子、音楽之友社出版部石川静、文庫での謝辞は、解説者と、文春文庫編集部柏原光太郎各位へ。あとがきで、『もし、ドビュッシーがジイドだったら?』"What if Debussy was Gide?" は難解すぎて「音楽の友」ではボツった原稿だそうですが、『一粒の麦もし死なずば』のヘンタイ性をとりあげたこの一篇は、えんのうすいクラシック界のエピソードに満ちた本書の中で、比較的私にはとっつきやすかったです。シューベルトって梅毒なんだって!と言われても(頁95)それがどうした、グレゴリ青山のマンガでは、京都の住人は室町時代に遡って、どこそこのおうちは先祖にスピロヘータ病み、はずかしい病気にならはったおひとがおったんやて、と噂するようですが、私は京都人ではないですし、知らん、としか言えない。

下記はコンサートの話。

頁15

 わからないのは、さして自覚もないのに、聴いた人々が口をそろえてやけにほめてくれるときのことである。本人は、なんだかぼやっと弾いてしまったナ、と思い、演奏を自分で十分にコントロールできなかったことを悔やんで、ステージを降りる。ところが、突然まわりに人垣ができる。

「あっ、ごめん、あれ、うまく弾けなくて……」

「なに言ってんの。あれ、一番よかったじゃない!」 

 ここなぞ、経験のない者にまったく分からないどころか、普通は逆じゃないのかと思いました。サッカーの試合なんか、負け試合の反省コメントでよく、「フワフワした状態のまま試合に入ってしまって…」そのままミスを重ねてとりかえそうといきんで自滅、立て直せへんだ、というのがよくあると思います。ふだんの仕事もそうで、朝仕事を始めるとき、ルーティンの仕事であっても、ここちよい緊張の糸を張らないまま漫然と業務に入ってしまうと、えてしてミスを起こしやすい。ただ、創作関係や、計算問題など、時として体調が悪い時のほうがよいもの、緻密で正確な回答が出来てしまう瞬間は片鱗として理解出来なくもないので、芸術と実務のあいだには暗くて深い川が流れているよう、と思うです。

そうしたものを数値化してAIにインプットすれば、いつでもオーチンハラショー(竹中直人調で)な演奏が実現出来そうで、それを本書で探すと、前半でミスると、後半がしり上がりによくなるように観客には錯覚される、というくだりなどそれかなと。スキーム化して、前半をわざとヘタに演奏するというペテンをすると、観客は「がんばってー」モードになってしまうという… 半グレは自己啓発を取り入れたヤクザ。AIって結局悪いことをおぼえさして無双っていう使い方しか出来ないのかしらんと陰鬱になります。AI関係ないですが。むしろマニュアル主義。

エビングハウス忘却曲線
  20分で42%忘れ、
  1時間で56%忘れ、
  1日で74%忘れる。

 ので、あとの部分の演奏のほうが記憶に残る。

演奏家が自分ではゾーンに入ったと思い、ネ申、ということばすら覚えるセッションの時は、おうおうにして自分に酔っていて、観客は冷ややか。いつも忌憚のない意見を述べてくれる友人が、口ごもるのではっと気づく、というくだりなど、芸術の厳しさに、泣きそうになります。モディリアニにお願いというマンガみたい。

で、アスリートとアーティストは相反する存在なのかな、というとそうでもなく、頁190、ラローチャという演奏家のギミックを言語で分解するくだりなど、小指が他の指と同じくらい長いので右手は和音の上、左手は下がくっきり出せる、左手の親指も根元が太くがっしりしているので左手の内声やオクターヴもしっかりつかめる、加齢に伴う障害(筋力瞬発力関節の柔軟性、バネの衰え、指が開きにくくなる、握力の低下など)を克服するため、タッチを刻む奏法から重心移動に切り替え、響きの美しさで勝負し、フォルテシモが必要な時はひじからの上下動をくわえて圧力を増す、など、うどん名人には老女が多いみたいな詳細な描写を披露してもくれます。

頁190

さらに彼女は、背筋力が強く、すべての運動を背中発信で行っているようにみえる。人間は、どこかで支えているから各関節を脱力することができるのだ。ラローチャのひじは、彼女の音楽的欲求に応えて自在に動くが、それも、強靭な背筋の支えあってのことと推察した。 

アリシア・デ・ラローチャ - Wikipedia

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楽譜が読めるというのはひとつの感覚器官を発生形成させ、成長せしむる行為なのかなあと思いました。ひとつの文字を習得すると、そこにはその言語世界の一つのとば口が待っていますが、それのひとつ上のレイヤーで、違う世界がありそう。著者が、大音楽家たちの直筆楽譜やそれに至るまでのスケッチや作曲帳をフランス国立図書館音楽館で、研究目的の紹介状つきで眺めながら、この曲とこの曲は相互に影響を与えながら作成されたのかとか、ここでこの小編はスピンオフとして生まれたのか、などなど考察する場面が、うらやましかったです。たぶん、著者の世界に下のような思考はない。

Q:音痴ですが、どうやって歌や音楽をたのしんだらよいでしょうか?

A:そんなことを考えて捉われたら負けです。

A:ひとからと湯船を活用しましょう。あと、深夜の歩哨中歌う。

A:歌にうまいへたはないわ(これ以上ないくらいハッキリあるけど)みんなが一等賞ですよ。カラオケ大会の点数は百点以外出ないようにする試案をPTA総会に提出します。

文庫あとがきで、単行本のコラムは数あれど、読者の印象に残ったのはたった二ページの『感覚指数』いっぽんだったのかなあ、とボヤいてます。知的障害者で、施設に入っていた兄との交遊を書いた一本。大上段に構えた論文より、肩の力を抜くその肩の存在を忘れてるかのような飄逸なコラムが、好評を博したのは、上の演奏好評不評体験記からも類推出来ることかと。その意味で、やっぱり、ことばを文章に落とし込む執筆作業と、空気を振動させて音を出す作業に熱中するギグは、似てる時があるのかもしれません。以上

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