『血の収穫』"RED HARVEST" by Dashiell Hammett(創元推理文庫)読了

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カバー 和田誠 読んだのは1976年4月23日の17版 

結城昌治サンの本を読んで、ダシール・ハメットに感懐をどうのこうのと書いていて、また、本書はアメリカのスピーク・イージー禁酒法時代について具体的に描かれていて参考になるみたいなことが書いてあった気がしたので、読みました。

田中西二郎 - Wikipedia

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ja.wikipedia.org

名著とのことで、多彩な訳があるですが、深く考えず借りました。こうやって見ると1956年の、二番目に古い訳。手に取って読んでみて、原書が1929年ですから、訳もまあまあ古めかしいほうが良いのでは思いました。

頁10

「パースンヴィルにお住まいでございますか?」

「いや、サンフランシスコです」

「でも今度はじめておいでになったんでは?」

「いや、はじめてです」

「まあそうでございますか? いかがですか、この町、お気にめしまして?」

「いや、まだそれほどよく見ていません」これは嘘だ。おれはすっかり見てしまっていた。「きょうの午後に着いたばかりですから」

「きっと陰気な面白くない町だとお思いになりますわ」――そう言っているあいだだけ、彼女の眼がかがやいて、詮索的な表情が消えたが、またすぐもとの調子にかえって、(略)

「こんなおそい時間に、遠くまでおいでを願っておきながら、お待たせするなんて、ドナルドもずいぶんうっかり者ですわ」

 いやかまいません、とおれは答えた。

「もっとも、お見えになったのはご商売の用事ではないのでしょうけれど」そんなふうに探りを入れた。

 おれは黙っていた。

 彼女は急に笑った――どこか角のある短い笑いだった。そして明るい調子で言いだした。

「あたくし、ずいぶん出しゃばりみたいにお思いになったかもしれませんけれど、ほんとはそんなでもありませんのよ。ただあなたがあんまりお隠しになるもんですから、つい好奇心がわいてしまいましたの。あなた、お酒の闇屋さんじゃないんでしょう?(以下略)

全米禁酒法が終わるのが1933年ですから、形骸化されているとはいえ、禁酒法がまだ有効な時代ですが、登場人物はふつうに皆酒場やプライベートな場所で飲酒してます。撃ち合いの舞台になる空き家が密造酒の醸造所だったり(頁179)、カナダからカナディアンクラブを密輸して箱に「メープル・シロップ」とラベルを貼ってある倉庫だったりする(頁299)くらいが、禁酒法時代な感じ。

上で、主人公が「すっかり見てしまった」と言っているのは、こんな感じです。

頁9

 最初に見かけた警官は、不精ひげをはやしていた。二人目のやつはみすぼらしい制服のボタンが二つもはずれていた。三人目は、この町の目ぬきの二つの大通り――ブロードウェイとユニオン街の交叉点で葉巻を口の隅にくわえたままで交通整理をやっていた。その後は、警官を観察するのはやめにした。 

 上の女性の場面をもう少し写します。

頁39

 おれは彼女の正面に椅子を据え、腰をかけ、「奥さん、話してくださらなくてはいけませんよ」おれはできるだけ同情的な調子で言った。「こういうことは、やっぱり説明していただかないと」「あたしがなにか隠すことがあるとでも思っていらっしゃるの?」また硬くなって、肩をそびやかしながら、挑戦的に反問した。例のSの音が少しぼやけるほかは、一語一語、正確な切口上だった。「はい、あたくし、外出しました。あの汚れは血でございました。主人が亡くなったことを、あたくしは存じていました。ターラーは、主人のお悔みに来てくれました。これでご質問にお答えしましたわね?」

「それはみんな、わかっていることです」おれは言った。「お願いしてるのは、その説明ですよ」

 彼女はまた立ち上がって、憤然と言った――

「あなたの態度が面白くありません。お断りします」

 ヌーナンが言った。

「それはあなたのご自由ですよ。ちっともかまいません。ただそうなると、奥さん、(以下略) 

 この調子で、主人公は喋るのかなあと思いながら読みました。町のチンピラやギャングはわりと伝法な、べらんめえ口調で喋るのに対し、主人公はそうでないので、キャラが立ってるなと思いながら読んだのですが、ダイナと会うあたり、あるいは拳闘の八百長試合のあたりから、主人公も江戸っ子ことばを使いだし、訳者じたいも下訳ばっかしてた人だそうですが、誰かほかの人にまかした部分がそういう言葉づかいで、統一がとれないというか、その辺からキャラが変わった感が出てしまうので、それがいささか残念でした。

 下記は2019年の新訳。こっちだと、キャラは一貫してるんだろうなあという。紙版だけです。

 電子版は1960年に能島武文という人が訳した新潮文庫版しかないようです。

血の収穫 - Wikipedia

Red Harvest - Wikipedia

 とにかくよく銃を撃ち合い、全員帯銃でふつうにカチこみに行くので、命安いなと思いました。死んだり死ななかったりは、運と、不注意(相手に気づかず無防備な的になるモブは即撃たれて死ぬ)主人公の手首にあたって弾がそれて手は軽傷という場面があり(頁154)誤訳じゃなかろうかと思ってます。そんな鋼の肉体なわけがない。

解説は中島河太郎。ハメッコ、否、ハメットサンは戦後ほとんど創作活動をしなかったので、この解説と現在のウィキペディアはほとんど記述事項が変わってません。本書主人公の性格に、「好色」と付け加えた何かを読んだ気がして、本書にそういう個所はないので、なんだろうともう一度その評を探しましたが、見つけられませんでした。「小太りの中年男」という、それでもこんな性格のハードボイルダーを作れるんやと感心してしまう人物造型は、あちこちの内容紹介にあります。

ハメットサンは探偵社に勤続し、その後、第一次大戦に従軍した折結核に感染、療養したとか。本作は探偵時代に経験したことばかりで構成されてるそうですが、肺病やみの阿片依存症者が出てくるところも、作者の実体験なのだろうかと思いました。ヒモで、養ってくれる女性にいいようにいたぶられる関係性。

頁61:ほごっ紙

頁62:おあいにくま

上ふたつはおそらく誤植。近いページにあるので、ここを担当した文選工のスキルが低かったのかと。下は、気になった単語。

頁74:祿盗人 *1

頁102:身始末みじんまく *2

頁171:ハイチャイ *3

頁119

 一軒のシナ料理屋の前で、彼女は乱暴に車をとめた。

(略)

「ああお腹がすいた」おれの手をとって歩道を渡りながら、「炒き麺そばを一トンばかり喰べさせてね」

 まさか一トンも喰べなかったが、ずいぶんよく喰べた。 

 ステーキ以外登場する唯一の食べ物が上のフライドヌードルだと思います。マルタの鷹も読んでみるかな。以上