『空腹の王子』"THE HUNGRY PRINCE" by YAMAGUCHI FUMINORI 読了

空腹の王子 (主婦の友社): 1992|書誌詳細|国立国会図書館サーチ

1995年に新潮文庫入り。

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以降の貸出はバーコードによる電子処理になったので、日付印は1998年6月6日まで。なぜこのあたりのタイミングで和暦から西暦に日付印が変わったのかは不明。

装画ーウィリアム・ホーキンスⒸCollection of Michael and Gael Mendelsohn. Courtesy of Ricco/Maresca Gallery, New York, NY.  装丁ー亀海昌次 主婦の友社編集部戸張裕子さんとフリー編集者竹野みつえさんに後記で謝辞。

読んだのは平成四年八月の二刷。四章構成で、一章のみ書き下ろし。二章からは、1986年から1991年にかけて「専門料理」「ダカーポ」「QA」「クロワッサン」「太陽」「ウィンズ」に書いたエッセー、コラム、ルポを大幅手直しとのこと。 

カバー折の著者紹介。

山口文憲
やまぐち・ふみのり
1947年、静岡県浜松市生まれ。おうし座O型。同年施行の「新憲法」にちなんでこの名がつけられたというが、一般にはブンケンで親しまれている。最初は音楽少年。トランペットで芸大を受験するも、あえなく挫折。つぎがベトナム反戦「少年」。これも「ベ平連」の解散でお役御免となって、最後は、「しょうがないからライター」に。団塊の世代のおさだまりで、その後はパリに流れて1年余り。帰国後、今度は香港に渡ってさらに1年と数か月。1979年、まったく新しい視点と方法でこの都市を解剖した『香港・旅の雑学ノート』でこのジャンルの第一人者となr。以来、香港主義者、ホンコニストの異名をとるが、その実像は本書でご覧の通りの優しくも哀しいシングル&フェミニスト。最近は、カルチャー・センター講師、ワイドショーのコメンテイターと「書かなくてもよいお仕事」を拡大中。内外のルポルタージュをはじめ、達意のコラム・エッセイを心待ちにするファンは少なくないが、惜しむらくは筆が超遅い。ために泣かされた編集者は数知れず。主な著書に『香港・旅の雑学ノート』(新潮文庫)『香港世界』(ちくま文庫)『東京的日常』(共著・リクルート出版)などがある。

写真・小林博

私はこの人がワイドショーのコメンテーターやってたとは知りませんでした。収められてるエッセーの中には、ロケ番組のルポをする話がちょいちょいあります。ミステリーハンターというか、ラッシャー板前というか、イモトアヤコというか、そこまでは「白け世代」なのでやらなかったのか。正確には団塊はシラケ世代ではないのですが、全共闘世代がプレしらけ世代だったのでしらけ世代が生まれたと規定してもなんらおかしくない。「いや俺たちはアツかった」と言われても、「それって好きなことに対してだけでしょう?」でFA。

バブルまっただなかにいてそれを知らずに生きた記録として読むしかないようなエッセーです。表面的な狂騒は、上の著者紹介からもかなり感じ取ることが出来るかと。私はこの人は、『パリの雑学ノート』の玉村豊男とは、雑学のレイヤーがちがうので、交わらないと思ってましたが、最初の書き下ろしエッセーに、いきなり軽井沢で手料理をふるまわれた話を載せています。それはまあ、邱飯店に招かれる前置きなのですが、玉村豊男の名前を山口文憲の著書で目にすることが出来るんだ、と、意外でした。邱飯店自体は、当時すでにお抱えコックをやめていて、来客のさいはQサンが経営する高級中華で一席設けていたとか。自宅でコックを抱えると、たえず目を光らせなければならず、めんどいんだそうで。ちょろまかされた例や中抜きされた話をばんばん聞いてます。

で、あとは、切り売りのホンコンよもやま話(アグネス・チャンが来日当初、洋食のお菜でライスを食べる日式レストランに違和感を感じた話など)もありますが、大半は東京の食の話で、たとえば、個人経営の大衆店が次々閉店してゆくのを惜しむというかの記事など、アラがそれなりにあったのでむべなるかなというテンションで書いているので、そうやって客に品評されたら店もツラいやな、一億総グルメ時代。だから現在のようにチェーン店ばかり残る結果になったんじゃいかと思ったり(寿司屋が、客が来るまでスシネタを冷蔵庫に入れてるのでいつも冷え冷えのちらしを食べていたが、その店が閉店した話など、なんともいえない)バブルなので、地上げによる閉店も少なからずあったと思うのですが、まったく「バブル」も「地上げ」も単語ひとつ出てこないので、木を見て森を見てなかったんだなと思ったり。

黎明期の、ごはんですよボトルキープの大戸屋が出たり、深夜まで賑わっていたファミレスが出たりします。後者は、後年、矢作俊彦傷だらけの天使の続編小説で、明治通りの大久保あたりのファミレスに長時間無断駐車してその分の罰金を踏み倒そうと口八丁手八丁をおしみなく使う場面を異様な熱気を以て書いていて、けっきょくそういうあれやこれやのトラブルが雇われ店長のファミレスが都内激減した理由だろうと思っています。ブンケンサンは車を運転しないそうで(都内に独り者として住む経済的理由から)その文憲さんがファミレスを常用してたというのは、時代だなあと思います。郊外のサイゼリヤとかガストのドリンクバーならいくらでもファミレス使ってちょ、が現在だと思いますが、ロイホで半袖のからだにぴったりした制服女性からコーヒーお代わりサービスしてほしかった人は、もうそういう時代は終わったと静かに思うしかないと思います。

エスニック食も黎明期の記述がありますが、あまりピンときませんでした。どっちかというと、円高を背景にして、モノホンの白人にサーブさせる洋食というかダイニングバーが登場してたのを、書いているのがよかったのではないかと思います。私も日本語学習してるイタリア人が、成田から荷物の紐も解かずに都内のイタリアンレストランに直行し、まずアルバイトの口を確保してからアパートに向かうなどの話を聞きました。

頁138、この頃からなのか、「支那そば」呼称が復活し、それに触れてます。石原都知事は出ません。内容としては、今はなき(と思うのですが、まだあるのかな)「支那=CHINA」という一世を風靡したウェブサイトと似たような感じで、このサイトなんでなくなったかなあと思います。支那竹がメンマになった話とか、東シナ海を東中国海と言い換えたら編集者がまんぞくした話とか、そんなの。高島敏男も出ません。

シナに関して、私が知らなかった知見として、頁223、香港のその辺の大家族の家(でもアパート)にお邪魔して夕食を観察するという話で、私が「中華鍋」と呼んでいる鍋をブンケンサンが「シナ鍋」と呼んでいる箇所があります。支那鍋と呼ぶ時代があったんですね。前川健一サンは70年代の中華料理店修行時代どう呼んでたんだろう。この鍋を買おうと思って忘れてたのも思い出しましたが、最近はそれほど必要性を感じてないので、まだ買いません。

地上げもバブルも単語レベルで登場しない本ですが、頁152に「駅前再開発」は出ます。そのすぐ後ろに、『団塊ひとりぼっち』では書いてませんが、団塊世代が、山田詠美から「バカだ」と言われ、浅田彰から「知的レベルが低い」と言われていると書いています。そうなのかな。

ベトナムドイモイで開いたばかりの頃なので、そのころのハノイの記述(テレビロケ)もありますが、特に何も。ネスカフェゴールドブレンドの特売を探し求める都民の箇所は、私は今もネスカフェエクセラを探し求めているので、なんとも。本場のギョーザの水餃子より日本の焼きギョーザのほうが私は好きなのですが、ブンケンサンはそうでないようで、そこは不思議でした。また、本場では具にニンニクを入れないとありますが、えー、って感じでした。南方に住んでたブンケンさんに北方が分かるのだろうか。赤塚プロで毎回ニンニク入り餃子作ってたわけですが、赤塚不二夫が存命中にその件について対談してほしかった。で、赤峰とか通遼などに行って現地ルポを書くと。どうでしょうか。今やってももう遅いですが、かつてなら、やればおもしろかったかも。

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返す日 平成14年 9月5日まで かわいいパンダちゃん

はさまってた図書館のしおり。以上です。