記憶にあるだけで三度目の来訪。
文化の日なので、タダでした。らっきー☆ でも、すれ違う家族連れのインスタ映えママみたいな人が、「イマイチ、イマイチ」とぶつぶつ呟きながら歩いてました。いや、これでじゅうぶんだと思うんだけどなあ。何が足りない利せないのか。
トヨタの「しょうどく大使」は孔子とバッティングするから使えなかったのか。
令和三度目の八月なのかの写真 - Stantsiya_Iriya
左は孔子学院寄贈のやつだったか、それとも入口のがそうだったか。右はパンフです。最初に来た時はまだ孔子学院じたいなかったですが、二度目の時はちょうど立教大学ほかへ伸長してる時期で、ここにも孔子像寄贈されてた。
入口
正門横の築壁。
毎回来るたびに、顔淵にも子孫がいたのかと驚いて、すぐ忘れてます。孔子の子孫に「傍系」とはっきり書いてあって、この狭い業界のシェアの奪い合いの厳しさを実感。
真ん中が孔子、右が小野篁。では、閉じられた左は誰? ということで、毎回私は、左に徳川家康像を見た模造記憶を持っていることを思い出し、自分で自分が信じられないので、ハテほんたうはだれだつたらう、と気にしてます。
裏庭。北庭と言いましたか。
これが左側にあったのを、セパレートした可能性もある、とひとりでぶつぶつ。
ブッダが横並びだった可能性もある、と思いつつ、大仏如来は別の場所に安置と毎回気づく。
落ち葉
築山から。最初来た時、ここからばんな寺に行く途中に古本屋があり、劉燕子の風雲北京だか雲南だかを買った覚えがあります。なつかしい。今日はそっちへは歩きませんでした。二回目に行ったときは、そっちにあるってくとタイレストランがあった気瓦斯。
庠主のことば。私が最初に行ったときは、原始仏教学者の中村元先生が庠主で、その時も、今も、「庠主」と書いて「ようしゅ」と勝手に読んでしまいます。「しょうしゅ」が正しいんだとか。
学校なら校長のはずなのに「庠主」の意味が分からないとか、儒学者漢学者でなく、サンスクリットで古代インド仏教の中村元先生が「庠主」なのは実に痛快OL通りだ、とか、様々物思ったあの頃。かな文字が「仮名」で「真名まな」が漢字とはよく言いますが、「真言」は梵字、サンスクリット。
中にちっさいのがひとつ、外におっきいのがひとつある「宥座之器」
いっぱいになるとひっくり返って中味がぜんぶこぼれてしまうイケズな桶の例を以て、よっぽど、足るを知るを教えたかったんだなあと。
覆水おぼんこぼんとナイツ。
ちなみに、これは、賽の河原で、ひとつ積んでは母のため、ひとつ積んでは父のため、と、河原の石を積んでケルンを作って、父祖に恩はないけれどなんとなく報いてみよっかな、という幼くして死んだ子らが、石が積みあがるかどうかのタイミングで、地獄の鬼が石を蹴散らして、また最初からやりなおさせるイケズとは関係ありません。
以上