水谷サンが2012年3月にりっつーの紀要雑誌「社会システム研究(Social System Study)」24号に発表した聞き取り記録。聞き取りは2009年から2010年実施。当時、カザフスタン、キルギスタン、ウズベキスタンで「ウイグル人の在外組織」をテーマにフィールドワークを行っていた際のスピンオフ的成果。アムダリア、シルダリヤ、トランスオクサニアの現地で、その東方からやってきた、漢語をよくするテュルク系等の高齢者に逢う機会が複数あり、高齢で漢語がこなせるのには当然背景があるわけなので、そこを聞きとったとの由。水谷サンもまた漢語を能くするので、聞きとり言語は漢語。時折自在にウイグル語、ロシア語などはさむ。
ムニールさんは2005年にロシア語の自伝を出版しており、それも随時参照し、ファクトチェックというか、聞き取りとのあいだで齟齬がないか確認したそうです。
でだしでいきなり「ポリグロット」が分かりませんでした。
多言語に通じている人。多言語使用者。
聞き取りを読むと、タタール人であるムニールさんがウイグル語を独習したのは社会人になってからで、そんな簡単に覚えられるものなのかと思いました。
この論文では、長い呼称「東トルキスタン共和国」は「三区」と略されています。当時十区あった新疆省の区分のうち、三区が独立に踏み切ったことから。今なら「東トル」とでも訳してたでしょうか。論文だから、そんな軽いことしないか。
民族の十字路だかなんだか分かりませんが、多彩なバックボーンを持つ人物が縦横に登場します。勤工倹学時代は山東訛りの漢人の磁器工場でアルバイトしたとか、同僚にカルムィク・モンゴル人がいて、チベット仏教について学んだとか、もろもろ。アラビア語やペルシャ語に堪能なパイセンから、礼拝や断食するよなと声かけられ、もちろんですよと答えるくだりから、当時のシルクロードの民は、断食そんな一般的ではなかったのかと推察も出来たりします。トルコ留学経験のある人物の語彙にはときおりトルコ語がまじるそうで、明確に区別出来るんだなと思いました。ウイグルレストランに来たトルコ人が、店主のトルコ語に業を煮やして、「日本語で」と以後の会話を日本語に切り替えたのを思い出します。
本書の冒頭に、1930年代から40年代にかけてのアルタイ地方やコムル地方のカザフ人の起義についての記述があります。これ、木村肥佐生が『チベット潜行十年』(偽装の十年)で触れている、援蒋ルートを襲ったために盛世才に逆襲され、新疆から青海のゴルムドに逃げて、ゴルムドのモンゴル人をけっこう殺したカザフの遊牧集団とは関係あるんでしょうか、ないんでしょうか。木村肥佐生はカザフ人を「コサック」と書くような人ですが、青海側の資料にもこの記述はありますし、青海モンゴル人からもこの話を聞いたことがあります。カザフ人まだゴルムドにいくたりか住んでるとかそういう話。この論文には、援蒋ルートの記述はありませんので(民國側のウイグル人などは出ます)ふと、気になりました。
産油基地クルマーイはタルバガタイにあるそうで。白石麻衣。鬼よりつよいおれまーい。
以上