査読研究ノート『中国正教会の歴史と現状-中国と香港の正教会とロシア、日本』A Peer-reviewed research note "The Orthodox Church of China : Its History in Mainland and Hong Kong" by NAOKO MIZUTANI(社会システム研究 "Social System Study" 37)読了

立命館学術成果リポジトリ

pdfで30ページありますが、本文は18ページくらいなので、だいじょうぶです。残りは、かなり長い注と、参考文献と、用語解説(在外シノドなど)と、ロシア語のサマリと、あと、台割の関係で、1ページ空白があるのを、そのままpdfにしてます。

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前にりっつーの社会システム研究に載った時にも気づいて忘れてましたが、句読点が「。」「、」でなく、「.」「,」です。むかしの早川みたい。現物では「査読研究ノート」と書いてますが、リポジトリでは「紀要論文 / Departmental Bulletin Paper」となってます。前の論文も、現物では研究ノートで、リポジトリは紀要。

英題は、リポジトリに依りました。かなりざっくりな気がしますが、字数制限でもあったのかどうか。邦題をそのままグーグル翻訳すると、"History and Current Situation of the Chinese Orthodox Church-Chinese and Hong Kong Orthodox Churches and Russia, Japan"で、とても長いです。そして、リポジトリがくふうして、メインランドと香港という書き分けをしてるのに、毂歌AIは、チャイナとホンコン、というバッサリ書き分け。

ロシア語サマリの露語タイトルは、”История и действительное положение Православия в Китае Православие”в Китае и Гонконге: Россия и Япония" Александра Наоко Мидзутани でした。最後は著者名か。ハオコでなくナオコ。

以前の論文で、清末や60年代に新疆から中央アジアへの亡命を調べた時のスピンオフ論文。白系ロシア人の香港等への移住、中華人民共和国に残って〈俄罗斯族〉として生き、信仰を守ろうとした人たちについて書き留めています。執筆中にも、中国の変動のみならず、ウクライナ正教会をめぐってロシア正教ギリシャ正教が激突するなど、世界の動きをどう紙に書きつけていくか(どうタイピングorスマホにタッチしてゆくか)悩ましい部分もあったのではと推察します。

右寄りの人のハートをくすぐる箇所としては、80年代改革開放の波にのって、やっとフカーツしようとした中国正教会が、ソ連にではなく、日本の正教会へ、文革で失われた経典や祭祀関係品の復元に助力を求めた歴史的事実の列記があります。具体的には仙台なのですが、中国側の司祭たちの中に、ひた隠しにしていたが、実は日語話者がそれなりにいて、中国でもっとも〈东正教〉が盛んだった中国東北部にはご存じのように満州国があり、日本は諸国の中でも例外的にロシア人司祭に依らない、日本人中心の運営を行っており、満州国のハリストス教会にも邦人司祭がいたそうです。で、日本側から提供された中文版の聖書や祈祷書に使われている文言が、実はけっこう日本語版に流用されていることが中国側に分かり、またひとつ両者の交流を深めたんだとか(いや、そうは書いてないかな?)

たぶん司祭が仙台を選んだ理由には、魯迅が留学した地でもありますし、日中友好ムードに乗るには、いちばん適地と策を練ったのではないでしょうか。そんな気がします。

そも中国へのロシア正教の伝来は、アルバジン城の攻防をめぐって北京に捕虜として連れてこられて、そのまま北京に居住することを選択したロシア人たちが主体として始めたそうで、本書はアルバジン城は満語ではヤクサ、漢語はその音訳の〈雅克萨〉を採用してると豆知識を披露しつつ、彼らが居住を許されたのが、例の、外国大使館で一個だけ旧城内に位置する旧ソ連大使館、現ロシア大使館のある、あの東北の鬼門の一角であるというみんなが知ってる知識から、しかし義和団でめっさ一度やられて、その際清国政府が正教徒たちを雍和宮に避難させたこと、それとはあまり関係がないかもしれないですが、アルバジン虜囚移住時代からのロシア人墓地正教徒墓地が雍和宮にほど近い安定門郊外にあったが、文革でメチャクチャに、ペンペン草一本生えないようにされて、今はなんしか、なかったことのようにそこは、「青年湖公園」になってると、一気呵成に書いてます。

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私事ですが、安定門や雍和宮から城外に昔は歩けたのに、今、グーグルでとほで移動を選択すると、かなり遠回りでしか行けなくなっていました。安定門には上野もかくやの一面のハスの風景の写真が投稿されてますが、私もその辺を歩いたことがあり、幸せではなかったかもしれないが、あの時代はまだ、自分で壊してしまったものが、まだありました。ハスの実を勝手に採って売ってるのか何か、その辺の辻に売り子が立っていて、最初知らないので、蜂の巣売ってるのかと思いました。蓮の実がボリボリ食べれることを、初めて知ったです。

この論文を読んで、例えば、白系ロシア人主体の中国正教会は、ロシア革命後のモスクワが指導するロシア正教会からの指示を受けるわけにもいかず、アメリカには亡命ロシア人正教会の総本山があるので(在外シノド)そこに帰依することにしたが、ロシア本土からの金銭的援助が途絶えて、相当な困苦だった箇所など、中国はそうだったのか、では日本はどうなら、と、いちいち、思いました。

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ウィキペディア日本語版のこの項はよく出来ていて、しかも簡潔でした。日本ではロシア革命後、赤化したモスクワを悪く言わない、ソ連びいきのロシア人司教に対する信者の違和感が高まり、日本正教会の日本人化がうながされる契機となったそうです。財政的な健全運営は関東大震災という国難にともなうドメス信者の寄進の増加から達成。で、ロシア正教会に帰属するか在外ロシア人正教会に帰属するかの問題は、最終的にはGHQが決めて、後者にしなさい、でFA。

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おもしろいです。上のウィキペディアの「他正教会との交流年表」には中国との交流がまだ追記されてないので、この論文を知った誰かが追記するかもしれません。ニコライ堂にはちょこちょこバザー見たりで行ったことありますが、横浜や小田原の正教会には行ったことないので、行ってみるかもしれません。でも小田原は、信者でこじんまりやってるのかもしれない。横浜はかなりバーンとしてますが。たなか亜希夫のリバーエンド・カフェに出てくる、石巻ハリストス教会にも行ってみたいです。

旧石巻ハリストス正教会教会堂(聖使徒イオアン会堂) - 石巻市

京都にも正教会があると、知ってるはずなのに知りませんでした。この辺、うろうろしてたので、知らないわけがない。

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いっぽうどうからの経路検索にしようかと思いましたが、離婚の際お世話になった弁護士会館からにしました。感慨深いです。

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おまけで上海の正教会。右下がフランス料理の紅房子。始点の宿は田中角栄が泊まったところ(のはず)のジンジアン反店。上海音楽学院は、なんとなく。

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さらにおまけで、フィリピンにふたつだけある、正教会ギリシャ正教のほうかもしれません。あと、東南アジアは、マレーシアが一個出ました。カムラン湾ほかで、ベトナムにもオーソドックスがあるかと思ったのですが、グーグルマップレベルでは出ませんでした。

この論文は、同ジャンルの松里公孝という人の2014年の論文に???をつけていて、本職でない大陸浪人とか、ライターなのかと思ったら、東大出てソ連留学した(1960年生まれなので、崩壊前ギリの時代でしょうか)さらにハーバードも出てるたいへんな権威で、なんでこの上そんな人とやりあうねんと思いました。

松里公孝 - 维基百科,自由的百科全书

ロシア語版のウィキペディアはなくて、日本語と中文だけですが、中文のほうが経歴を詳細に書いてます。いつもそうだ。

松里公孝 - Wikipedia

在、日本におけるスラブ研究の第一人者で、論文の質・量、言語能力、海外での評価で群を抜く。旧ソ連で渉猟した文書館の数は、西側の研究者としては世界最高といわれている。使用言語は英語・ロシア語・ウクライナ語・ポーランド語・リトアニア語で、とくに英露については同時通訳をこなすほどの達人である。研究対象が多岐にわたるため、その知的関心の全貌を把握することは困難であるが、近年はロシア帝国論に力を注いでいる。ただし、頻繁に研究対象が変わる近年の研究スタンスに対する批判も少なくない[要出典]。

アンダーラインは私。水谷サンが上の個所を書いたわけはないので、ウイグルから白系ロシア人に研究対象移すなんて、「オマエモナー」と突っ込み返しされるわけはないと思います。以上