『吃音 伝えられないもどかしさ』"Stuttering : Frustration that cannot be conveyed." by Yuki Kondo(新潮文庫)読了

カバー Photo/Getty Images デザイン 新潮社装幀室 単行本は2019年刊 初出は「新潮45」2014年二月号から2017年八月号全七回不定期連載「吃音と生きる」ほか、なのかな。あとがきで編集羽田祥子、足立真穂両名へ謝辞 文庫あとがきあり 解説は重松清

これも、ビッグコミックオリジナル『前科者』で、登場人物が読んでいた本。著者のほかの著作を読んでから読みました。ノマド生活三部作の真ん中の中国編を未読状態で本書を読み、作者がその時に吃音状態から脱したと知りました。第六章。そのことを、後から、いろんな知識の肉付けとともに本書で先に読んでおく方が、その時の説明を旅行記で先に読むより、より客観的に読めるのかもしれないと考えます。文庫あとがきで、吃音者の社会により係るようになったからかどうか、兆候がまたあらわれてきてるむね吐露してますので、なおさらかと。

旅行記を読んだ時に、カムアウトも読んだので、ノマド三部作の最終作の宣伝動画に作者が登場し、音波で刊行を告知する意味を考え、さらに、理系ライター集団の公式プロフでTOEIC985点、国連英検A級なので通訳等可能と書いてある個所を、現在は問題ありませんからお気軽にご依頼くださいね、とまであえて書かないことにしているのだろうな、と思ったりしました。ホントに仕事頼んでだいじょうぶ、と思う人が聞いてきたら説明するし、そのクライアントが下調べする気があればそれはすぐ分かること、という考えなのかと。

解説の重松清も吃音者だそうで、私はこの人は故ボーツー先生の映画「酒中日記」で殺人光線を浴びる場面で見たことがありますが、その時はそうは思いませんでした。飲酒と声が出る出ないの関係は知りません。実は私は、アルコール性の吃音というものを聞いたりなんだりしたことがあって、てんかんとアルコール性てんかん同様、吃音にもアルコール性とそうでないものがあるとすると、これはうかつに切り分けが出来なくないかと思い、それでこの本も直球で読まなかったです。が、今検索すると、アルコール中毒と構音障害についてまで言及したサイトはほとんど出なくて、てんかんとアルコール性てんかんの時に悩んだほど(前者の自助グループに後者の参加可否など)悩まなくてもいいのだろうか、と思いました。とりあえずペンディングします。

本書は歴史上の有名な吃音者や学術史についてもページを割いているのですが、研究の歴史はまだ浅いそうで、これからの部分も多い感じです。一度否定されたものの見直し、揺らぎの例が、本書とその文庫化の時間経過のあいだにも起こっている感じ。歴史上の人物としては、大杉栄が出て、この人は稀代のモテという私の認識ですので、吃音とモテ/非モテには何の関係もないと思いました。そこに個の魅力の根源はない。また、マリリン・モンローのノーマ・ジーンも出ます。彼女のあの特徴的な話し方が、それを回避するための努力的なものだったとする説も含め、やはり稀代のモテではないかと思いました。アットラクティヴの延長で言っていいのか分かりませんが、ユナイテッドステイツオブアメリカの現大統領、バイデンサンも吃音者だそうで(頁251)、人によっては、大統領にまで上り詰めることが出来るんだなと思いました。私はバイデンサンは、アフガンはまだ不慣れな時期だったのでともかく、ウクライナで、これ以上ないくらい男を下げたと思ってますので、ギトーという感じでしか見れませんが、それはそれとして、世界の領袖にも吃音の人がいるという事実は揺るがないです。

本書は、2019年に、本田靖春ノンフィクション賞(第41回)新潮ドキュメント賞(第18回)Yahoo!2019年ノンフィクション本大賞にノミネートされるもすべて賞を逃したそうで、ヤフーはブレイディみかこの息子はちょっとブルーなので相手が悪かったし、新潮ドキュメント賞は私も読んだウスケボーイズの作者なので、どうかなあだし、本田靖春福知山線事故の本なので、JR西日本の体質絡みで、どうしても広く知らしめたかったのかもと思いました。

2019年ノンフィクション本大賞 - Yahoo!ニュース

新潮ドキュメント賞 | 新潮社

https://www.kodansha.co.jp/upload/pr.kodansha.co.jp/files/pdf/2019/20190530_nonfiction_kouho.pdf

頁26、言語聴覚士という資格が出て、コロナカでマスク越しに人と接することが多くなったので、児童の言語発達に影響があるのでは、というNHKニュースで見た職業だなあと思いました。

言語聴覚士とは | 一般社団法人 日本言語聴覚士協会

頁51に、自助団体が登場し、当然無名でなく実名なのですが、本書に引用されてるその宣言のうちのある部分は、やっぱり自助と名の付くもののおおもとのインパクトを受けてるんだなあと思いました。いつかふつうに飲めるようになるという妄想。まあこの妄想は、『居眠り先生』の著者が、ホントにふつうに飲めるようになってしまったらしいので、かつてのが虚言でなければ、一例だけ特異点があると言えてしまうです。に取り憑かれている。

頁95に、「予期不安」ということばが出ます。これは私は「先取り不安」という言い方で覚えていました。これを認識しているかいないかで、だいぶ生活が変わったです。意識が変わった。

頁157に「吃音カード」というものが出ます。ヘルプカードのようなものだろうかと思いましたが、まだ見たことはありません。何かシンボル的なマークを前面に出したものではない感じです。

b.hatena.ne.jp

シンボルやマークは、知られていないというか、少なくとも私は知らないです。本書によると、100人に一人の割合ということで(頁23)、在日コリアンと同じくらい、新華僑を含めない華人より多い比率と思いますが、エンブレム的な部分をどうしていくかの考えは、いろいろあるのだろうと思います。

頁237、メーガン・ワシントンというミュージシャンの動画のタイトル、"why I live in mortal dread of public speaking"の、ドレッドの意味が分かりませんでした。ドレッドヘアーのドレッドと同じ綴りですが、そこをあと一歩検索しなくなってる自分がいます。

https://www.ted.com/talks/megan_washington_why_i_live_in_mortal_dread_of_public_speaking?language=ja

本書は障害者手帳について、ある程度時系列を追って書いています。偽称が生まれるポテンシャルはあるのだろうかなど、思いを巡らせながら読みました。

頁177、作者は中国雲南省で、漢語を話す生活のなかで、ある時、はっきりと、吃音の感覚が軽減されるのを感じたそうで、作者は書いてないですが、そういうケースは唯一無二なので、例証しようがないようにも思いました。中文は有気音無気音があったり捲舌音があったりしますが、中国にも〈结巴〉の人はいるはずなので(会ったことはないのですが、気づいてないだけかもしれません)言語に拠るわけでもなしと。

口吃(语言障碍)_百度百科

雲南省の都市部は、多種多様な人がいて、東北部と異なり、もっと後の現代に普通話がまず共通言語として定着した感じなので(中国の他では一斤は500グラムで、一キロは一公斤というが、雲南だけは一斤が一キロとなるとか)そういう、自由な空気も関係あるのかなあと思って見たりしましたが、一つそういう例があるからといって、雲南で漢語留学してみたらみたいなことは本書も一㍉も書いてませんし、私もそんなの分からないので、試すも試さないもないと思います。私は漢字四文字の名前で、昆明で写真を現像に出した時、声に出して“四个字!”と驚かれましたが、ほかでは驚くより前に別の展開になると思います。本書に出てくる、つっかえる感じがふっと消えた時の最初のことば、イーベイカーフェイ(一杯咖啡)yibeikafeiを私も何度も口にしてみました。その後、難し言い回しがすらすら言えるかチャレンジした時の、「さっき注文した肉料理、やっぱり肉は炒めるのでなく、揚げてください」というセリフは、原文だと、"刚才我点的菜的肉,还是不要炒,请油炸烹调。"だろうか、などなど考えましたが、これはまったく横道です。

以上

【後報】

頁227

 吃音は、通常一人でいるときには障害にならない。ほとんど常に他者とのコミュニケーションに関連して生じる障害であると言える。どもる時に感じる苦しさは、言葉が詰まって言えないことそのもの以上に、相手に不可解に思われたり驚かれたりすることに対する恥ずかしさや怖さによる部分が大きいようにも思う。話した瞬間に、いつも相手に「どうしたんだろう?」と驚いた視線を向けられること、または、向けられるかもしれないと恐れることは、人とのコミュニケーションを取る上で心理的に極めて大きな負荷になる。それはコミュニケーションの内容そのものにも影響を与えるだけでなく、コミュニケーションに対する恐怖心をも植え付ける。そして一方、対話する相手にとっても、会話をしながら「どうしたんだろう?」と思うことによって、コミュニケーションの意味そのものが変化する可能性がある。話される言葉の中身以上に、相手の吃音症状に意識が向かってしまう場合があるからだ。すなわち吃音は、単に言葉のやり取りがスムーズにいかないというだけにとどまらず、コミュニケーションそのものの性質を変え得るものなのだ。

本書で取り上げられる、社会生活での事例は、電話業務と、研修中の指導役との関係性にまつわるものが多いです。この箇所は、頭にこびりついたのですが、最初に感想を書いたときには入りませんでした。後報で入れます。「無人島では~」みたいな仮定を考えては解体する繰り返しが、何度か脳内であったことも書き添えておきます。

(2022/2/28)