読んだのは単行本。装画/ゲッティイメージズ 装丁デザイン/多田和博
初出は「野生時代」2012年2月号~2013年7月号
633ページもあるうえ、上下二段組という大ボリュームですので、ゆっくり、ゆっくり読みました。もう毎日感想なんか書かないので、急がない。前に『ヒストリエ』読んだ時は、かなり速読しまして、ボリビアが舞台でしたが、料理名がたくさん出て、ボリビアとペルーは料理に関してはかなり共通してると聞きますし、それで、最近ペルー料理に行く機会が出てますので、そこを忘れてるのは残念だなあと思ってるので、それで本書を、ゆっくり読んだというのもあります。『ヒストリエ』は、料理の箇所だけ、もう一度読み返すかもしれません。
この人の小説は、西表にいた時に読み始め、以降それなりに読んできたつもりでしたが、これと、『海神の島』は読んでませんでしたので、それで読みました。
池上永一先生と行く!『黙示録』ゆかりの地めぐり | マハエの沖縄ダイアリー
上は、沖縄観光コンベンションビューローの本書関連聖地巡礼ブログ。やいま方言でオン(北京語の一声で発音してください)と言うのかな?ウタギとかウガンとかの場所をへめぐってるので、ホントに聖地巡礼です。アマゾンレビューは上下巻に別れている文庫でなく単行本に集約されてるのですが、聖書の黙示録をこれで読むことが出来て感謝、がトップに来ていて、まぎらわしいタイトルの功罪だと思いました。カジをころしたのはミサト。
この人も物語の書き手としてはお筆先みたいな人ですが、タイトルに関してはどうも一時期、枯渇というか、「タイトルなんて飾りですよ、偉い人にはそれが分からんのです」とでも思っていたのか、シェイクスピアとモロかぶりの『テンペスト』うたの題名『トロイメライ』聖書とかぶる本書、ヒストリアと、もう何も考えない的タイトルを続けました。内容で勝負したいから、題名で気を引くことの反対を歩もうとしたのかもしれません。あるいは、シェイクスピアと間違えてテンペスト買う人がいたらプゲラ、とでも思っていたのか。
私は西表ですすめられてこの人を読み、当時カジマヤーを発表したばかりでしたが、その濃厚な八重山臭に打ちのめされた記憶があります。第一回ファンタジーノベル大賞の『パガージマヌパナス』(私はなぜかバガージマをパガージマと覚えているのでここでもそれで通します)は石垣、モスバーガー上陸以前のエッダーしかない石垣が舞台で、それはいいのですが、次の『風車祭(カジマヤー)』が、手の甲一面に刺青の女性(明治以降は政府によって禁止されたので、それ以前の亡霊)が出るのはいいとして、沖縄ではヤマトの狸に対して、豚が化けるというので、主人公の少年に懸想した豚が、彼のオナヌーの対象であるその墨セレブに化けて夜這いして、本懐を遂げるのはいいのですが、豚なので、オッパイが六個あるセックスシンボルとしても行き過ぎな存在となり、この人露悪趣味なのか、わざと読者を辟易させて楽しむ面もあるのか、二作目にしてもうその性癖を出しちゃうの、と、ちょっとげんなりしたものです。
私は地元でかつて、性のめざめを迎えた知的障害の青年が、気が付くと豚舎に潜り込んで雌豚と添い寝していた(朝発見される)などのニュースを聞いていたので、それもあって、どうもカジマヤーを楽しめなかったなと、分析してます。メス豚のピンク色の性器なんかも思い出してしまう。ぜんぜん関係ないですが、百合ヶ丘の某ラーメン屋の先代は、ピンピンラーメン、金玉(カナタマ)ラーメン、潮吹きラーメンというメニューを、スタミナラーメンの一環として出してました。頼んだことはありませんが、入ってたんだろうと思います、具が。
その後、舌を巻いたのが『レキオス』で、黒人系のアメラジアンという主人公の設定もよかったですし、本島が渇水状態のときに、フェンスのむこうで育った主人公は平気で水浴び出来てて、そうした子どもの頃の思い出話が契機で友人から絶交されるくだりなど、非常に面白かったです。作者の人は那覇生まれだそうですが、先島育ちなので、その辺の感情というか、本島がオキナワ標準だと信じて疑わないウチナーのマジョリティーに八重山人としてどう折り合いをつけていくか、の第一段階が、基地の内側と雇用から見た外のオキナワ、という描き方だったと思っています。冒頭の、逆さに宙に浮かぶ妖女のビジュアルもよかった。
次の『テンペスト』は、どうやってあの触手キャラの清国人をNHKがビジュアル化して、仲間由紀恵と絡ませたのか知りませんが、『レキオス』にも登場する実在の人物(白人)を正反対のキャラとして描いていて、所謂一貫した池上史観みたいなものやことはやりたくないからやらない、という宣言の意味合いもあったと思っています。また、この作品を書くにあたって、どれだけ琉球の科挙みたいな試験に必要な、対ダサツマ仕様の候文を勉強したのか分かりませんが、とりあえず縦横無尽に候文が乱れ飛んでいて、石垣から本島に視座を移すにあたって、琉球王朝の文語文を使いこなす力量を、筋肉の鎧として纏いたかったのだろうと思っています。あれはすごかった。「被」の多用とか、今私がやれと言われても出来ない。
で、テンペストのスピノフで、十手の発祥は沖縄、みたいなことをやってた後、見失ってたですが、これを書いていたということです。
『黙示録』挑み続けてきた作家の、さらなる進化を見届けよ! | カドブン
はてなブログの仕様が変わったのか、余白が広くなりました。それだけ目を酷使してる人が多いんでしょう。これ以上余白をちぢめられません。
『テンペスト』では、候文(そうろうぶん)に読み下しを添えていた記憶があるのですが、『黙示録』は、もうめんどくさいのか、意訳のみの併記です。本書もまた、ダサツマと江戸幕府と、紫禁城福州のあいだに揺れるうるまの物語ですので、漢文も出ます。各章の冒頭に、琉球舞踊の歌の歌詞や、漢字のラレツが出るのですが、漢字のラレツで、意味がとれなかったりカナ文字がまじるものは候文で、あれ、これスラスラ読めるな、よう分らんけど、と思うものは漢文です。
頁55 蔡温の日記 尚氏琉球王朝十二代国王尚益崩御と十三代尚敬即位
御当国新敷てた加那志様被上此国之天下普被照上候故君々祝女部共被浄嶽々ニ而御拝可
仕候新敷てた加那志之御世為御始事ニ而上下奉公人共御城被上民百姓共者可被敬候幾久敷てた加那志之御世御生誕為有事也。
御当国は「おんとうこく」で我が国、新敷は「あたらしき」(送り仮名を漢字の当て字で書いてる)てたは沖縄で太陽を意味する「てぃだ」で、国王をそう呼びならわしていたそうで、加那志は琉球の最高敬語の尊称で、のちに主人公たちは富士山を見て「富士山加那志」と言ったりします。それにさらに様がついて、そのつぎに、現代漢語では受け身や強制に使う被が出ますが、被上で「のぼられ」
此国之天下普被照上候は一気に「この国の天下をあまねく照らしあげられそうろう」
故君々祝女共被浄嶽々ニ「ゆえにきみたち(ユーたち)いわいおんな(シャーマン)どもウタキウタキにてきよめられ」而御拝可「しこうしておんおがむべし」(池上永一訳と違う解釈にしてます)
仕候新敷てた加那志之御世「新しきてぃだ(新敷てた)加那志のみよにつかまつりそうろう」為御始事ニ「おんはじめのことのために」而上下奉公人共御城被上「しこうして上下ほうこうにんどもおしろへあがられ」民百姓共者可被敬候「たみひゃくしょうどもみなうやまいそうらうべし」幾久敷てた加那志之御世御生誕為有事也「いくひさしきてぃだがなしのみよごせいたん、これあるなり」てな感じで適当に読んだですが、漢字の羅列であっても漢文でないことは十分にご理解頂けたろうと思います。「候」があれば「そうろう」と読み、「仕」があれば「つかまつる」と読む。候文イカス。
それに対し、漢文は漢文です。ゆるがない。
頁377
維
康煕五十八歳次己亥六月寅朔越祭日丁卯
徐葆光
(略)
下は徐葆光の漢詩。
頁379
海外初逢有故情
當年職貢日邊行
舊遊曾賦皇居荘
朝士猶傳白雪聲
異域相親惟使日
重溟難隔是詩名
紫巾鶴髪來迎客
衆裏知君心已傾
候文とちがって、ドコが漢文でドコが和文か、考えずに済みます。ぜんぶ漢文ダカラ。
ほかにも舞踊の歌詞など出るのですが、頁497などでニンブチャーが歌う歌が、なぜか恐山の歌みたいな日本語の歌詞で、ふしぎでした。採集者が邦訳してしまったものしか現存してないのだろうか。瞽女を連想しました。
本書は、沖縄の被差別、ハンセン病にも突っ込んでるのですが、それとは明示的には書いてません。検索の時代だから、ググレば分かるということでしょうか。しかし、前者の「ニンブチャー」はそれなりのサイトが出ますが、後者の「クンチャー」は、2ちゃんとかが出てきてしまい、せいぜいが沖縄観光マリンスポーツ関連のスタッフブログがちゃんとしてるレベルなので、行政関係の猛省を望みます。しっかりしてよデニー!
巻末の参考文献『沖縄の遊行芸』は、略された副題が「ニンブチャーとチョンダラー」というくらいなので、そのものズバリですが、例によって倒産したひるぎ社の沖縄文庫なので、現在は高値のついた古書しかありません。巻末の参考文献は、書名と著者名しか書いておらず、出版社も出版年も割愛されており、ひとつずつ調べると、多くがこのひるぎ社のように、現在では入手不可能なものが多い可能性があります。
というように読者がググるに任せて説明しない単語もある一方、主人公のライバル「雲胡」は長いこと読み方のルビがつけられず、「うんこか? うんこなのか? ほんとにうんこと読んでいいのか?」と読者をやきもきさせます。けっきょく、頁158でやっと、「くもこ」という湯桶読みをするとルビで分かり、それとともに、主人公の「やーいうんこ」という嘲りも解禁になります。
主人公は相当に手段を選ばない人間で、試合前に相手の足首にドスをつきたてて負傷させるなど朝飯前で、なんの精神的痛苦も感じません。特に前半は、性欲の権化の與那城(よなぐすく)王子に凌辱の限りを尽くされるのですが(その見返りとしてコネで江戸行きに舞踊団に加えてもらう)耐え抜きます。この與那城王子と、樺山聖之介という薩摩剣士が、作者お得意のクリーチャー、アニメ的キャラですが、この話は後半、大人になった主人公の直面する悲哀がどんどん出てくるので、クリーチャーや初期押井作品のようなてんやわんやはお呼びでなくなります。瓦版屋くらいでしょうか、息長く出続けるのは。まさか折揚というキャラが、それっきりでなくその後も登場するとは思いませんでしたが。
そんな感じで、十章くらいから、進みが遅く感じられます。特に、この期に及んでまだ北京に行くのか、という展開が気重でした。江戸に行くのだから北京にも行くだろうと途中まではあっけらかんと思っているのですが、その後凋落やら手籠めやらの展開が続き、もう行かなくてもいいよと思ってしまう。清国の英才徐葆光が冊封使で首里に来た時にはジュゴンの肉という珍味を馳走になりますが(頁378など)、北京で涮羊肉を食べたとか酢豚(咕咾肉)を食べたとか熊の手を食べたとかの描写も別にないです。糖葫芦ひとつ食べてない気瓦斯。しかも北京の治安が悪いという一文がちゃんと伏線になっていて、えーという展開になり、ここは私は、いくら芸のためなら何でもありといっても、こりゃないよ、湛瑞の母親がほんとかわいそうと思いました。
頁240、唐踊り「打花鼓」は明の地方劇秦腔がもとになっていて、秦腔はのちに京劇へと進化したので、両者は発声法も衣装も似ているそうで、見てみたいと思ったら、動画がすぐ見つかって、現代は便利すぐると思いました。
このあたりで、琉球使節が江戸で老酒を飲む場面があり、泡盛でなく、薩摩焼酎でもなく、日本酒でもなく、老酒ねえ、と首をかしげました。頁244。
頁386「打花鼓」歌詞一部
哀告小红娘。
可怜那张珙跪倒在门旁。
你要不关门,定要跪到天明亮。
ヤオブーとか書いてあると思いました。
頁327にいきなり線装本が出て、おおとのけぞりました。組踊という新しい舞踊のシナリオなのですが、ちゃんと装丁するとは。
いちおうというか、かなり歴史上実在する人物が出るそうで、その筆頭が冒頭から登場する蔡温です。琉球きっての名宰相で、私も沖縄の児童書で、沖縄を作った偉人たちのひとりとして、読んだ記憶があります。あとは誰が琉球の偉人でしたか。伊波普猷と、謝名親方(じゃなうぇーかた)はいた気瓦斯。池上永一はまだ謝名親方の物語も書いてないと思いますが、カナーリ唯物史観的に評価されてる人物やもしれず、それで、気乗りがしない可能性があります。あと、パイン工場の倒産とか、沖縄パインの盛衰も書いてないと思う。パインは一株につき一個しか実がならず、成長もおそいので、あまり作ってて楽しい作物ではないとか。よく台湾はあんなパイン頑張ってると、尊敬します。ジューシー。
冒頭、蔡温と次期国王の王子が理気二元論で、作麼生(そもさん)、説破(せっぱ)とやる場面があるのですが、正直、宋が金におされまくって南下した時代のぁゃιぃ疑似科学ですので、そんなもの、まともに研究して、これで宇宙の摂理がすべて解明出来たとか思ってたら、それこそヤバすぎ、科挙と儒教が国を滅ぼした実例そのものじゃんと上からで読んでたら、二度とそんな場面は出ませんでした。連載中にいろいろと池上永一さんも考えたのか、問答自体をどこかから持ってきたのを嗅ぎ当てられたのか。
本書は、琉球国王が太陽なら、その陰で国家存続のためその身を犠牲に神に祈願する存在が月であり、それがきこえおおぎみというノロ、ユタの女性神職でなく、近世琉球では男性がつかさどる舞踊のうちに現れた、という話で、らせんの構造というのが解脱のカギみたいなエンパシーだかエモいだかな終局でした。なので、円環の最初に戻る的なエンディングは、当初から決めていたのかもしれませんが、螺旋なら最初には戻りませんので、もう少し前で話をとめてもよかったかなと思います。以上