外務省外交史料館・JICA横浜海外移住資料館共催企画展示 Joint Hosting Exhibition by Diplomatic Archives of the Ministry of Foreign Affairs of Japan and JICA Yokohama Japanese Overseas Migration Museum 見学

「外交史のなかの海外移住~それぞれのはじまり」

"Overseas Migration in the History of Diplomacy. -the Beginning of Each"

<企画展示>外務省外交史料館、JICA横浜 海外移住資料館 共催企画展示 「外交史のなかの海外移住~それぞれのはじまり」 | イベント情報 | JICA横浜 - JICA

海外移住資料館の展示を見て、撮影可能箇所の話をしていたら、こっちはぜんぶ撮影可だそうで、今後もう二度と同等の企画はお目にかかれないとまで言われたので、じゃあということで、少し撮りました。

研究者が全資料EOSでパシャパシャとりもって、自宅でOCRソフトで電子データにおこしまくろうとして、手書き文書もそれなりにあるので、㍉じゃ~と頭を抱えるような展示でインカ帝国と思うのですが、どうでしょうか。

海外移住資料館 外交史のなかの海外移住 ~それぞれのはじまり

入り口。入って左に折れると、企画展別室です。鞄類は右のロッカーへ。百円は使用後に返却されます。

墨西哥 Mexico メキシコ 亜爾然丁 Argentina アルゼンチン 暮利比亜 Borivia ボリビア 伯剌西爾 Brazil ブラジル 秘露 Peru ペルー

中に入ると、このように国ごとに移民条約締結に至る経緯や、取り交わした文書が展示されています。たぶんとても貴重。私にとっては「馬の耳に念仏、豚に真珠デスヨ~」

メキシコだけ、漢字表記が日本と中国で一致してるのが面白いと思って、この一枚は撮りました。ほかの国は、阿根廷,玻利維亞,巴西,秘魯。ブラジルやアルゼンチンがここまで違うのはなんとなく見たことがある人も多いかと思いますが、ペルー、露か魯の違いしかないのなら、同じにしてもいいのに。

というか、〈秘〉の北京語は、もうほぼほぼ"mi"としか読まないんですよね。たぶんペルーの漢字表記が、一番有名な例外というか、いちばん有名な、"bi"で読む例だと思います。

秘 - 维基词典,自由的多语言词典

広東語でもハングルでもビーなのに、北京語だけミーになってしまった理由は、鳥がディアオからニャオになったのと同じでFAでしょうか。ベルギーが比利时でベルマーレが比马だったので(現在のベルマーレは意訳で〈美海〉)比露とか比魯でもいい気がします。クスコとかマチュピチュとかウユニ湖が神秘だから、意地でも「秘」に固執してるんでしょうか。

 批准書の表紙や蝋缶にみられる国章の図柄は、①ラマ科のビクーニャという動物、②マラリア治療に使われるキニーネの原料、③神話をモチーフとした羊角からあふれ出る金貨。

ペルーとの批准書の説明部分。どこの神話なのかとか、キニーネの原料が特産品とは知らなかったとか、いろいろ新鮮な国生さゆり、否、国章。

ペルー移民  1872(明治5)年、横浜港に入港したペルー国船マリア。ルス号から虐待に耐えかねた清国人労働者が脱走する事件が発生し、その処遇をめぐって、日本とペルーの間で国際裁判となりました(マリア・ルス号事件)。翌1873(明治6)年、ペルーからガルシア特命全権公使が来日し、事件に関する協議を行うとともに、条約締結交渉を行い、日本はペルーと国交を樹立しました。中南米諸国とは初の国交樹立となりました。  ペルーへの集団移民の送出は、1899(明治32)年に開始されますが、それ以前の1889(明治22)年、当時特許局長官であった高橋是清は、かつてドイツの中日総領事であったオスカー・ヘーレンから銀鉱山経営計画をもちかけられ、会社を設立して工夫など17人を送出するとともに自らペルーに渡りました。しかし、目指す鉱山は廃坑と判明し、多大な負債を抱える結果となりました。  それから10年後の1899(明治32)年、移民会社森岡眞商会が募集した第一回移民790人はサトウキビ耕地へ配耕されました。しかし、過酷な労働環境のため多くの死者や退耕者を出す結果になりました。移民たちは窮状を外務省に伝え外務省は実情を調査して農場主に待遇改善を求め、状況は改善されました。その後もペルーへの移民は続きましたが、多くは契約終了後リマなどで商業などに従事することになりました。

ペルー移民の説明。ペルーとの国交が中南米初だとか、その契機は清国人だったとか、いろいろ面白いです。常設展の展示が、ほぼほぼブラジルと北米(ワイハー除く)に終始してますので、もっとペルーがあってもいいと思ってたら、ここにいたという。

光のブラジル影のペルー、陽キャなブラジル陰キャなペルー、北米移民がなかなか現地に同化しない(同化させてもらえない?)のに対し、入植して五年もすると現地人と見分けがつかなくなると外務省書記生を嘆かせたペルー移民*1それなのにWWⅡでは、米国でもハワイの日系人は強制収容されなかったのに、ペルーの日系人はわざわざ米国におくられて強制収容されるという、数奇な運命のペルー移民。「ペルーって、ニッケイ界のヘタリアだね💛」とペルー人のクラスメイトに話しかけると、卒業までひとことも口きいてくれなくなるに1,000ペリカ

高橋是清のペルー渡航に関し便宜供与依頼 1889(明治22)年11月14日 外務省外交史料館所蔵 のちに総理大臣や大蔵大臣となった高橋是清は、1889(明治22)年、当時勤めていた特許局長の職を辞して、ドイツ人ヘーレンが持ち掛けた銀鉱山経営に出資し、ペルーに渡った。 当時の日本は、ペルーとの外交関係はあったが、外交官は着任していなかった。そのため、青木周蔵外務次官は、ヘーレンがドイツ人であることからペルーにおいてドイツ公使館から高橋へ便宜を図るよう、駐日ドイツ公使に依頼した。

なんと、2.26事件の高橋是清サンまで登場するペルー。そんなこんなで、ペルーしか見てませんし、ペルーしか写真撮ってませんが、まんぞくです。以上

*1:『ペルーの和食』頁21

stantsiya-iriya.hatenablog.com