2007年に角川から再版されてますが、読んだのは1994年の集英社版。装丁―岡邦彦 図版デザインーBOW WOW
「はじめに」と「付記」あり。巻末に本書関連の刑法・条例並びに台湾略年表(本書登場人物の来し方併記)記載。
遠景出版の漢訳台湾版は、頁421の「いもっこエレジー」からとった、《番薯仔哀歌》を題名にしており、台湾での英訳本タイトルも"Elegy of Sweet Potatos"なのですが、本書名をグーグル英訳した時の、台湾本省人="Taiwanese"の豪速球インパクトが捨てがたかったので、この読書感想の題名はグーグル訳をもじったものを載せてます。ベイツァンベイジュィとか、勝手に私が作った。
台湾のいもっ子 : 日本語で書かれた戦後台湾本省人(いもっ子)の隠された悲劇 (集英社): 1994|書誌詳細|国立国会図書館サーチ
台湾で出版されてないかどうか、著者名で検索したんですが、蔡徳本では出なくて、主人公名の蔡佑徳で検索して、やっと出ました。
1995年,該書由遠景圖書翻譯為中文在台灣出版[1][2]。
同時に著者のウィキペディアも見つけることが出来、2015年におなくなりになられていたことも分かりました。ご冥福をお祈りします。安らかにおねむりください。ウィキペディアを見ると、戦後初期に短編小説も発表しておられたようで、そのうちのひとつが漢訳されていることから、やはり日本語で書かれたと思われます。陳真サンの一冊が出たままそれっきりになっている、東方書店と南天書局が組んだ「戦後初期台湾文学叢刊」の二作目を蔡さんで出したらどうだろうと思いました。
南天書局は、例の、矢内原忠雄『帝国主義下の台湾』が、ながらく日本で入手出来なかった時期にも、平然と復刻本を台湾で刊行していた出版社ですので、やってもいいんじゃいかなあと思います。ほかにもいろいろ、戦前に日本で刊行された台湾本を復刻してた。
なんでこの本を読んだかというと、某図書館でリサイクル本になっていたので、救出。
前にも新疆ウイグル自治区でサントリーの人がブドウ作りの指導をした本をレスキューして、これで二冊目。おおむかし、王育徳先生の『台湾』を別の図書館でレスキューしたことがありますが、なんでこういう本を蔵書から外すかなあ。角川版を入れたから、それでかと思いましたが、角川版を入れたわけでもなく、ただたんに、ほかの図書館にまだ蔵書があるから、リクエストがあれば相互貸借で対応することとし、スペースを空けるために除籍しただけ、なんだと思います。残念閔子騫。
集英社版は430ページで、角川版は472ページですので、出版に至るまでの経緯も何も書かれてない集英社版、白色テロの解説も何も書かれていない集英社版に比べ、若林正丈さんクラスが書いてるとは言いませんが、何かいろいろ集英社版刊行後の反響なんかも角川版には書いてあるんだろうなあと推測します。本書は年表の中の1950年11月の鄭文邦ら十一名銃殺の中に、さらっと、本書には登場しないが、岩波書店『ある台湾知識人の悲劇』の主人公もこの中に含まれる、と注記してたりします。作者ひとりでそんなにいろいろ出来ませんので、それなりにいろんな人が目を通した年表であることが分かります。
蔡さんは全島からただひとり選ばれてのアメリカ留学もした、エリートなのですが、「下着」でなく「アンダーシャツ」と書いたり、「肩掛けかばん」でなく「ショルダーバッグ」と書いたり、ブレインウォッシングやらクリアランスやらなんやら、カタカナの外来語がポンポン入るのは、ほかの人も文章見てるんだろうなあと思いました。
こんな感じの目次。
ここまで。モスラが出るのは、戦後もそれなりに日本文化が入ってた証左ですが、アンダーシャツはどうだろう。頁9に、マーシャルプランの説明で、アメリカの援助という意味で、アメリカン・エイズと書いているのは、誰が書いたか、ちょっと想像して楽しかったです。
エリートですが、釈放後は退職まで三十年一介の教師という冷や飯食い、と最初はこの経歴を読んで思ったのですが、書いてないこともあるもので、終わりの釈放直前のくだりには、早期釈放のエリートで、使い道のある人間は釈放後スパイ等で使われたとあり、出世がそのバーターであるということで、それなら、蔡サンは胸を張ってこの経歴を書いたんだろうと思いました。取引に応ぜず。日本語も英語もペラペラなので、これほどそうした使われ方をされそうで、また、そう疑われる状況もほかにないと。これが蔡さんなりの、李下に冠を正さず、だったとしたら、それはそれで一生がシビアです。退職時に李登輝総統の本土化が始まって、よかったですね本当にとしか。
「はじめに」によると、本書は現地の人たちの日常用いる呼び方をつかって、日本語読み台湾語読み國語(北京語)読みを併用してるとのことで、それはほんとうにそのとおりでした。上の目次でも「チビ呂ろ」が出ますが、呂明賜で沸き起こった高島敏男藤井省三論争がまだ生々しかった頃だろうなと思いながら読みました。風呂の「ろ」三国志の呂布の「りょ」
頁12、〈合汚〉ホーウーは國語。サタンに魂を売り渡す儀式に参加する如く、清らかな人物が濁った川に流れ込んでともに濁ることを意味するそうです。サタンが今アツいので、ここにも載せておきます。
頁22、嘉義にも北回帰線指標があるんだと思いました。集英社版刊行時には嘉義市警察局は往時の警備司令部の面影を残してたそうですが、今グーグルマップで見ると、さすがに建て直しているようです。
頁36、聯誼會にカッコして(なかよし会)としてて、なるほどと思いました。どうしても漢字につられて格式ばった訳を考えてしまうと、出ないことば。あと、「康楽」が娯楽の意味で出ます。
頁75に、尋問でヘルマン・ヘッセの名前を出したが、ヘッセの中文訳がまだ一冊も出ていなので、尋問側の外省人がチンプンカンプンなくだりがあります。ヘッセ、出てなかったんですね。さすがに、世界のハルキ・ムラカミのノルウェーの森で、主人公が書店の棚から車輪の下を引き抜いてねどこで読む場面のころまでには、漢訳されてたのは間違いないと思います。このページに「GIカット」という単語が出て、おおと思いましたが、どういう髪型だったか思い出せません。
頁77には、山東大漢の外省人が持ってくる食事の饅頭に「マントウ」とルビを振って、(餡のないまんじゅう)と説明のカッコをつけてます。北京語。いやこれはほんとそうしてヨシというか。
頁83
(略)婚期が遅れたとすれば、理由ははっきりしている。理想のエリート青年は、ほとんど捕まえられてしまったのだ。そして、残った青年は彼女の理想から程遠い、無気力で正義感の薄い功利的な青年ばかりだったからだ。
こういうのが前半にあって、後半、特務が釈放等をエサに独り身の囚人関係者女性に言い寄る記述が、てんこ盛りで出ます。
頁88、主人公は米国から羽田にまず帰国するのですが、その待合室に力道山も偶然いたそうです。同じページに、「忍氣呑聲」と書いてレンチーウンション、「老羞成怒」と書いてラオシウチョンヌーとルビを振ってます。どちらも北京語。
後者は補足があって、理詰めで相手を論破すると、恥をかかされたと相手は怒るんだそうです。メンツとはそういうもの。
本書には図版もところどころに挿入されていて、取り壊された台北の東本願寺が臨時の収容所として使われていたことや、国民党の台湾入場歓迎の垂れ幕の青天白日満地紅旗が左右逆の写真、監獄の見取り図などさまざまでした。むつかしい図版は分からないのですが、頁173の「マグカップ」は、死刑になった人の残していったものを保管して、新入りに渡すという描写の横に添えられていたので、シンプルな絵がかえって、心に残りました。
だいたい人名は、日本語の音読みです。呂敏仁(ろびんじん)の「ろ」は上に書きましたが、頁185の沈世楷(ちんせいかい)は、「沈没」の「ちん」で、沈従文(しんじゅうぶん)とかの書香かおる読み方は台湾の庶民には届かなかったのだろうと思いました。このページに出る馬桶のルビはマートンで、北京語ですが、上海語でもそうかもしれない。
頁188、死刑執行前の最後の食事に腹いっぱい食わせる内容も決まっていて、高粱(カオリャン)酒一瓶に豚の肝臓の醤油煮、水炊きの鶏、それにマントウか冷え切ったコメの飯だそうです。さいごのほうには、釈放後、帰宅する前にする、線香ともすなどの儀式も書いてあります。全然カンケイないですが、先日上海焼きそば食べたレストランで、ほかの客がレバニラ頼んだら、フェイツァイチャオジューガン(菲菜炒猪肝)といわず、リーバーニーラーイーガ、とオーダーを厨房に通してました。なんでだろう。
頁205に、「知情不報罪」という通称の罪状が出て、知人が共産党員であるのを知っていて通報しないとその罪になるのだそうです。
頁205
しかし、知情不報罪には不合理な点が多く、文明国家にはこういう法律はない。毛沢東や周恩来が共産党員であることは皆知っている。この条例によれば、警察に行って告発しなかった人は全部有罪だ。それとも大物は通報しなくてもかまわないと言うのか。それなら大物と小物の区別の標準がなくてはならぬ。呉のように通報する前に、その共産党員が捕まった場合はどうなるのか。何日以内に通報せよという尺度はあるのか。間違えて通報した場合、誹謗罪になるかどうか。誹謗罪にならなければ、憎い人を片っ端から告発したらよい。誹謗罪になるなら、告発する前に確かめなければならないではないか。確かめているうちに、その人が捕まったら……等々。
呉は、いわれなき法の犠牲者だと言える。
この呉さんの妻は、獄中で稼ぎようのない呉に、金のない無心をしてきて、その後いろいろあります。
頁209、「逆来顺受」ニーライシュンショウ。四文字熟語はほぼ北京語。日本語化で、こうしたことばの台湾語はどんな漢字で書くか、記憶が薄れて分からなくなっていたりもしていると別の箇所にありました。
頁231、章題にもある「ペタコ」が台湾語で、白頭殻という台湾では雀のつぎに多いという、頭の白い小鳥の名前の台湾語が「ペエタウコウ」で、そこから来たそうです。
ウィキペディアを見ると、野口雨情らが台湾から帰って「ペタコ」という歌を作ったり、その歌が李香蘭の映画「サヨンの鐘」でも出てきたりと、かなりはばひろく使われていました。本書では、フツーの憲兵がペタコと呼ばれるのでなく、憲兵が監房に来るのは、死刑囚を執行のため連れ出しに来る特殊任務の時だけで、それに特化して「ペタコ」と呼んでる感じでした。
頁251、獄中の正月(新暦)で、房ごとに「年の初めのためしとて~」を歌う人の場面で、主人公が幼少期、台湾を離れて、門司港に住む兄夫婦と暮らし、内地の小学校に通ったので、台湾島のなかの、内地人と台湾人のイヤな格差や差別と隔絶した環境で育つことが出来た、という事情をさくっと書く箇所があります。こういうの、避けては通れないですね。書かないとフェアでない。
冤罪等で捕まる人の割合は、本省人より外省人のほうが実は多い(総数で外省人人口は本省人の1/10なので、獄中は台湾人ばかりになるが)という記述があり、まあそれ以外にも、住人十人冤罪でもひとりホンボシを挙げられればそれでよいという蒋介石の方針に従って、ホントに捕まった共産党の間諜もいたそうで、けっこうな人が大陸でも甘言にのったり、やむをやまれずだったりで、台湾行きになって死んだそうです。中には、ワザと台湾に行かせてから密告して国府の手で処理させた、四角四面で融通の利かない共産党員の例もあったとか。おもしろいと思ったのは、頁261に、朝鮮戦争の捕虜で、休戦後大陸に帰らず、台湾行きを選んだ「反共義士」のうち、自由もない給料もちょっぴりなんて大陸と変わらない、甘い言葉にだまされた、私のお嫁さんになる人はどこにいる、と、怒って上司に要求したら、「發牢騒」(ファーラオサオ)(すねて文句ばかり言う:本書の注記)で牢屋に送られた人たちのケース。「敝姓馬(ビーシンマー)」(私の姓は馬です)と自己紹介する彼らの場面で、私が〈弊姓〉使ったことなかったことに気づきました。よろしくないです。
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頁285、「太可怕了(タイコーパーラ)」〈可〉をコーと書くのがいいと思いました。ほかにも、どこか忘れましたが(付箋をつけたがそのページに付箋がある意味を忘れた)大陸のプートンホワならションとなる音を國語でシュンと書いてる箇所などもあったかと思います。
頁286、外省人が外省人を密告した箇所で、水商売の業者からおまわりさんに月々支払う紅包の横領疑惑が原因で同僚の警官からはめられた人の箇所があり、紅包の慣例は光復前はなかった、何が慣例だと主人公が憤る場面があります。このあたりから、だんだん怒りの描写が入ってくる。ヤクザにみかじめ料を払うのが日本で、公安にみかじめ料を払うのが中国。安田峰俊の本で、上海で公安の娘と結婚した邦人ヤクザが現地公安をバックに重宝される個所を思い出しました。そこは21世紀の人民共和国もいっしょなんですね。
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同じページに「大義滅親(ターイーミエチン)」別に親を滅ぼすわけではないそうですが、検索すると、日本ではそういう意味になっている。
頁288、獄中で見るおさなごの写真のその子どもの名前が「阿美(アービー)」で、これ台湾語だと思いました。メイでなくビー。ちがうかな。
頁303、「見面三分情(チェンミェンサンフェンチン)」(顔見れば三分の情け:本書注釈)
頁318に大陸から売られた共産党員のケースが出ますが、戦前の日本共産党員で、徳田球一にも会ったことのある人でした。戦後、日共がいかなるゴタゴタからか、「旧台共」と音信不通になり、それで大陸に行ってモテモテになって「新臺共」指導者としてひそかに台湾に渡った24時間後に当局につかまったそうです。まさに売られた羊。日本政府の刑罰は二三ヶ月で、長くても三ヶ月は越さなかったそうで、また、ひどくなぐったが、民國のような死刑はなかったとは彼の弁。いやリンチ死刑はありましたよと青筋立てて怒る人がこれ読んでいたかどうか。
上記の例を蔡サンは「借刀殺人(チエタオシャーレン)」としています。ウィキペディアにあるようなこむずかしい話でなく。
頁342でも作者は怒ってます。感訓所という所に行って、軽くなる箇所。
稼ぎ手のいなくなった家から金を送らせて賄賂にするなんて、考えただけでも虫酸が走る。
あと、ハゲというと蒋介石の隠語なので、密告されて出所が伸びるとか。原文は〈光頭〉かな、と思ってから、原文日本語だったと思い返しました。脳内変換してるのか、外省人日本語のゲーハーが分かるのか。
頁348に、たぶんひとりだけ人名が國語読みで出ます。熊と書いて、「ゆう」と日本語で読まず、「シュン」とルビを振っている。ここが、「ション」でなく「シュン」だったので、ピンイン"xiong"に引き摺られないまま時が過ぎたのだなと思いました。この辺りは、「遊」と書いて「ゆう」と日本語で読ませる人も出て、どちらも外省人で、私は混乱してしまい、読みながらリービ英雄の弟子の台湾系の温又柔(おんゆうじゅう)サンを温熊柔だと記憶違いしてしまいました。
上の記事を読んで、蔡サンは肉脯という豚肉を使ったふりかけみたいのが好物で、「肉脯」と書いて「バーフー」とホーロー語のルビを振ってるのを思い出しました。パクテー。バーフー・クラン。
『台湾流の肉でんぶ「肉鬆、肉脯」、台湾腸詰「香腸」。』by 高くて旨いは当たり前 : 三仁肉脯 淡水店 (三仁肉鬆) - 淡水/台湾料理 [食べログ]
頁362、「向後轉(シャンホウチョワン)」(回れ右)獄内の庭をぐるぐる散歩の運動するとき、この号令がかかるとくるっと逆方向に歩かなければならないそうで、ヒソヒソ話に夢中になってたりするとベーヤーだそうですが、漢字だけ見ると、「後ろに回れ」なのに、どうして「右」なのかと思いました。左に回ってもよくね、と(ネイティブなら思わない疑問な気瓦斯)
左は「左」で、右が「後」に言い換えられるということであれば、共産党が言い換えるなら分かるが、なぜ国府が「右」を「後」に言い換えねばならぬのか、理解に苦シミマスデス。「前」に言い換えると、前進になるから、後ろなんだろうか、etc.
頁381、ここも台湾語が出ます。「夭寿亡(ヤオシュウボン)」(人でなし:本書注釈)さいごの字が北京語読みでないので、はあと思ったですが、どうも検索で出るところの解釈と違う気がします。
頁406、「線民(特務の手先)」ここは読み仮名がなかったです。
线人,又稱線民,是向警方提供情報的人,或也可以指:
さいごのほうの、下記の会話のルビが、いかにも國語だと思いました。
頁412
「要回家囉ヤオホイチャルオ(家に帰るんだよ)」
(略)
「多久了トーチウラ(どれくらいたつ)」
(略)
「不錯プーツオ、不錯プーツオ(悪くない、悪くない)」
蔡サンの故郷は、映画「KANO」でおなじみ嘉義の郊外、朴子というところ。
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蔡徳文さんの本書の主人公は佑徳で、本名そのままのルポではありません。なんでゆうこす、否ゆうとくにしたんだろう。分かりませんが、ひょっとしたら、こうだったらおもしろい理由だなと思ったのが、任文桓という韓国人が1974年韓国で、1975年日本で書いた自伝の主人公が、「バウトク」と言うんですね。日本版ではバウトクの意味をぼかしてるんですが、どうも綱渡りの曲芸師の意味のようで、蔡サンがそれを読んでいて、彼はバウトク我は有徳(ゆうとく:みぞうゆうのゆう)、みたいなシャレで主人公の名前を佑徳とつけていたらおもしろいと思いました。
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カバー折と、巻末の集英社の中国・台湾関連書籍の広告。朝顔みたいのは、検索するとサツマイモの花。「はじめに」にですます調で書いてる文章をだ・である調に変えたもの。
信じていますが、そのいっぽうで、亜熱帯で主食のイモといえば、サツマイモでなくタロイモじゃねーのとぶつぶつ思う自分もいます。八重山はタロイモだったそうなので。
加地伸行さんがこんな本を書いてたとは知りませんで、台湾万葉集も集英社だったとはさらに知りませんでした。図書館蔵書からこの本がおん出た理由が台独パージなわけはないと思いますが、出版社がこうやっておおっぴらに台湾のこの手の本を出してた空気が今でもあるのかどうか、知りたい気もします。中国はまさにずっと老鼠成卤,いな、ならぬ堪忍するが韓信、臥薪嘗胆の一日千秋でこんにちを待ち続けていたのかもしれず、そうすっとこわいですね、すぐ百年の恥をそそぐとか言い出すので。本書も幌馬車の歌とか、いろいろ出ます。以上
【後報】
角川版をめくってみたところ、下記の差異がありました。
・本文中の図版や写真は一切なくなっている。
・1998年の著者夫妻写真、1993年の著者写真、1996年モスラと、1997年呉哲夫サンと、それぞれ著者がツーショットで撮った写真が巻頭にある。
・周英明東京理科大名誉教授による平成18年11月2日付序文。著者とは親戚だったとか。戦後帰国した祖国で2.28事件を体験した周先生は、昭和36年から日本留学を果たし、国府と縁が切れたと思いきや、出先機関から呼び出しを食らい、月80米ドルの報酬と引き換えに在日台独分子をスパイせよとの指令を受け、拒絶します。するとパスポートを没収され、日本での滞在が困難になりますが、米山記念奨学金の給付を得ることが出来、また、法務大臣による特別在留許可を得ることも出来たので(在日コリアンなども得ている救済措置で、経済的に困窮しておらず、納得出来る日本滞在理由もあるのだが、政治面で通常の旅券や査証が得られない状態の人へなされる)院卒業まではなんとかなり、卒業後も日本での仕事が見つかった、という。
その次に、夫人の金美齢サンによる、白子英城サンの紹介で読んだ本だったこと、夫の遺志が果たせてよかったこと、などの一文。
(2022/8/29)