『チベット逍遥 カイラス・マナサロワール紀行』"Tibet Excursion. Kailash Manasarovar Journey" by Ohsumi Tomohiro(カイラスブックス1)"Kailasbokks.1" 読了

チベット逍遥 : カイラス・マナサロワール紀行 (東研出版): 1994|書誌詳細|国立国会図書館サーチ

装幀者未記載 ブッコフがさかんに広告を出してくるので、根負けして買いました。が、読んだらとてもおもしろかったです。

現在は松戸の真言宗の寺院のご住職を務められている方の、「九二年チベット~夏~」とでも題すべき、バックパッカーの旅日記ということだそうです。巻末にチベット文化研究所所長ペマ・ギャルポによる「本書推薦のことば」があり、東研出版という出版社が、ペマ・ギャルポさんの初期作品、天安門事件以前に、中国のチベット侵略を書いた本を出版してくれた縁で一文を寄せることとなったとか。「あとがき」では、謝辞が、ペマさんのほかに、チベット問題を考える会代表小林秀英さん、東研出版社長篠崎泰彦さん、永田幸康・明美ご夫婦、医学博士古田穣治さん、香港の日式ラーメンチェーン「横綱」グループ社長山本浩一さん、平賀伸幸・君子ご夫妻、ご家族、宗派一門の方々、分かれるときになんの感傷もなくスパッと切れる場面(もともと性格的には合わないのだが旅の利害が一致して同道していた)が印象的な旅のパートナー、金髪ドレッドのドイツ人、マリア、ほか現地のチベット人、公安、犬、バックパッカー、美しい自然、エトセトラに寄せられています。

香港のラーメン文化 - Wikipedia

1980年代に、香港で日本人経営による豚骨ラーメン店「横綱日本麺店」がオープンし、ラーメンという日本食文化が広がる。当時は中国本土を含め、日本のラーメンを出す飲食店はほぼなく、本格的な日本ラーメン店の先駆けとなった。

下は紀伊国屋サイトにあった本書の内容紹介。

内容説明

神秘の国チベットで、中国公安の追及を次々と躱し、名山古刹に道草しながら聖山カイラス~天上の湖マナサロワールに至る。可笑しな凸凹コンビが歩いた往復4500キロ、驚嘆・歓喜のヒューマン・ヒッチハイク紀行。

目次

1 チベット・ツアー(カトマンドゥ→ラサ)
2 チョモランマ・トレッキング
3 名刹巡礼(サキャ・セラ・ガンデン)
4 サムイェ―チベット最古の仏教寺
5 チャンタン高原ヒッチハイク
6 アーリー―チベット最西部の町
7 カイラス巡礼
8 天上の湖 マナサロワール
9 帰路(バルカ→アーリー→ゲッツェ
10 トラック横転事故(ソウシュン→ラッツェ)
11 シガッツェ・ラサ

私はブッコフで¥750で買ったのですが、別の新古書店の¥500の値札がついたままでした。現在のブッコフは、私が買った時より¥20高い¥770の値をつけてるみたいです。
東研出版という会社は、検索で出ませんので、今でもあるのか、なくなったとしたらいつなのか、さっぱり分かりません。だいたいこういうのは、消息通の人がブログに書いてるのが、検索下位をしつこく探してると見つかるくらいが関の山なので、東研出版も、そのうち分かるかなと。

カイラス・ブックスは、この後二冊出ているようです。

私は自分がメインランド・チベットを旅行した年を忘れていて、どうもこの作者の人と行き違ったか、翌年かだったと思います。本書の終わり、トラック横転の後作者がシガツェとラサに辿り着いた時、なぜかゴルムドルートが開いて、やたらめったらバックパッカーがラサに押し寄せてきていて、開いたからとりあえず来たみたいな連中に、例の通天河を死の覚悟やらなんやらで本気でチベットに行きたい旅行者だけがトライしまくったのがほんの二、三ヶ月前で、そのひとりとして、当惑したような描写があり、私がその時だったら、やっぱりそう思われていたと思います。私はゾルゲとかラプランとか回った後で、玉樹がまだ開いてないころだったので、素直に西寧に行って、そっからゴルムド経由で来て、来たらショトゥン祭とかやっていて、世界・ふしぎ発見のロケ隊もいた(あとで放送を見て知った)くらいなので、同年だとしたら確実に入れ違いだったと思います。同じバスだったか覚えてませんが、三十代の博報堂だかなんかを長期休暇でラサまで来た社会人の人が、高度順化出来なくて、日本の彼女にも会いたいから帰ると言ってポンと成都行きの航空券手配して帰ったのを今でも覚えています。本書の状況と、ちがいますよね。

また、私はシガツェの宿も食堂も、バックパッカー御用達だった記憶がまるでなく、フカフカの布団だったのですが、前夜泊ったラマ僧南京虫を置いてったので、それに咬まれて悩まされた思い出だけしかないです。本書には一ヶ所も、南京虫出ませんよね。なぜだろう。シビアすぎて、感覚を失ったのか。

たしか、帰国後新聞社に就職して、チベット関連のNPOを立ち上げた人が、現地のサムイェは左のような伽藍だったのですが、地球の歩き方の写真が、この上の層の伽藍がないものだったので、数年で修復が進捗した証左だと言ってたのを覚えてます。私は、ガイドブックと目の前の風景で、相違点があるという発想がまずなかったので、驚きました。まあやっぱり破壊されて、その後再生なんですね、だいたい。大隅さんの旅行時の1992年はここまで伽藍があったが、その前なかったというと、何年版の地球の歩き方を見ればよいのか。ダイヤモンド社ならバックナンバーコンプリートしてるんでしょうか、版元でも散逸してる気がしないでもないです。

同行のマリアという女性の写真や、コンガ空港で、私の京都時代の知人に非常によく似た顔の邦人旅行者や白人女性三人が並んでねそべった写真を、貼りたくてしょうがありませんが、やめます。マリアという女性は、ドレッドには見えません。香港で、アクセの屋台で金を稼いで旅行してるそうで、日本でアクセ売ってたイスラエル人たちはタイのヤワラーで仕入れたものを売ってたわけですが、彼女は香港で買ったものを香港人にボッタ価格で売り付けてたそうで、それが出来るキャラだった、以上、みたいな人のようです。頁115によると、開いてないころのラサにもぐりこんだバックパッカーは、女性の比率がとても高かったそうです。白人か日本人、ときどき香港人。開いた後は、広東人や台湾人も出ます。まだ韓国人は、国交正常化がまだだったのか、いません。チベットに憧れる白人というと、それなりで、処方箋薬過剰摂取のドイツ人女性(マリアとは別人)も出ます。黒人は、私は後年、おそらく北京あたりのアメリカ人留学生をひとり、ラプランで見てますが、くせっ毛が面白いのか、なんのためらいもなく周囲の巡礼者たちが触ってくるので、北京とはまた違った黒人待遇に、それはそれでうんざりしてる感じでした。欧米以外の白人旅行者は、私はイスタンブールでひとりブラジル人に会っただけで、ゴーン一族みたいな、多国籍っぽい人で、なんかあまり楽しい会話をしなかったです。

作者はこの時ネパールからラサ入りしてるのですが、1989年に川藏公路で公安にとっつかまっておいかえされていて、1992年は二度目のトライです。柔道有段者。私はカトマンドゥに日本の味噌があるのは海外青年協力隊の成果と聞いてたのですが、頁12によると、アルジュンというネパール人実業家が山形で日本味噌の製法を学んで帰国していろいろやってるうちのひとつなんだとか。カトマンドゥではネパール人と結婚した邦人女性たちがベビーカーを押してママ友会をやってるのを見ましたが、まだマトマンドゥの邦人社会を書いた本を読んだことはありません。

頁34に、回族レストランの〈碗子〉、氷砂糖を入れたフタつきの容器のお茶が出て、なつかしーと思いました。その後、八寶茶とか、そういう気取った名前で内地でも売られるようになって、現在はどうなってるのか。〈碗子〉に気を取られて、防衛省の向かいのチベットレストランで飲めるバター茶や、チャンガーモォと呼ばれるチャイの記述がどこにあったか注意出来なかったです。作者はワンズはそのまま書いてますが、フライドヌードルを、チョウメンと、ネパールふうに書いていて、青海回族やサラール族なら、ガンバンじゃないのかなあと思いました。ウイグルのラグマンも出ますが、ラグマンという名称は書いてなくて、ウイグルふうのチョウメンみたいに書いてた気瓦斯。

頁123に、〈七六一〉という、西藏自治区だけでよくお目にかかる、人民解放軍カロリーメイトみたいな食品が出てきて、これも、なつかしー、でした。作者はこれを、「圧縮ビスケット」と書いてます。カロリーメイトとは書いてない。これはなぜか、青海や甘粛には売ってないんですね。メインランド・チベットのみ。

頁173に、中国から日本までの葉書は1.6元とあり、これも、なつかしー、なつかしー、でした。家の絵の切手。ンガリというかアリの、ポストのあるシャオマイブーで切手を買うとき、店のアーイーが、国内は0.2元、国外は0.4元と言い張って譲らず、その言い値で切手買って貼って出したら、ちゃんと日本に届いたという… こういうところが、中国の行政の、しっかりしたところ。私はネパールで出したエハガキが一枚も日本に届かなかった思い出があり、目の前でスタンプ押してもらわないと、あとではがしてまた再利用されると聞いていたのですが、何度言ってもスタンプ押してくれず、そのまま投函しろと言い合いになって、結局負けて、ハガキも届きませんでした。国境越えるとそういう世界。今だと、コダリーダムルートでない、新しい国境ルートを通過した中国人がグーグルマップのコメント欄に、牛肉麺を食べてナントカペイでスマホ決済支払いして、中国に帰国したことを実感した、なんて書いてたりします。

頁179、「今度来るときは、150万円貯めてランクル借り切って来るぞ」と心に誓ったそうですが、実現出来たのでしょうか。私の知人の僧侶も、仏教遺跡専門の、お坊さんだけの中国ツアーにときどき参加しており、本書にもそのガイドの人と現地ホテルで夜、飲みながら語り合う場面があり、お坊さんとして暮らす生活になった後、どうされたのか、ちょっと気になります。中国の仏教関連の旧跡には、人民解放軍基地内にあったりするものもあり、それを仏教関連のコネで、入ったりするそうなので、それはそれで得難い経験のような、でも比較対象がないので、苦労知らずだと、さよけ、でおしまい、何の余韻もないのかもしれず…(知り合いの僧侶はそうです)

本書で大隅さんは二回、六本指の人間に遭遇していて、旅のバディのマリアも三回遭遇してるんだそうです。私もゴルムドで会ってます。回族でしたが。なんでか大隅さんはふしぎに思ってますが、私はゴルムドだったので、ニヤからは遠いけど、ツァイダム盆地でも核実験したんじゃないくらいに考えてました。偏見かな。

中尼公路の峠。私はこれ見た覚えがないです。

頁262、アリーカシュガルの、国境紛争地帯アクサイチン(中国が実効支配)を通る道や、川藏公路には、トラックが行き違い出来ない箇所があって、日ごとに、のぼりとくだりを分けて通行してるんだとか。そういう理由でトラックが出発しない話は初めて聞きました。いろんなことがあるもんだなあと。たぶん今のGDP世界二位の中国にはそういう公路はないと思います。

頁271、新疆の物資をチベットに運んで商売してるウイグル人が、自分のことを「トルキスタン人」と呼んでいたという箇所は興味深かったです。「新疆」という呼び名を嫌うのは分かるのですが、ウイグルとも呼ばれたくないんだそうで、ウズベクとか、ほかの民族だったのかもしれない、あるいはダブルだったとか、と思いました。先日の参院選自民党から出て落選した女性は、ウイグルウズベクのダブルでしたか。つるこ教は、なんでこういう人を当選させてあげなかったのかなあ。後半には、ダラムサラから密入国して、亡命志願者を集めて、徒歩で山越えしてネパールに送るタスクの人が出ます。ウソのようなホントの話なんだろうなと。

頁275には、ビニル袋を食べる野良犬の場面があり、腸閉塞にならないか、将来的にどうなるのか案ずる場面があります。これは、犬より羊の害が深刻に報告されるようになったかと。

草笛も可能な高原の花。

チョモランマベースキャンプ行きでは、日本の登山隊から、バックパッカーはおねだりで人の善意に頼って来るから、あかんで、ジブン。ちゃんとおぜぜを当局に収めて、準備に苦労していろいろもってきてる我々にたかるバックパッカーおことわりだッ、的扱いの場面があり、そりゃそうだと思いました。その登山隊は犠牲者も出してます。

トラック横転で大隅さん尾骶骨損傷が終盤の山場なのですが、この事故で、いっしょに乗っていたチベット人の老婆が片足が足首からとれてしまい、しかし本人はうめき声ひとつもらさず、周りが気が付いて必死に止血したり抗生物質を飲ませたりして、病院に送ったはずが、その後のゆくえがようとしてしれないくだりが、いちばん印象的でした。その街のいちばん大きい病院を、ふたつみっつの街で尋ねるのですが、いずれも探し出せず。そのトラックに乗っていた連中はいずれもひとくせあって、とても手放しでうちとけられるようなキャラではなくて、その中に、ただひとり善人だったのがその老婆なので、どうしていい人がこういう目にあうのかなあと、チベットなだけに、いっそう理不尽さを感じました。以上