『朗読者』"Der Vorleser" by Bernhard Schlink 松永美穂訳(新潮文庫)Shinchosha 読了

原書は1995年刊。2000年清朝クレストブック。2003年新潮文庫。読んだのは2006年の十刷。

カバー彫像/撮影 三谷龍二 デザイン 新潮社装幀室 巻末に訳者あとがきと文庫版訳者あとがき。

訳者サンのエッセー集*1に出て来る作家サンの小説を読もうと考え、まずこれを読みました。さほど厚みのない本なので、簡単にサクッと読むつもりでしたが、アンソニーホロヴィッツカササギ殺人事件』*2のように、なぜここでこんな転調するねんという小説でしたので、おおいにデイズドアンドコンフューズドしました。

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年上の女性(と書いて「ひと」と読む)と過ごした少年のひと夏のサマー、みたいな話だろうと思ってバンバン読み進み、はたして疲れを知らぬ少年の飽くなきボッキ力の場面などもありますので、ムスカ大佐の「何度でも蘇るさ!」って、年を取るとピンと来なくなることばだよなあ、なんて思いながら読みました。したっけ、こんな転調があるとは。

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江國香織池澤夏樹の両氏も大感動、大絶賛!!

沖縄に愛人が絶賛するのは別の理由だと思いましたが、私もこの小説の、積み重ねるエピソードのクオリティというか、個々のカラーリングや趣味に、江國香織的なものを感じていたので、前者は納得です。

訳者あとがきによると、ジョージ・スタイナーという人*3は、本書を二度読むように勧めているそうで、確かに、ベルトで顔面をひっぱたかれて血が噴き出す場面など、オチまで読んでからもう一度読むと、まったく違った意味合いが眼前に広がりました。

同じく訳者あとがきによると、原題の"Der Vorleser"は男性単数形なので、『朗読する男』になるわけだが、先行する英訳版タイトルが"The Reader"で、編集部の提案もあり、邦題も『朗読者』になったとか。漢訳も《朗读者》langduzhe。ハングル訳は「낭독자」(ナンドジャ)ではなく「더 리더」(ザ・リーダー)でした。

Der Vorleser – Wikipedia

だいたいこういう年上女性に手ほどきを受けた人は、シャレにならないナンパの達人になったりする気がしますが(そういう要素があるからまず年上にツバつけられるのかもしれませんが)池澤夏樹が感動するとすれば、そこしかないかなと。

下記は大学入学後、ゾフィーというハイスクールの同級生だった病み上がりの女性をこます場面。

頁105

(略)彼女は孤独で、昔の友だちとの再会を求めていたので、ぼくは難なく彼女の心に入り込むことができた。しかしベッドを共にしたあと、彼女はぼくがほんとうは彼女を求めていないことに気づき、涙ながらに言ったものだ。

「あなたはどうなってしまったの?」

訳者のひともエッセーを読むと年下の男子(学生)にMMKで、テニスもジョギングもあと何か忘れた(ダンス?)も年下の男子学生から手ほどきを受けているので、いちゃつく場面を読むたび、こういうのを訳す度量ってのもあるんだよなあ、と思いながら読み進みましたが、主人公がスキーで知り合った女子学生と学生出来ちゃった結婚をし、ともに学生の身分で家庭を築き始める場面になると、これも訳者サンの家庭と同じやん! と驚きました(訳者さんは出来婚ではなかったはずですが)

頁197

 ユリアが五歳のとき、ぼくたちは離婚した。もう耐えられなかった。(略)ぼくとゲルトルートが互いに信頼の気持ちを抱いて親しくしているときには、ユリアはまるで水のなかの魚のように生き生きし、本領を発揮していた。ぼくたちのあいだの緊張関係に気づくと、ユリアはぼくとゲルトルートのあいだを行ったり来たりして、おとうさんもおかあさんもいい人よ、大好きよ、と言うのだった。ユリアは弟をほしがっていたし、弟妹ができればきっと喜んだだろう。ユリアは長いあいだ、離婚の意味が分からず、ぼくが訪ねていくとずっといて欲しがったし、僕を訪ねてくるときにはゲルトルートを同伴することを望んだ。彼女たちの家を辞し、窓から見送るユリアの悲しそうなまなざしを感じながら車に乗り込むとき、僕の胸は張り裂けそうだった。ぼくたちがユリアから取り去ってしまった暖かい家庭、それは単に彼女の願いであっただけではなく、彼女の当然の権利でもあったのに、と思った。ぼくたちは、離婚することで彼女からその権利を奪い取ってしまった。そして、ぼくたち二人でそれをしたからと言って、罪が半分になるわけではなかった。

こう書いておいて、この後その後の女性遍歴の回想が続きます。太い物語だ。アメリカ人のヘレンとか、ゲジーナとか、ヒルケとかを相手に、失敗を取り返そうと、もがく。

この物語の相手女性はハンナといい、十五歳の夏を、ぼくは忘れないみたいな小説の前半戦では三十代前半みたいだと語られますので、母親みたいな年の女性との恋愛というト書きは、ややオーバーかなと思ったのですが、頁112、法廷で43歳と明かされます。彼女は、おそらく教育の機会がなかっただけの非識字者で、難読症ではないように思われましたが、そこは深掘りされず、また、学習の機会がなかったとすれば、それは何故か、どういう家庭環境だったのか、なども語られません。

主人公は後年、逡巡した末に、やっと、二人だけ生き残った母娘の娘さん、高齢になった娘さんに会いに、ボストンからニューヨークまで、秋、鉄道で旅します。

頁241

「(略)ご結婚されたことはあるの?」

 ぼくはうなずいた。

「そして結婚生活は短く不幸で、あなたはもう再婚もせず、もし子どもがいるとしたら、いまは寄宿舎に入っているというわけね」

ホロコーストを生き抜くと、千里眼になるのかと思いました。自己憐憫を、バッサリ、峯打ちじゃ、安心せい、みたく斬られる。

私は前半戦の序盤の序盤で主人公が黄疸で病弱だったので、それで年上女性に遊ばれるなんて、津山三十人殺し、こらえてつかあさいの山岸涼子のマンガみたいになるのじゃいかと予見したのですが、全然ハズれました。

文庫版は、クレストブック後に指摘のあった部分のうち、いくつかの訳を直しているそうで、それとは別に、本書がドイツで教科書に載るようなベストセラーになりながら、いや、だからこそとでもいうべきか、加害者としてのドイツ人を断固糾弾すべきというポリティカル・コレクトネスに反しているという批判の声があることも紹介しています。

頁255 文庫版訳者あとがき

(略)ただ、この作品からは、自らは戦争の記憶がないまま、ナチ時代の過ちを徹底的に批判する歴史教育を受け、ドイツの過去を負の遺産として背負わされ、他の国に旅行するたびにドイツ人であることに引け目を感じざるを得なかった、シュリンクたちの世代ーーそれは後にさまざまな旧い権威に対して反旗を翻し、学生運動の中心となっていく、いわゆる「六八年世代」でもあるーーのとまどいが率直に伝わってくることも確かである。(後略)

クレスト版訳者あとがきでは、本書の裁判と同定される、西ドイツで1963年12月から65年8月にかけて開かれた、かつての収容所の看守たちを裁いた裁判を紹介しています。ニュルンベルク裁判では連合国がドイツを裁きましたが、この裁判で初めて、ドイツ人がドイツ人を裁いたとか。かつての看守たちは異口同音に、仕事だった、義務だった、ホロコーストの実態について自分は無知だったと述べ、何とか罪になろうとしないようならないようにしようとあがいたとか。

ハンナという年上の女性(ひと)が、ここで積極的に事実は事実と認め、事実でないことには、ある一点を除いて、肯ぜずの態度をとりながらも、ほかの被告から主犯格に祭り上げられてゆく展開は、フィクションとして現実との対比が際立つとともに、彼女のもつ、ひとつのあきらめ、とつぜんなにもかもを投げてしまう性癖、が現れているようにも思います。職をなげうって放浪に出ることも再三、服役中も途中で百八十度生活習慣が変わってしまったことが、所長からの報告で主人公にも読者にも理解される。

シーメンスでなくジーメンスと独語音で書かれるこのコングロマリットは、非常に幅広いので、私も以前の職場の同僚で、かつては優秀なSEだったのが、バンコク狂いの末、ファイルの最終更新日時を随意の過去に書き換えるソフトを自分のパソウコンにDLして過去の日付でパワポ資料などをあげたりとか、そういう業界の裏技小技ばっかの人になって派遣人生となった人が、一回り年下のタイ人と結婚したので安定の正社員の仕事探して、ドイツ系のシーメンスに就職決まったんです、と言ってきたのを思い出します。有名な会社ですが、知らないでしょうねみたいに言われたので、補聴器売るんですかと言ったら、プイとどっかに行ってしまいました。

また、中国にいたころ、どっかのダム工事がシーメンスとの合弁だったみたいで、ドイツから来た技術者の奥さんが日本人で、ドイツのガストアルバイター、外国人向けの語学訓練や職業訓練はほんとにいたれりつくせりで、自分はその恩恵を十二分に受けたが、人に話すと嫉妬されたりネオナチにかぎつけられたりするので、あまりペラペラしゃべるなと主人に言われているの、と言ってました。北京語習って、ドイツで時たま使ったりしてるのかなあ。ドイツの中国人はどんなかしら。ドイツでも、まっさじいかがですかとか、食べ放題の台湾料理屋開いたりとか、してるのかどうか。

かつての年上の恋人(と書いて「ひと」と読む)が老人になって、セックルの時の汗のにおいが老人の加齢臭となり、その人と老後二人暮らしをする。というような結末予想は、朗読の場面から容易にすることが出来ました。それを大幅に裏切って、かつ結末を納得させる荒々しい力を持ったこの小説を読むこと出来て、幸せでした。よかったです。

朗読者 - Wikipedia

愛を読むひと - Wikipedia

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以上