『李明博自伝』『신화는 없다』"THERE IS NO SUCH THING AS MYTH -A PERSONAL MEMOIR"(新潮文庫)読了

カバー写真 提供 青瓦台(撮影 金容暐)デザイン 新潮社装幀室

一部分だけ写してしまうとどこの国旗かと思うですが、

https://m.media-amazon.com/images/I/410M0YlPLJL._SX298_BO1,204,203,200_.jpgちゃんと見れば太極旗デスヨという。図書館リサイクル放出品の再利用図書、除籍済をピックアップして読みました。これも放出するのか。

今の大統領がユンソギョル、細かいつなぎのピンチヒッターを除くと、その前がムンジェイン、その前がパククネ、その前がこの人。その前がノムヒョンでその前がキムテジュンその前がキムヨンサムその前がノテウ、チョンドゥファン(ぜんとかん)パクチョンヒ(ぼくせいき)イスンマン(りしょうばん)訳者平井久志サンによる解説は、ソウル市長時代卓抜した手腕により成し遂げた業績の数々、大統領になるやいなや一転してあっという間の支持率低下、という韓国あるあるを取り上げており、そこまでの時点で邦訳出版されたことが分かります。

신화는 없다 - 위키백과, 우리 모두의 백과사전

ハングル版のウィキペディアには60万部のベストセラーとあり、韓国のベストセラーそれくらいなのかしらとも思いました。カザフスタンでカザフ語に訳されているとあり、邦訳やその他の言語の訳出に関する記述はありません。

신화는 없다 - YES24

http://image.yes24.com/momo/TopCate45/MidCate06/4455576.jpgハングル版の表紙は、政界に転身する前の現代グループの中核経営者時代の写真なのかなあと思ってみたり(実際は知りません)本書は、現代グループ同族経営のオーナー一族から追い出されるまでの本で、政界転出時点、まだその博打がどう出るか分からなかった頃に書かれた本です。原題の「神話はない」は、銀英伝の「神話が終わり、歴史(現実)が始まる」を読んだわけでもないでしょうが、自身の出世も、ヒュンデの成長も、ハンガンの奇跡も、すべては「負けに不思議の負けなし、勝ちに不思議の勝ちあり」©野村克也逆張りで、どれも当然の帰結なのだよウェーハッハ、という本です。

たしかこの頃、『일본은 없다』(日本はなかった)という克日主観のベストセラーが江湖を賑わしており、それを意識した題かなと思ったのですが、私がイルボヌンオプタを聞いたのは1996年くらいのはずで、本書は1995年刊なので、こっちが先かなと思います。さらにいうと、イルボヌンオプタは検索すると2002年刊、2007年から盗作裁判があって敗訴したとか。私が1996年にソウルの本屋で見た本はなんだったのか。『일본은 있다』(日本はあった)という本も出てるよと、見せてもらった記憶があるのですが、パラレルワールドだったのかなあ。

ja.wikipedia.org

話を戻すと、この人は大阪生まれで五歳まで大阪にいた点が本書あらすじなどで強調されてますが、学生時代恋人に連れていかれたソウルの日式すき焼き屋で食べ方を知らず、生卵を丸飲みしたエピソード(頁334)などがあるので、あんまし日本生まれ日本育ち関係ないかなという気もします。あまりに幼少期に出奔帰国してますので、オーサカで身に付けた文化は正味な話そんなにないんちゃうかという。赤貧イモを洗うが如しの幼年時代を経て、大学では苦学しながら学生運動の指導者としても頭角を表してしまい、ために就職出来ず、妨害やめてと朴正熙大統領に直訴して現代グループに就職出来、会長の覚えもめでたく三十代でグループ中核の社長になるまでに出世、その間のあるなしごとをつらつら描いたのが本書です。

権奇泰(クォン・キテ)という人の名前が印象に残りました。頁165など。李明博サンも兄弟姉妹と一字を共有しておらず、なんかそういう時代だったのかなと思いました。日帝からユギオまで。栗山建設という会社のルビがユルサン建設で、ここも印象に残りました。頁185。

頁239

 教訓とは成功からではなく失敗から学ぶもの。(略)失敗を忘却する人はまた失敗する。

この言葉を捧げたい人がなんぼでも職場にいるのですが、残念なことに、それらの人たちは、そろって韓国嫌い揃いです(でもお互いに仲もよくない)

英題は上の奥付から。元大統領のご尊名も、「自伝」もルビつき。

訳者の名前もルビつき。
韓国の建設業が中東出稼ぎで伸びたことは知識として知っていますが(その前はベトナム戦争特需)具体的に、バース党イラク親北朝鮮であったところに、サウジが頭打ちだったのでなんとしてでもで現代が食い込んだ話などは、へーでした(その後イランイラク戦争ですべてストップ)頁291には、金賢姫大韓航空機撃墜事件で、イラクで出稼ぎにいそしむ同機搭乗の現代労働者六十余名が、ビルマ上空でその命を散らせた旨が書いてあります。

マハティールのマレーシアにも食い込んでいたそうで、頁276に、マハティールのルックイースト政策のイーストとは韓国のことだと明記する箇所があります。そう書きつつ、現代関係者も参加した現地式典で、マハティールがマレー語で、韓国はドロボウなので、いつか自国産業が成長したあかつきには、追い出さんければならんと演説したのに出っくわして、食えないとしたりしてます。

現代は日本企業では丸紅とバチバチにやりあってたそうで、日本のゼネコンって、この頃は海外では商社の後ろについてたんかなと思いました。仲のいい日本企業は日商岩井で、ゴルビーエリツィンの対立が先鋭化した時期のソ連進出では、タッグを組んでいます。

頁310、職場の適性や上司の性格は変えられないが、自分の適性は変えることが出来るという箇所は、「他人は変えられない、自分は変えられる」だと思いました。他人に合わせてしょうむない方向に変えるだけでは元の木阿弥ですので、日々の棚卸が大切かと。

頁315に、土曜日の半ドン出勤の際は私服出勤の慣例があったが、土曜でもスーツ出勤に変えさせた箇所があり、私服だと気が緩んで、アフターファイブのことしか考えられなくなるので仕事の集中力が低下してミスが起こりやすいからとしています。米国の自動車工業で不良品が多いのは金曜日のラインで、みんな週末で浮かれるからだとか(日本の自動車産業ではそういうことはないと書いてます)

この人は三十代の社長時代B型肝炎に感染したそうで、それで非常に疲れやすくなり、よくそんなんで大統領まで行ったなと思いましたが、1977年に発症した病が、1990年には肝炎ウイルスが消えてしまったそうで、数万人にひとりの自然治癒例に該当したとしか考えられないんだそうで、もってるんだろうなと思いました。最初の確認がそもそも誤診なのではといっしゅん思いましたが、ソウル大学病院の肝疾患治療最高権威金丁龍博士が慢性肝炎と診断したそうなので、そんなこと本人に言おうもんなら、韓国の診断は信用出来ないというでも言うのか、韓国だからか、だいたいチミは年長者への敬意がないやないかと、真っ赤になって怒るかもしれません。が、それは杞憂で、怒らないかもしれません。

頁320、肝炎に侵された時期には、会社を休んで長期休養が出来ないのなら、禁酒せよと指令を受けて、一滴も飲まない「酒との戦争」をやってみようと決意したことが書いてあります。韓国なので酒席ではしつこく酒をすすめてきて、応じないとどうにもという状況ばかりで、そこで断りまくる困難に挑んだと。ビールを一口含んでも、冷水でうがいをして飲まないようにしつつ、相手にもそれをさとられぬようにしたんだそうです。真似は出来ないかな。口に含む時点で。

私はあまりビジネス書というか、成功のためのナントカという本を読まないので、多摩に読むと面白いです。特にほんとに成功した人の本は。大統領になった後は懲役十七年の判決だそうで、本書にも、部課長時代は上長(とそのヨメ含む)からのコネ就職斡旋依頼をぜんぶ断固断っておいて、社長時代に成績にゲタ履かせたりで現代グループに就職させた例を二例書いてますので、そのくらいにはふつうの人だったんだなと思いました。まあよろしくどうぞ。以上