『チベット女戦士アデ』(ADHE, The Tibetan Worrioress.) "The Voice that Remembers" by Adhe Tapontsang 読了

巻頭にテンズィン・ギャツォ、ダライ・ラマ猊下の序文が日英両文で掲載されています。私は勉強不足なのでよく分かりませんが、自称では14世とは名乗らないみたいで、ただたんにダライ・ラマ、"His Holiness the Dalai Lama" と名乗ってます。また、14世のみなは一般的にはテンン・ギャツォとカナが振られていますが、本書ではテンズィンです。"Tenzin"に忠実なカナ表記とも思いますし、原著執筆者と監訳者がそれぞれ、よく知られたラサふうの発音より、現地(カムなど)の発音を忠実にあらわしたとしてるので、それでテンズィンなのかもしれません。

オーノス・チョクトサンのチベット*1の参考文献にあった本で、どうかなあと思ってましたが、時期が来たような気がしたので読みました。女戦士とありますが、それは邦題だけで、もともとはオモニ的な意味合いでアデ・タポンツァンサンが「アマ・アデ」と西洋人から呼ばれていて、当初の英題はそれだったみたいです。

現在の原書は"The Voice that Remembers"(グーグル翻訳:「覚えている声」)が主タイトルになっているようで、ほかにもいろいろ宣伝文が入ってます。

One Woman's Historic Fight to Free Tibet
"A book that must be read." -AMNESTY INTERNATIONAL
FOREWORD BY THE DALAI LAMA

なんで「アマ・アデ」の題名でなくなったのかというと、例えば、漢語版ウィキペディアでは、彼女の名前をアデ・タポンツァンでなくアマ・アデとしていますが、そういったことが原因かなと。

zh.wikipedia.org

日本語版はないのですが、英語版ウィキペディアでは、アデ・タポンツァンサンと書いてます。

en.wikipedia.org

チベット文字でどう書くかは分かりません。

監訳者のペマ・ギャルポサンは、タポンツァン家の主筋にあたる家柄、ギャリツァン家の出だそうで、しかしペマサンはその姓、ギャリを名乗っていないので、初対面でいきなりペマサンはアデサンから不平を言われ、のみならず叱り飛ばされたとか。チベットは主従関係がはっきりした社会だが、それは家臣が主君にさかんに(愛情をもって)諫言し、制御することとは矛盾しない、むしろこの態度、関係性こそがチベットであるということだそうです。

チベット女戦士アデ (総合法令出版): 1999|書誌詳細|国立国会図書館サーチ

www.horei.com

そういう本です。タポンツァンサンはレジスタンスに、後方支援のかたちで関わっているのですが、まあやっぱりひどい目にあいます。事実から目をそむけるなといっても、こういうことって、情報過多の現在、とってもたくさん目にしてしまうと思うんですが、人間の感情にはリミットがあって、あんまし吸入されても溢れチャウ。ほどほどに読みたく。

この本と、以前読んだ、亡命チベット人作家が英語で書いた小説『白い鶴よ、翼を貸しておくれ』"white crane, lend me our wings."は舞台が同じ、カムのニャロンというところです。本書にあるような現実と、作家が訪れた自治区ほかの現状が、作家に夢想の雲表の国を書かせたのではないかと思いました。

stantsiya-iriya.hatenablog.com

小説では半永久的に抵抗が続きますが、この本では、頁116と頁120で繰り返し語られる通り、地域の男たちのほとんどが死んだとあります。物量差と、偵察機による上空からの居場所発見で、カムの森林地帯を転戦する遊牧民たちのゲリラ戦法もほぼ封じられ、しかしカムパは戦うか死ぬかしかしないので、傷ついて死んでいったとか。

アデ・タポンツァン=著 ジョイ・ブレイクスリー=彼女の後述を英文執筆した共著者 ペマ・ギャルポ=監訳 小山晶子=訳 装丁/サイコ・オカダ 地図作成/天野直美 第一部、第四部扉写真提供/WWP 第二部、第三部写真提供/チベット文化研究所、©K.THONDUP

なぜか本書のセンテンスの区切りは、十字架です。装丁の人が考えたことですが、なんでだろう。

頁171、ラオガイでトイレに行きたくなった囚人は、"报告解小!"と叫んで看守の了を待たねばならないそうで、この漢文の意味が分かりませんでした。頁205の、食事の前に必ず歌わされるという《赏识李傅》という歌も検索で何も出ず。このページと、頁162がレイプの記載のある個所です。頁162のほうには、《张肃对》という音訳名の党官吏名も載っていて、彼は国民党の末端でありながら共産党で出世し、さらにはチベット語も堪能だったそうで、そういう人間がそういうことをするんだなと思いました。頁205もそうですが、掃除洗濯といった個人的な用を言いつけるんだとか。ただ、ワックの本のウイグルのように、収監されたウイグル男性の残された家族にいちいち漢族男性を同衾させるといった、労働改造所でなく民間で広範に行なわれる所業が21世紀ですので、こういったことは際限なく気持ち悪い方向に行くと思うだけでした。チベットウイグルで、加速するスピードがちがう。

だいたい中国人の名前は、なぜか漢字が当て字でつけられてるのですが、頁287で、釈放の際に、中であったことは一切口外無用と警告する長官の名前だけカタカナです。ワ・ダ・ドゥイの長官、ツ・スジェ。

頁301

「帰ってきたら、カンゼ地区に組織される特別政治協商会議にお前を任命しよう。精選された委員会だ」

上は、アデサンのネパール行きに際して、党や政府側が最後にかけた甘い言葉。そのまんま中国語、それも私も含めた中国語に堪能でないものにかける時の簡単な中国語の原文が目に見えるようで、しかし原文は英語のハズなので、ふしぎなものだと思いました。

頁289、十七27年でしたか、長いラオガイからの釈放後、カンゼガンゼに戻った時の記述で、故郷の切符や掲示板がすべて漢語で、購入他すべて漢語でやりとりしなければいけないのだが、チベット人はほとんど漢語が話せず、漢族はだいたいチベット語を覚えようとしなかったので、大変だったとあります。ここを読んで、ふつうに草原の公路を行くバスで、運転手が漢族で、藏汉半々くらいの乗客の時、チベット人のおじいさんの、"停车!我下車!"というひとことの〈车〉"che"がヘタクソだったらしく、半分の乗客がどっと笑い、私も、緊張すると特にですが、〈车〉"che"なんて基本中の基本単語の発音がドヘタになったりするので、とっても身につまされたことを思い出しました。

まえがきで英文を書いた米国人共著者も、監訳者あとがきを書いたペマサンも、発音に対してはいろいろと釈明していて、それは全然こだわらないのですが、やっぱり面白いところは書いてしまうです。後述する「朱得」とか。

チベット語に関して。頁39、五体投地礼をチャツェと書いてます。そういうんですね。「もしもし」にあたるチベット語は「アロー」ではなかったですが、私はさかんにアムドで「アロー」「アロー」と言ってるのを聞いていた気がしてたので、記憶が混乱してましたが、頁157に、カムでも呼びかけのことばで「アロー」と言うとあり、記憶の整合性がとれました。

ペマサンは、『ワイルド・スワン』と本書を比較しており、チベット人もアピールしない民族ではないのですが、なぜこうも濃淡が分かれるのかについて、ブレイクスリーサンが言ってる下記が、しっくりくるように思います。

頁6

(略)外国人がよく感じるように、チベット人は自分たちの人生について、劇的な表現や悲劇的な表現を使うことを好みません。これは、恐らく個人的な不幸をくどくどと話すことには、チベット社会に浸透している仏教の考え方からすれば望ましくない特性の、自己中心性が含まれているせいだと思われます。

下記は頁266。

頁263、ミニャク・ランガ・ガン地区のシャ・ジェラという聖山の麓の小さな湖の湖底に、1975年の夏、ゲルがはっきり見えるという現象があり、その像は中国人の双眼鏡からも確認出来、しかしそんなものは湖に沈んでないので、中国人たちがおびえだし、その後、ゲルは消えるのですが、あとから大きな蓮が生えてきて、近隣チベット人の信仰を集め、地元中国当局は湖を爆破したとか。そして、一年後の1976年、まず1月に周恩来死亡、7月に朱徳死亡(なぜかここは朱得と誤記してます)9月9日に毛沢東死亡。そののち一ヶ月以内に四人組が失脚し、唐山大地震発生。こう書かれると、このまま奇跡が続くと思うですが、そうならなかったのは誰もが知っていること。しかし。

もう一個、印象に残った不思議なエピソードを写します。

頁156

 チョムペル・ギャムツォには尋常でない問題があった。手錠をかけられると、手錠がひとりでに外れてしまうのだ。さらに暴力を受けることと、看守にわざとそれを外したのだろうと非難されるのを恐れて、もう一度手錠をかけようとしたができなかった。彼は衛兵に手錠をかけるように頼んだが、再び、手錠はすぐに外れてしまった。それ以来、彼には手錠をかけられなくなった。

私は上のような話をすぐ信じてしまうというか、あってもいいなと思ってるので、「絶対そんなことありっこないから」と強く言い始めるような人とは、あんまり話をしないですが、まあでもいいか。以上