『ヒゲのウヰスキー誕生す』 (新潮文庫)読了

ヒゲのウヰスキー誕生す (新潮文庫)

ヒゲのウヰスキー誕生す (新潮文庫)

サントリー創業者の伝記*1を読んで、マッサンが出てくるわけですが、
描写がそっけなかったので、竹鶴サイドからの伝記も読まないと、
自分の中でフラットにならないなと思ったので読んだ本です。
朝ドラだと夫妻のお子さんは養女でしたが、史実では養子した。ここは、
朝ドラのおまけコーナーかなんかで見たと思うのですが、
忘れてました。ニッカが当初の社名「大日本果汁」の略、
「日果」ということも知りませんでした。
商売人の鳥居はんの寿屋と異なり、ニッカはせつないまでに戦後も赤字で、
それが好転するのは営業担当重役の彌谷醇平が入ってから、
(銀行が送りこんだ)かたくなに廉価販売を拒んで赤字とか、あと、
この本では竹鶴も宣伝広告販促の重要性を寿屋時代知ってはいたが、
ニッカでは先立つものがなくて仕掛りが出来なかった、としてますが、
山崎工場長として、広告屋に一物あったのかも、と思いました。

頁76
 ウイスキーが英国人の酒として定着するのは一八八〇年代といってよいだろう。七〇年代後半、フランスの葡萄園にフィロキセラ病虫害が蔓延し、葡萄酒、ブランディの輸入が難しくなったためだ。ウイスキーは全英に広まるとともに、アメリカ合衆国及び英自治領にももたらされた。そして、またたく間に世界に広まっていったのである。

知りませんでした。
風が吹けば桶屋が儲かるみたいな話と思いました。

カバーデザイン:新潮社装幀室 解説:高田宏

解説
私は、彼が大酒人であったことに安心する。もしも酒の飲めない人、酒を飲まない人が、技術だけでウイスキーをつくりだしていたら、寒々と心が冷える。

毎晩独酌でボトル一本、八十路になって三日に二本に落としたとか。
長生きも出来ましたし、うらやましい酒飲みだと思います。
赤字経営を続けながら正気を保てた時点で、常人とは違うのでしょうが。

朝ドラで、晩年のリタあまり観てないので、違いが分かりませんが。

頁301
 かつて乗馬、テニス、スキー、散歩、と戸外生活を好んだリタも、健康を損ねてからは家に閉じ籠ることが多くなった。若い頃からの読書好きは相変わらずだったが、丸善から取り寄せる本は今では探偵小説が大部分になっていた。時に、ビールの入ったコップを片手に嫁を呼び寄せ、延々ととりとめのないおしゃべりを続けた。また時には、庭の花々を眺めてひとり長い物想いにふけった。

六十四歳でなくなったそうで、死因は肝硬変だったとか。
来日二年目から自身で漬物をつけ、北海道では塩辛も得意で、
(繊維を切る横切りをするので食べやすかったとか)
塩を振る量をけちらなかったそうですが。
親族には反対する者もいて、来日すぐ日本に帰化して竹鶴リタとして生き、
帰化に関する法律が戦後とは違うのかなと思いました)
時間と料理にやかましく、英語を話さずとも平然とカタコト日本語を駆使。
頁325によると、彼女の出身地は、スコットランドでもっとも遅く(1968年)まで、
酒の販売を禁じていたドライタウンだったそうです。

頁15で、英語が得意なはずのマッサンの英語を、当時会ったスコットランドの老女が、
中国式英語ピジョン・イングリッシュと評していて、
まあ鳩のエイゴなわけはなくピジンの誤記でしょうが、
そういう英語の夫と長年連れ添ったネイティヴ妻、というのも、
個人的に感慨深く思いました。舌ったらずのハズを持つワイフの気持ち。
以上