『鶴川日記』読了

鶴川日記 (PHP文芸文庫)

鶴川日記 (PHP文芸文庫)

鶴川日記

鶴川日記

鶴川日記 (1979年)

鶴川日記 (1979年)

文化出版局のとPHP出版のとを比較して、
「再編集」とはどこをどうしたのか、それを確認したうえで、
よい方を読もうと思ったのですが、
目次を並べてみたり、ぱらぱらめくってみたりして、
違いが確認出来なかったので、古い方は装幀とか大事にせなあかんし、と思い、
新しいPHPのほう(ハードカバー)を読みました。
故人の本で、ご家族が絡んでの再版なので、内容異同があるかと考えたのですが、
ぱらぱらめくっただけじゃ分からないですよね。ないかもしれないし。

で、すいません、今夜は時間切れで、これも後で内容詳述します。ではでは
【後報】

頁24
 飛行機の編隊は、富士山を目あてに回って来るので、いつも鶴川の上空を通る。新聞には勝った話ばかり出ていたが、その編隊が次第に数を増し、空襲がひんぱんになるにつれて、負け色が濃くなって行くのは目に見えていた。幸いなことに、鶴川村にはほとんど被害はなく、ほんとうの空襲の怖ろしさも知らずに終わったが、最後のころの艦載機の爆撃はすさまじかった。例によって空襲警報が出たので、何となく空を見あげていると、突然東の山すれすれに、多くの戦闘機が現われた。所沢から日本軍に追われて、互いに機関銃を撃ち合っていたのである。逃げる時は低いところを飛ぶものらしく、目にもとまらぬ早さで谷間を右往左往する。アメリカ人の操縦士の顔がま近に見え、はげしい爆音が家をゆるがせた。

頁25
 その時の戦闘で、来栖大使の令息が戦死された。私どもは親しくしていたので、その報告をうけた時は悲しかった。彼はアメリカ人との混血児で、稀にみる美男である上、心の優しい青年であった。混血児であることは、当時の陸軍ではずい分辛いことであり、そのために人一倍勇敢にふるまったのであろう。その心情を察すると、いまだに哀れに思われてならない。

今世紀初頭、ネット上を舞台に、従来のサヨク史観の見直しが始まった頃、
関東出身者なら皆知っている上記の事柄まで、
当時日本近海に遊弋していた空母はいない=艦載機の本土飛来と機銃掃射は左翼の捏造、
という話になって、空いた口がふさがらなかったものです。
勿論現在は、サイパンから戦闘機の援護なしで高高空飛行空爆するB29の損害が無視出来ず、
戦闘機の航続距離圏内の硫黄島を獲って飛行場を建設してP51とか飛ばした。
P47もいたかもしれないが、当時の日本人はなんでもかんでもグラマンと呼んでいたので、
グラマン=艦載機、で、上記のようなおかしな否定論につながった、という事実が、
ちゃんと共有されている、はずです。それを思い出しました。
(西日本の場合の、中国大陸からのB29と戦闘機の襲来については、
 逆に私は知らないです)

頁28、山窩の本拠は、丹沢山の奥にあるらしい
厚木市役所のなかの風景を思い出しました。
ほかの丹沢周辺の自治体役所内は行ったことないですが。
あと、言い伝えで聞いたことも思い出しましたが、まだ書けないかな。
狐の嫁入りの灯が山の動線に沿ってゆらゆら動いてゆくさまは、
自分の記憶であるかのように身体にしみています。

頁38の、秩父宮殿下が鶴川に見えられた時の話もよかったです。

頁45、河上徹太郎が柿生に住んでいたとは知りませんでした。
鶴川の隣の駅ですが、東京都町田市でなく、川崎市ですね。フロンターレ
柿生に特化したエッセー書いてないが検索しましたが、
庄野潤三の追悼しかいまのところヒットしてません。

頁76、赤プリが戦前朝鮮李王家の御殿であったとは知りませんでした。
だからプリンスの名を記念に残したのではないか、とは作者の推測。

頁86
「九段坂」の上には、靖国神社がある。明治のはじめまでは、このあたりも番町の一部で、神社が建つに当たって、富士見町と改名され、最近また新しく「九段」という町名に変わった。ただ便利だからというだけで、このように勝手に名前を変えるのは、土地にまつわる歴史を抹殺することで、政府の役人が、いかに歴史を大切にしていないか、想像がつくというものだ。奈良や京都では、こういうことは起らないと思うが、改名してはたして便利になったかどうか疑わしい。少なくとも、私たち東京の住人にとって、ややこしくなったことは事実である。

作者にとって、九段はあくまで坂の名前で、町名じゃなかったんでしょうね。
地下鉄の駅も九段下で、坂の名前であればより分かりやすいということかな。
私は、あたりに高いビルが増えて、大鳥居を坂下から見あげた時の威圧感がなくなったので、
それは残念です。景観問題だと思います。

頁99、乃木邸、自害した部屋の壁にその時の血痕がまざまざと残っていたとか。

頁128
 昔、青山二郎さんは、梅原さんの絵を「因業屋のビフテキ」にたとえた。いんごう屋といっても、今の人たちには通じないだろうが、無愛想な親爺が、そば屋の二階みたいな所でビフテキを出し、お醤油をぶっかけて、ごはんと食べるのが大衆の人気を呼んだ。大正の終りか昭和のはじめごろで、早く言えば完全に日本化した西洋料理である。明治以来、あらゆる分野で日本人は、西洋文化を身につけようとしたが、因業屋のビフテキほどにも成功した例は数えるほどしかない。

私の行くステーキハウスも、肉にタレとかつけないで出してきます。
で、テーブルには、塩(岩塩を擂る)と醤油、マスタード(粒とチューブ2種)、
コショウ、ニンニクなんかがあります。食べたくなりました。
献血後に食べることにしているので、猫に噛まれてから三ヶ月たってないので、
(一ヶ月経った時にまた噛んだ。バカ猫)まだおあずけです。
因業屋というのは、仏教思想と四足とかから来てると思うので、
もう今は無理な店名というか、ジャンル名だと思います。

頁155、芹沢硑介の写真集観たいな、と思いました。
アマゾンで検索すると、この人の名前は「芹沢〓@69FE介」になります。

静岡市立芹沢硑介美術館
http://www.seribi.jp/index.html

美術館の図録に、この本に出てくる青いマリア像のイコンがあるかどうか。
ブリキに描いてあるそうです。メキシコか、フィリピンのものだろう、とか。

頁170
食べものの味に鈍感な人に、焼きものの味がわかるはずはない。お酒が吞めぬ人に、酒器がわからないのと一般である。

この吞めぬというのは、アルコール分解酵素がない人なのか、
肝臓壊した人なのか、それとも…


飲めるから分かる、というものでもないことは、確かだと思います。以上
(2014/11/19)