藤本和子サン『砂漠の教室』*1にイェホシュアサンの小説が紹介されていて、その小説は邦訳されてなさげだったのですが、何か邦訳あるだろうと検索して出た本書を読みました。
図書館本のカバ折りは切れていて、表紙写真はゲッティ・イメージズからということしか分かりません。具体的なフォトグラファー名が切れちゃってる。
上は奥付拡大。ここのヘブライ文字をグーグルレンズで翻訳すればいい時代になりましたので、ほんとうにすばらしいです。
装幀 grass design 巻末に訳者あとがき。
最初、表紙やカバ折りに書かれたヘブライ文字が著者名とタイトルだと思ってまして、著者名 אברהם ב. יהושע についてはそうだったのですが、"הסיפורים"は題名でなく、「小説集」くらいの意味のようです。
二つの作品が収められていて、イェホシュアサン30歳の時に書いた『詩人の、絶え間なき沈黙』"The Continuing Silence of a Poet" שתיקה הולכת ונמשכת של משורר と、29歳の時に書いた『エルサレムの秋』原題『三日と子ども』"Three Days and a Child" שלושה ימים וילד
https://www.israel-culture-japan.com/translator/natsuu-motai
訳者のモタイサンは「なつき」「なつみ」でなく「なつう」と読むそうで、それをヘブライ語にグーグル音訳してみたのですが、どうも伸ばす音が正確に記述出来てない気瓦斯。
イェホシュアサンは東欧ドイツ系のアシュケナジーよりひとつ下のレイヤーで労働することが多いラテン系のスファラディ出身だそうで、モロッコ出身の母親は、83歳で死ぬまで自分はイタリア出身だと言い張っていたそうです。『砂漠の教室』でも、用務員とかベッドメイクのほうをする人たちという感じだった、マグレブやアラビア半島のユダヤ人。
で、イェホシュアサンはアラブ人作家とは大激論したそうで、それが晶文社の『ユダヤ国家のパレスチナ人』読むと分かるそうなので、読んでみます。かつまたイェホシュアサンは、イスラエル人とそうでないユダヤ人とのあいだに壁を作るような発言をしたこともあり(ユダヤ教よりシオンの地に住んでる皮膚感覚のほうが大事じゃん、みたいな)「良心的左派」なんだそうですが、イスラエルで左派をやることの限界ってそこか、みたいに思いました。
頁90『エルサレムの秋』
(略)エルサレム、偽りのおだやかさ。
人々は、いつなんどき包囲されるかもしれない、家を襲撃され水路を奪われるかもしれないと、常に不安に怯え、常に緊張している。
エルサレム人の不安げなまなざしと辛辣なユーモア。(略)
ぼくは生粋のエルサレム人について語っているのだ。
頁113で今の同棲相手の実家が「かつてのアラブ人居住区」にあり、家屋を立ち退いてくれたら幾ら出すという再開発業者が毎週のように来ることなど、さらっと書いてます。左派の限界。
『詩人の、絶え間なき沈黙』"The Continuing Silence of a Poet" שתיקה הולכת ונמשכת של משורר
これは、おもしろいです。新作を発表しなくなった詩人の恥かきっ子が普通学級に通えるくらいの知的障害を持っており、ふたりのあいだのスラップスティックな往来が淡々と描かれます。
『三日と子ども』"Three Days and a Child" שלושה ימים וילד
かつてキブツで惚れた相手が宿六とエルサレムに上京し、大学入学試験を受け、その間、ときどきおねしょする息子を預かってほしいと強引に來る話。嗚呼イスラエル人と思いました。大学入学申請書類の取り寄せから空欄埋めまでぜんぶ昔のシーカレにやらせる元カノ。子どもを押しつけるにあたって、やっと夜明けくらいの時間に来襲してドンドン叩く。
イスラエル人ぽくないと思ったキャラが、主人公の今カノに横恋慕してるプロ学生みたいな男で、毒蛇を拾ったので箱に入れて主人公の部屋に持ってきて、うっかり室内で逃がしてしまう男です。三歳児を預かった部屋で、逃げる蛇。
子どもは絶妙に発熱し、39℃とかになり、吐いたり鼻血ブーだったりと、あれこれ体調不良なのですが、主人公は心配して医者に見せたりとかはしない。まあまあ突き放します。あまつさえ親が電話かけてくると「ジフテリアかもしれない」なんて言ってみたり。
そんな小説です。ちゃんと出てくるイスラエル人が私の知る範囲のイスラエル人だった。すごいよなあ。
巻末の河出モダーンアンドクラシックスラインナップ。ほかにもイスラエル人作家の作品を紹介してるみたいでした。読むかというと、読まない気瓦斯です。
以上