『「その他の外国文学」の翻訳者』"Translators of <Other Foreign Literature>" 読了

装丁 古屋真樹(志岐デザイン事務所) 取材・構成 西川恭平 中沢佑次 序文 斎藤真理子(ハングル)英題はグーグル翻訳にエスをつけました。「翻訳者たち」で変換しないと、AIは複数形にしてくれない。リテレイチャーにもエスをつけようとしましたが、文学は水と同じで、数量名詞にならないようでした。「そんなことも知らないんですか~」とほほ。

なんとなくアマゾンでチベット文学をずらずら見てたら、出てきた本。webマガジン「webふらんす」で2020年12月から2021年10月連載に加筆修正、新たな記事を追加。

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出てくるのはヘブライ語チベット語(単行本追加)ベンガル語、マヤ語(!)ノルウェー語、バスク語(単行本追加)タイ語ポルトガル語チェコ語(単行本追加)その言語の申し子みたいな人もいるんですが、けっこうバブル期までに「えいや」で飛び込んだ人もいて、就職氷河期以降の世代だったらもっと慎重かも、と自嘲する人もいました(ノルウェー語)

最初のヘブライ語の人は、もともとはイディッシュ語をやる予定だったそうで、しかもそれは、なんと天下の社会言語学会の巨匠、タナカツによるサジェスチョン「You、イディッシュ語、やっちゃいなよ」だったとか。イディッシュ語ならシェイクスピアにも出てくるそうですし(違ったかな)それがヘブライ語になったというのは、なかなか面白い話だと思いました。イスラエルというハリネズミ国家と欧米人(ユダヤ人含む)の温度差に関する描写もむろんあります。この人は、家事の時間をなるべく減らしてその時間を翻訳や休息にあてる方法を、ドイツ語の翻訳者松永美穂さんのエッセーから学んだそうです。頁22。

次がまあ、チベット語星泉御大で、ラシャムジャ『雪を待つ』の訳者あとがきで書いていた、通勤途中の時間にスマホに翻訳を打ち込んで、不明箇所はそのままスマホで現地に照会、レスを待つというやりかたが、本書では『白い鶴よ、翼を貸しておくれ』からのメソッドに代わっています。『雪を待つ』の時から説を私も支持したく。関係ありませんが、『雪を待つ』は日本語オリジナルタイトルで、原題は「チベットのこどもたち」だったかな、そんなような意味のことばで、それだと漠然としすぎるかなということで『雪を待つ』になったそうですが(私が思うに、アムドのこどもしか出てこないのに「チベットのこどもたち」と銘打ってしまうと、なんしかめんどいからという理由もあるかなと)なぜかそれが漢語世界にも波及して、それまでこの作品の漢訳は《成长谣》だったのですが、本書刊行以後、作家出版社から《等待下雪》拉先加著,竜仁青译が刊行されたという。

次の人はベンガル語で、序文によるとベンガル語は世界の話者人口第七位六位の巨大語圏を誇ってるそうで、この人は大同生命国際文化基金から何冊もベンガル語文学を訳出してるので、さくっと借りてみました。が、本書で、ムスリムバングラディシュ(東ベンガル)とヒンディーのコルカタ西ベンガル)を均等に紹介してる、とあるのに、何故かバングラの小説ばかり借りてしまい、頭を抱えています。読んで、くろがね屋の近くの、ベンガル語話者のインド人ムスリムのインド料理屋で話すネタにしたかったのですが、インド側のを借りてなかった。がっかり。この人はコルカタの大学で学んでいるのですが、論文指導のやり方が面白かったです。まず目次(サマリ)をもってこさせ、目をとおして、よければ第一章を書かせ、書き上げると次は第二章、というように最後までじゅんじゅんに書かせ、書きあがった後、全体を読み返させ、その上で「メタメタに」(頁65)ダメ出しするんだとか。とにもかくにも、まずは最後まで書かせる、そのモチベーションを維持させる、委縮させるのはその成功体験の後でいい、というやり方が、日本の卒論指導の多くと、違うかなと思いました。

次のマヤ語が、私にとって相当にショックで、マヤ語なんて、マヤ暦を読むのにしか使わない、死んだ古語(ラテン語のような)かと思っていたのですが、メキシコ政府からある時点まで禁じられていた、バリバリの中米のネイティブ言語だそうで、ゲール語のように?復権してるのかどうかという感じで、しかも日本で訳者が売り込んでオーケー出したとこが国書刊行会で、今度国書刊行会の人に「新しいマヤのシr-ズ」について聞いてみます。インディオのことばは、ざっくりケチュア語しかないと思ってた。ケチュア語が数千単位に別れて各部族のことばになってるくらいのイメージ。でもそれは違ったもいいとこみたいでした。ペルーの、インカの末裔たちも、ケチュア語なのかなんなのか分かりませんが、それで文学書いてたりするのかなあ。

次のノルウェー語は、北欧ミステリーとも、ムーミンのマンガとも関係ありません。ムーミンフィンランドで書かれたスウェディッシュ文学。ムーミンのマンガ、昔の講談社版と、今読める版で、訳が違うと思ってるんですが、どうでしょうか。確証はありません。

その次はバスク語フランシスコ・ザビエル

次のタイ語は、これは訳者もたくさんいるんでない、なぜここに、と思いましたが、日本の巨大潮流、「タイ沼」「タイBL沼」にハマった人たちを満足させるに足る、原作小説を原語から邦訳した出版物がなかったため、需要と供給におびただしいギャップが生まれていた、その解消者ということで出たみたいです。冨田竹二郎先生みたいなやり方で、いっぱい註をつけるのもアリだと思うのですが、総じて、本書に出てくる翻訳者たちは、註をいっぱいつける方法に懐疑的、否定的です。頁173。読みにくくなるから、とのことですが、それはしかたないじゃん、むしろ、註は、ボーナストラックみたいなもので、作品を豊かに彩ってくれるじゃん、と思います。ライナーノートはいらないが、ボーナストラックはうれしい。その意味で、訳者あとがきも必須。読みたいから。

あと、この人は、星野龍夫訳をすすめていて、私は、星野訳は、訳の語尾語調を、山の手ことばと下町ことばに分けるとするなら、後者だと思っているので、ちょっと苦手です。私は山の手ことばの丁寧な訳が好き。『大草原の小さな家』の、愛蔵版訳と岩波少年文庫訳の違いといえば、分かって頂けるでしょうか。原書は、ダッドとかダディー、マミーだと思うんですが、「父さん母さん」と訳すハードカバーと、「父ちゃん母ちゃん」と訳すペーパーバック。

次がポルトガル語の人で、ポルトガル語は話者世界七位だそうで、アンゴラの白人作家の本を訳したりしてます。ん-、でも、ポルトガル語の世界だと、あんまり白人黒人の区別はないのかなあ。でも、先年見た、アルゼンチンに近いブラジルの町を舞台にした映画を見てたら、路上で自然発生する詩吟イベントの場面があって、BLM的な詩を黒人がくちづさみだすと、拍手するカラードと、場を離れる白人(主人公)という描写がありました。アンゴラ文学の紹介に対抗して、スペイン語訳者が赤道ギニアの作家さんを訳すということはあるでしょうか。

最後がチェコ文学。チェコ文学は、チャペックやクンデラといった巨人が有名ですし、チェコといえばチェコビールという文化も有名なので、その他のチェコ文学、チェコ文化の紹介ということになるのだそうです。魯迅以外の中国文学(も、いっぱい紹介されてる)

以上