ᱫᱨᱚᱣᱯᱚᱫᱤ『ドラウパディー』দ্রৌপদী "Draupadi and other stories." by মহাশ্বেতা দেবী Mahasweta Devi. Translated in Japanese by Usuda Masayuki & Niwa Kyoko. 読了

現代企画室

http://www.hanmoto.com/bd/img/978-4-7738-0309-9.jpgインド側のベンガル文学を読もうと思って、読み進んで、読んだ本。ベンガル語は話者人口世界六位だか七位で、アジア初のノーベル文学賞受賞者タゴール若しくはタクルも輩出した言語なのですが、邦訳はというと、大西正幸サンと丹羽京子サンのデッドヒート状態で、抜きつ抜かれつ、二人の小説家を競って訳してる感があります。モハッシェッタ・デビサンも、1992年に大西さんがめこんから二作収めた中短編集を出していて、2003年の本書が丹羽サンと、もう一方、臼田雅之さんという、東海大ベンガル文学を教えていた方なのかな? の共訳です。お話ごとに訳者を分けるスタイル。六篇収録。

装丁―――本永惠子デザイン室

「一五〇〇部」の初版部数明記がキラリと光りますが、現在でも新刊で入手可能なようです。増刷したんかな。現代企画室は、ペルーのインディヘナ文学の巨頭、アルゲダスの作品も邦訳出版しており、三冊くらい出してますが、そちらもどれも、新刊で読めるようです。ただし、ものによっては多少在庫状態によりヨゴレがあったりするのでご容赦と版元公式にありました。書店からの返品かな。
出版年まで、足掛け三年かけて行われた日印作家キャラバンの、インド側のじゅうような参加者が彼女だったせいか、訳者解説以外に、津島佑子松浦理英子(親指P)星野智幸という三人のひとが、なんかいちぶんを寄せてます。インドであってもなくても使えそうな、ブンガク的観点からの抽象的なクリティーク、とまとめてしまうと、さいごの人が怒りそう。

ᱫᱨᱚᱣᱯᱚᱫᱤ『ドラウパディー』দ্রৌপদী "Draupadi" 臼田雅之

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/c/c9/Sairandhri%2C_by_Raja_Ravi_Varma.jpg/330px-Sairandhri%2C_by_Raja_Ravi_Varma.jpg表題作は、叙事詩マハーバーラタ」に登場する、「黒いヴィーナス」ともいうべき女性の名前を冠した少数民族ゲリラ女性の物語。ネタバレで、捕獲後、警邏から輪姦を受けながらなお尊厳を失わない彼女の凛とした姿、下半身血だらけで、両方の乳首が噛み切られた、ズタズタの乳房をそのままに、与えられた衣服を破り捨て、すっくと立って、唾を吐き、罵倒し続けるその姿で〆ています。

ドラウパディー - Wikipedia

দ্রৌপদী - উইকিপিডিয়া

右は、日本語版とベンガル語ウィキペディアがともに採用している、インドの画家による神話の彼女の絵。さすが、大西正幸サンいわく、「決して楽しい文学ではないし、ものすごく読みづらい」人の小説と思いました。のっけから、飛ばす飛ばす。

底本は、অগ্নিগর্ভ "Agnigarbha" という1978年の短編集で、アグニって、火の女神だったなと思って検索して、そうでした。অগ্নিগর্ভ は英訳すると"fiery" となり、烈火のごとくというか、その手の単語が目白押しの意味のことばになります。

ejje.weblio.jp

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/c/cb/Alandur_draupadi_amman_2013-09-16_15-26.jpg/330px-Alandur_draupadi_amman_2013-09-16_15-26.jpg右は英語版が採用してるドラウパディー女神の写真。ナポリの黒いマリアでもなく、媽祖神でもなく。

Draupadi - Wikipedia

というわけで、マハーバーラタに出て来る人物なので、ベンガル文字表記もスーイスイで出せたのですが、この読書感想のトップには、ベンガル文字でなく、サンタル文字という、オーストロ・アジア系先住民サンタル人の文字を置いてみました。

頁6

 制服一「サンタル族*なのに、なぜドプティという名前なんだ? 俺が持ってきた名簿には、そんな名前はないぞ。名簿にないような名前をつけられる者なんか、いったいいるのかね?」

 制服二「ドラウパディー**・メジェン。母親がバクリの故シュルジョ・シャフゥの家で、脱穀の仕事をしていた年に、生まれたんだ。ショルジュ・シャフゥの女房が、つけた名前さ」

注釈によると、ドラウパディーはサンタル語ではドプティになるそうです。バクリが地名で、ショルジュ・シャフゥは地域の上位カーストで、彼ら反乱集団によって殺害。

サンタル語 - Wikipedia

en.wikipedia.org

びっくりしたんですが、今年七月に選挙で64%とって当選したインドの新大統領(インドは首相の権限が強く、大統領は権力あんまないそうですが)が先住民初、女性二人目の大統領で、その人がサンタル人で、やっぱり子どもの頃に、そういうヒンディー的な名前をつけさせられていて、その名前がドラウパディーだそうです。ドラウパディー・ムルム。

ja.wikipedia.org

出生名はプティ・ビランチ・トゥドゥ(puti Biranchi Tudu)だったが、学校の先生からドラウパディと改名された。

en.wikipedia.org

Her family named her Puti Tudu. She was renamed by her school teacher to Droupadi, and her name was changed several times to those including Durpadi and Dorpdi in the past.[8]

bn.wikipedia.org

ベンガル語版をグーグル翻訳しても、そんなことは1㍉も書いてません。

sat.wikipedia.org

そういうことなので、せっかくだから、読書感想にもドラウパディー大統領のサンタル語版ウィキペディアから、サンタル文字「ドラウパディー」を使わせていただきました。サンタル語はグーグル翻訳未対応(サンタルの人口は六百万とも七百万とも)ですが、サンタル語版ウィキペディアはあったので、僥倖でなんとかなりました。

臼田サン解説は、冒頭に「サバルタン」なんちうポスコル、ポストコロニアル用語を出してきていたので、それを知っていたら辟易していたでしょうが、知らないので( ´_ゝ`)フーンで読みました。その後、「インドは世界最大の民主主義国家」のフレーズに衝撃を受けました。人口で中国を上回る国家が、民主主義国家たりえてる素晴らしさ。

サバルタン - Wikipedia

頁278 解説Ⅱ

 ナクサルバリ運動は、一九七〇年一一月以降は「階級の敵殲滅路線」を、農村から都市に移した。カルカッタの河辺には「中国の主席はわれわれの主席」のスローガンが塗られ、諸政党、警察が入り乱れてのテロの応酬となった。こうした事態も一九七二年までには収束された。一九七七年の総選挙から二〇〇三年現在にいたるまで、西ベンガル州では共産党が指導する左翼連合戦線が週政権(ママ)を掌握している。同時にインドは経済自由化をすすめ、グローバリゼーションの大波に洗われることになった。

「観光客には見えないインド」ということで、どんどん書いていて、たしかどこか作中に、ナクサライトの連中は奪った武器を分解して破棄してしまうのでおえん、売ればいい金になるのに、みたいなダコイトの愚痴も出たと思ったのですが、見つけ出せませんでした。大西訳『ジャグモーハンの死』(めこん)のほうだったのかな。今なら、潤沢な武器をそれでも捨てるような真似は、けしてしてないと思います。上の解説とちごて、ナクサライトは終わってない。燃え盛ってる。誰かが武器を供給してるから。

en.wikipedia.org

そら国内でこんなことされてて、国境係争地アクサイチンとかもあるわけだし、チベット亡命政府を置くくらい、インドにとって当たり前だ之クラッカーデスヨ。亡命政府のが先とかいう人もいるかもしれないが、要するに、やられっぱなしではない。ウイグルの人が、「日本はかつてまちがったかもしれないが、まちがえない国家なんてないんですよ、一度まちがえたからずっとあたまをさげたまま、さげなくてはいけないなんて、国の姿勢としておかしいですよ」と言ってましたが、あながちワックの受け売りというわけでもないと思います。

本書は左のように巻末で、ベンガル語タイトルをずらずらっと並べ、邦訳の底本もベンガル語でずらずらっと並べています。これが弱った。最初と最後以外、底本名がデビサンのベンガル語ウィキペディアに出てこないからです。テキスト底本の出版年と、初出でないなら、初出発表誌名と発表年も書いてほしかった。インドの出版事情がカオスで調べがつかなかったのかもしれませんが、それならそうと書きよし。

最初と最後の話以外の底本名をグーグル英訳したところ。「セレクテッドストーリー(精選集)」「モハッシェタ・デビ短編50」「モハッシェタ・デビ傑作選」「アブソリュートブリリアント・ストーリーズ(これ絶対におもしろいやつ。まちがいない)」いい加減にしろよし、と思いました。露店のゾッキ本が混じってる悪寒。ナクサライトに言及する作家だから、まともなパブリッシャーから出てる本がそんなになくて、地下なんだかなんなんだかみたいな出版物しかないのか。どうなんだろう。

স্তনদায়িনী 『乳房を与えしもの』"Breastfeeding" 丹羽京子訳

原題をグーグル邦訳すると「母乳育児」になります。自分でも二十人くらいの子を産み、裕福なバラモン家でも十数人の子どもの乳母となった女性の人生を描く。底本はবাছাই গল্প(精選集)という、何が何やらの本。作者名と題名をベンガル語と英語でアンド検索しても、何も出ませんでした。母乳出っぱなしだった女性が、年とってさすがに出なくなり、その使命を終えてからいきなり無駄飯ぐらいというか、居候、三杯目にはそっと出し状態に陥るのが、いかにもインドで、そこから、乳がんの展開になります。かつての乳飲み子たちが、やっぱりインドな、儒教がまったく浸透しなかったドライな人間関係を見せます。この話にもモンゴルチョンディというヒンディーの儀礼が出て(頁54)ときどき「モンゴル」を冠したヒンディーの固有名詞が出るのは、なんでだろう、やっぱりムガル朝からえんえん、チンギス=ハーンやらチムールやらの記憶伝承が残っているのだろうかと思いました。フラグもフビライもジュチの子バトゥもインドには来なかったわけですが、インドを征服したペルシャ系の連中が、モンゴルに征服された歴史を持ってるとこうなるのかしらという。

চোলি কা পিছে 『チョーリの後ろに』"Behind the bra" 臼田雅之

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/7/7d/Raima_Sen_still40.jpg/440px-Raima_Sen_still40.jpg底本はমহাশ্বেতা দেবীর ঞ্চাশটি গল্প「モハッシェタ・デビ短編50」

原題はベンガル文字で書かれてますが、チョーリというのは、ヒンディー語で、インドの、ブラジャーの上に着るブラウスだそうで、おヘソが出てるやつかな。それでか、ブラウスというとちょっとイメージがちがうので、ヒンディー語をそのまま邦題でも借用したそうです。

Choli - Wikipedia

ঘাগরা চোলি - উইকিপিডিয়া

ベンガル語ウィキペディアは、半分がムスリムだからか、こうした肌を露出するヒンディー的オサレを「サリー」にしてしまっているような感じも受けます。

ここまでがオッパイの話で、この後もえんえんオッパイの話が続くのかと思ってゾッとしませんでしたが、ここまでです。モハッシェタ・デビおっぱい三部作。この話は、進歩的文化人夫婦のハズが写真家かなんかで、開発で居住地を追いやられる先住民とか、飢餓とか貧困とかを撮ろうとしてカメラを向けるのですが、都市の建設現場で働く、半裸の裸族の出稼ぎ女性の見事なオッパイに心を奪われ、寝ても覚めても心はオッパイ、ロケットオッパイ、見事な隆起にオッパイ星人マジで恋する五秒前、彼女のほうは、写真を撮られるたびに謝礼をグングン釣り上げて、そして、という。

detail.chiebukuro.yahoo.co.jp

頁276 解説Ⅱ

 インドは十九世紀まではフロンティアのある世界であり、平地のヒンドゥー社会が徐々に拡大し、山地の部族を取り込んでいった。中世以降は部族の首長層はクシャトリヤとして編入され、それ以外の部族民は不可触民として、ヒンドゥー社会の最下層に繰り込まれた。部族は固有の文化をもってヒンドゥー社会に繰り込まれたから、結果的にヒンドゥー社会を豊かにすることになった。またベンガルでは主要な農業カーストは不可触民であり、生産を担う重要な役割をはたしていた。しかしそれにしては、その社会経済的地位は劣悪であった。

 中世的な身分制度は近代になると解消の方向に向かうが、植民地となったインドでは、支配の都合上カースト制度はかえって再編され強化されたのである。スピード化の時代でもある近代は、部族社会を急速に定着農業へと向かわせ、外部世界との接触面を大きくした。

 その結果、部族の土地は狡猾なディックゥ(平地から来たよそ者)の手に落ちていった。(後略)

なんだか、平埔族とか、生蕃熟蕃の話を読んでるかのような、既視感にクラクラする記述で、しかし台湾でなくインドなので、裸族に渡される服は旗袍でなくサリーです。いや、台湾でも旗袍はないか。綿シャツとずぼんだろうな。

かなり英語まじりの文体だったようで、「問題」と書いてイシュー、「重要でない問題」と書いてノンイシューとルビが振られています。上のウィキペディアもそうですが、爆弾テロの後、「インドはとつぜん〈チョーリの後ろに〉中東があることを発見する」くだりなど、意味深です。回印対立、印回対立と肌の露出の関係は不可避。「強力な圧力団体」と書いてパワフル・ロビー、「対立する圧力団体〈圧倒的多数派〉」と書いてカウンター・ロビー。「き印ホリポド」(頁94)という単語は注釈がないので、意味が分かりませんでした。同じページに、「**英語教育を受け、母語を事実上知らないエリートたちもいる」と注で書いてあるのは、英国育ちなら分かるけど、と思いました。

夫妻は頁97「エスペラント的人間なのだ」と書かれ、「くつろぐ」と書いてアット・ホームとルビを振られています。ワイフは登山家で、シトルという名前で、その意味は「冷たい」なんだそうで、臼田解説では、作者はシトルに代表されるインドインテリ層のフェミにも懐疑的なまなざしを向けている(全方面を攻撃している)ということになるんだそうですが、それにしては、ご自分で書いているとおり「冷たい」ということは暑いインドでは悪いことではなく、むしろ、助かるぅ~、ここちよいことである、とあり、インドって矛盾してますね、それがインドデスヨ~でいいのかな、と思いました。

頁100に、裸族のおっぱい女性は「ガンゴォル」「ガンゴウリー」であると説明されるのですが、それが何か注釈がないので、分かりませんでした。同じページに「世間知らずの聖人」と書いてディヴァインとルビが振られてます。頁109、ワイフのシトルのおっぱいがシリコンであると暴露されてますが、この作品のころにはもう豊胸手術があったのか、いつだろうと思いました。解説Ⅱによると、本作は1993年発表だそうです。読者もインドの豊胸がいつからか知りたいだろうと訳者が思ったから、この作品は例外的に発表年が書いてあるのかと思いました。

頁120、ネタバレで、裸族の彼女はその後街娼となりますが、契機は輪姦と書いてギャング・レイプのルビで、写真がメディアに出て有名になったことと関係あるのかどうか。オッパイはえぐりとられ、表題作とかぶるのですが、「噛みちぎる輪姦」という一文が挿入されます。この話の先住民の女性もまた、生きています。写真家は鉄道に飛び込んで自死

ধীবর『漁師』"Deep" 臼田雅之

おっぱい三部作がとてもショッキングでしたので、この話もそんなほんわかした話ではないのですが、ナントカ効果で、ほっこりするいい話のような気がしました。何効果かな。吊り橋効果かな。底本はমহাশ্বেতা দেবীর ঢশ্রষ্ঠ গল্প「モハッシェタ・デビ傑作選」

かつて養魚塘で網漁を生業としていた男が、いつからか、池に投げこまれる死体を引き上げて手間賃をもらって暮らすようになって、そしてという話。争議や一斉逮捕が起こるたびに仕事が舞い込み、教育を受けて問題意識を持つようになった息子もまた、手づから彼の手で濁った水の底から引き上げられる。そして、その夜、警察署長が失踪。

ええと、この作品集も役割語頻出で、どこの方言か分からないのですが、みんなよく分からない農民語というか低カースト語というか、をしゃべります。

この話のページに、長い髪の毛がはさまってました。私はこのとおりボルドヘアーなので、このような髪の毛があるわけもなく。枝毛がひとつもない、よく手入れされた、女性の髪の毛です。成人した息子の悲惨な死の話に、ありうべくはさまった髪の毛なのかどうか。

১০+১০『10+10』丹羽京子訳

初出は নির্ঝচত ঢশ্রষ্ঠ গল্প「絶対に素晴らしい話」(なんだそれ)ベンガル小説には、代々強盗をなりわいとするカーストの連中がちょいちょい出てきますが、この小説もそのジャンル。金主というか、自分の手を汚さないバラモン、ジョミダルに使われ続けるダコイトカーストの人間が、なんでそんな計算になるのか分からないが、重い刑の刑期のほうが優先されず、刑期の合計で20年くさい飯を食わねばならないことになってしまっていて、そりゃおかしいで、街の弁護士の先生に相談すべえ、となっても上を下へのジレッタ。解決せえへんねん。

頁148で、蛇の肉やヤマアラシを焼いたものを、サブジのカレーや炒め物、温かい炊き立てのご飯と一緒に食って、ああおいしい、という場面があり、へーおいしそうと思いました。インドなので、しょっちゅうヘビが出て、毒があったりなかったりです。

頁166

(略)頭に血がのぼって自分の手を噛んだよ。

冷静になるためにやる動作。この本には二作もオッパイ噛み切られる話があるので、女性が性行為の最中「噛む」ことについては、なぜか中国でよく討議の対象になってましたが、男性のそれも、こうやって小説になるくらいだから、あるんだろうなあ、ひどい話だ、でした。邦文小説でもテーマになってたりするんだろうか。そんなことを考えながら読んでた時に、上の描写、手を噛んで感情の暴発をこらえる描写があり、うむむと思いました。

頁176

 すべてはいいしるしだった。ジャティは子供たちに熟したジョルの実をひとかけら食べさせた。そしてこう言った。「おまえのじいちゃんは、毎日これを食ったがよ。米のめしなんぞ、いらんかった。森が食べさせてくれたからよ。さあ、歌わんか?」

 髪を乾かしながら歌をきく! なんてぜんたくなんだろう!

ジョルの実が何か分かりませんでした。ジョルノ・ジョバァーナしか出ない。主食になる果実。

রাবণ『ラーヴァナ』"Ravana" 丹羽京子訳

これも初出は নির্ঝচত ঢশ্রষ্ঠ গল্প「絶対に素晴らしい話」(なんだそれ)ベンガル小説には、代々強盗をなりわいとするカーストの連中がちょいちょい出てきて、この小説もそのジャンル。金主というか、自分の手を汚さないバラモン、ジョミダルに使われ続けるダコイトカーストの人間が、この話では最後に以下略

ja.wikipedia.org

カーリ―女神のお祭りにはラーヴァナ魔王のねぶたというか山車が作られ、祭りのクライマックスにはそれを燃やすんだとか。炎上。爆風。燃え上がって、火の粉が舞う。

このお話のサイドストーリーに、旧来の地主と支配されるものたちの地元社会以外に、新参者の、ビハール州から来たよそものの出稼ぎたちが居ついた集落が登場します。お祭りはそれぞれべっこに開催。これは、現地だともう少し意味があるけど、日本で読んでもそれは分からないものなのか、あるいはここはそんなに意味のない描写なのか、それが分かりませんでした。

মোহমপুরের রূপকথা 『モホンプルのおとぎ話』 "The fairy tale of Mohampura." 臼田雅之

初出は「銅像」を意味するমূর্তিという1979年の短編集。老婆の目が悪くなって、いろいろ試すんですが、農村医療はなかなかで、しかも資材の発注購入も腐敗してマース、という話。頁222に「印方医」という単語が出て、コプレジュとルビが振られてました。またなんでんかんでんアーユルベーダぢゃろう、とは思いませんでした。

オッパイ三部作第二部にも同様のせりふが出ますが、「木の実つけるに苦労はない」という農村ならでは観念が産児制限実施にあたっての壁になっています。じっさい、まだ流産死産、乳幼児の死亡率もそれなりに高いわけですが… それ以外に、下記もインド固有の弊害というか、ほかの国にもあるのかどうか。

頁228

 ここに看護師たちの住める場所があるのか。どこにもない。レンガ建ての安全な家がなければ、看護師たちはここに来られない。竹の壁で囲っただけの保健センターは、どう見ても安全ではない。ここには強盗がいつも出没するし、泥棒もまたしかり。ずいぶん運動をしたものの、いまだに看護師の宿舎の見通しはたっていない。

こういうのだけ読んでると、こんなに強姦が身近にある農村地帯もなかなかないなと思います。長澤まさみのインドロケのテレビドラマ感想にも、村の「へんなオッサン」がうろうろする明かりのない共同便所に夜行かなければならない女子学童の苦悩みたいなヤフーニュースを見た人からの書き込みがありました。同じページに、「へるす・わーかー」となぜかひらがなで書かれた単語が出て、原文なんだろうと思いました。

頁233

「熟れたテラクチョの実がちっとあるんだけど、焼いてくれんかな? それに唐辛子を入れてな、ちょっと、まんまが食べたいんな」

インド版「おばあちゃん、さっきもご飯食べたでしょう?」描写。テラクチョの実がなんなのか分かりませんでした。主食になるのか。検索しても、埼玉県の韓国スイーツのお店しか出ませんでした。

テラクチャ - 若葉/スイーツ(その他) | 食べログ

この次のページに、「だら、煎り米、一口(くりつぼ)、くんなよ」というセリフが出て、「くりつぼ」が分かりませんでした。今はけっこう、どこの方言でも検索すると出るんですが、出ない。

おばあさんの目は緑内障なのかなんなのか。目が見えなくなると嫁の態度がガラッと変わって、目が見えなくても縫い仕事くらい出来るだろう(移動がないので)針で多少手をつついても根性で覚えなよ、みたく当たる場面があり、チベットは自然がタフ、インドは人間関係がタフ、と思いました。その先にアフリカがある。

青海省の温泉という、解放軍基地の近くの集落で、何も毛主席のおかげですみたいな紋切り型を繰り返すチベット人老人の家についてったら(老人は健康のため温泉にお湯を汲みに来たが、けっこう温泉はゴミ捨て場になってて汚れてた)家に、いざりの中年の息子がいて、やっぱり目が見えなくても出来るミシン仕事をしていて、習得するまでに相当ケガしたであろうことが、傷跡だらけの手を見ると分かりました。国共内戦の時、手榴弾が近くで爆発して失明したそうです。今はその人のおんなきょうだいに漢人の婿が入って、羊毛を売ったりなんだりで生計をたてているとか。その婿が帰ってきて、漢語会話が微妙な感じになったので、おいとましました。この話のおばあさんも針仕事ヤレになったので、思い出した。

bn.wikipedia.org

帯をとると、実にシンプルな表紙。
世界話者人口六位か七位なので、もっといろんな小説、石を投げればあたるような「魔術的リアリズム」もあるんじゃいかと思いますが、さて、今後、どこまでベンガル文学は日本に紹介されるのか。詩歌がベンガル文学の真髄らしく、そういうのもいくつか邦訳されてるようなのですが(丹羽京子さんも臼田雅之さんも出してる)翻訳詩は、流して終わってしまうし。まずはノーベル賞タゴール嫁なのかもしれませんが、さて。

その国の文学をどう紹介するかは、悩ましいと思います。スリランカ料理店に行くので、スリランカの小説も読もうかと思いましたが、大同生命国際文化基金から出てるのは、それなりの長編で、三冊三部完結みたいな重いのだけでした。なかなか一気にとりかかれる気がしない。それなりに読めば面白いんでしょうけれど、時間のない現代人には、短編アンソロジーで始めて、いろんな作品、いろんな登場人物、いろんな習俗風景、いろんな視点、で攻めてくれるとありがたいです。ベンガルは、タラションゴルサンの1930年代中心のと、この骨太反逆先住民寄りのモハッシェタ・デビサン以外のも、読めたらいいなと思います。そして、インドの新大統領が、本書表題作と同名同民族同じ理由なのはすごいタイムリーで、しかしそのインフォメーションが、あんまり日本でぱっと分かるように広まってない気がして、少し残念閔子騫でした。以上