『マーリ・アルメイダの七つの月』(下)シェハン・カルナティラカ 山北めぐみ『මාලි අල්මේදාගේ සඳ හත』(පහළ රෝල්) ෂෙහාන් කරුණාතිලක යමකිටා මෙගුමි《அல்மெய்தாவின் ஏழு நிலாக்கள் என்ற》(கீழ் தொகுதிகள்)செகான் கருணாதிலக்க யமகிதா மெகுமி 読了

英題:"THE SEVEN MOONS OF MAALI ALMEIDA" lower part by Shehan Karunatilaka translated by Yamakita Megumi

2023年12月30日初版 装画 山口洋祐 装丁 川名潤 堂々、圧巻の完結編。

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作家の体力について言いたいんですが、映画の洋画と邦画の大きなちがいと私が思ってるのは、後半ダレるかダレないかで、それは彼我の体力のちがいに起因すると考えてます。なんというか、粘り腰、集中力がさいごまで持続しない。井上ひさし『ブンのフン』*1に偽ブンだか偽フンというのが登場して、それは贋作作家、盗作作家のフェイクなわけですが、本家ほど体力がないので、後半明らかにトーンダウンし、それが主人公の外見にも影響を及ぼします。下半身がゆうれいのように半透明で、グローが古くなった蛍光灯のように、ついたりきえたりする。あれを、本書終盤を読んで、強烈に思いました。

スリランカ人に西洋人のようなスタミナがあるのかどうかさっぱり知りませんが、邦人作家ならジャキ(ジャクリーン)とマーリ(死者でゲイ)の恋の行方だけにしぼってなんとか話を終わらせてヨカッタヨカッタで祝勝会に繰り出しちゃうところを、シェハンサンはとつぜん豹を出してえんえん豹とヒトとの会話を続けておとしてしまう。しかもそれが面白い。なんだこの小説。

上は下巻表紙(部分) しかもいちおうこの豹の願望は上巻巻頭のせりふが超伏線になっていて、豹じたいもちゃんと途中で一回出て来ますし、あまつさえ、なぜ豹がセイロン島最強肉食獣なのかの理由として、国旗にもなってるライオンはセイロン島にいない(でもシンハラ人はシンハービールのライオンが象徴だから国旗にした)対抗してタミル人がシンボルにしてるトラもセイロン島にいない、なので豹が最強である、アホかみたいな笑い話を途中で入れていて、しかもごていねいに狼まで出てくるんですよね、子連れ母狼。子煩悩なので、豹のように哲学的というか人類にない発想を人間に伝えたりしないで、行ってしまう。オオカミでなく、リカオン、ジャッカルなどの山犬だったかもしれない。豹はすごいですよ。人間は電気を発明したから、ほかはクソだがそれだけはすげえ。夜明るいもん。だから生まれ変わって人間になって電気使いたい。豹の前足だと電気スイッチひねれないから。そんなこと言ってる。すごいなあ。人民解放戦線とタミル・イーラム解放の虎の南北二正面作戦を行なうスリランカ政府が、とりあえず拉致って行方不明戦術を多用しつつインド平和維持軍とゲリラを反目させ、インド軍にゲリラの相手をさせる作戦にも成功する「歴史」を描いてたはずが、豹で終わってしまう。なんだこれ。

孔雀と象もスリランカを代表するいきものですが、出たかというと、そんなです。むしろ、道路に横たわるセンザンコウのほうがよく出る。ふつうセンザンコウは人に遭うとくるっとまるくなってしまい、ヒトは丸くなったセンザンコウしか目撃出来ないらしいのですが、キャンプしてたらテントのなかにセンザンコウが入ってきて、つぶらなひとみでヤシの実ちゅうちゅうしてて、ぜんぜん逃げなかったという話。何だこの小説。イラスト描いた人、分かってますよね。

上は上巻の表紙(部分) 主人公は惨殺されたゆうれいなので脚がなく、そして白骨の山。上巻と下巻の表紙の描き分けはわざとですが、上巻表紙のキャラは下巻より不分明で、死霊を喰らって膨張するマハカーリーや、拷問死美少年セーナ、悪徳政治家を守る最強守護霊、死者を天堂に導くアテンド業に従事する、テロで爆死した女性ジャーナリストなどがこの絵のあちこちに隠れていて、こっちを見てるはずなのですが、誰がどれか分からなかったです。どれが誰なんだろうなあ。

もちろんこんな褒め殺しをしてるのは、シェハンサンの処女作『チャイナマン』やこの次のSF短編集の邦訳を調子に乗った河出もしくは河出に負けるなの彩流社サンなんかが出してくれないかなあと下心あってのことです。こんな貧者の一刀通用しないか。

訳者あとがきに出た、本書参考文献は、明石書店スリランカを知るための何十何章、彩流社から出てるスリランカ学の泰斗、和光大学のセンセイの本、地球の歩き方、合同出版から出てるインドタミル人プランテーションの本、南船北馬舎の写真集です。以下後報

【後報】

頁9「ヒナラジャタイラジャ」の意味が分からないので検索しましたが、何も出ませんでした。

ヤコ:野蛮人。頁9
ビーシャナヤ:恐怖政治。頁108 භීෂණ පාලනය bhīṣaṇa pālanaya
タンビ:兄弟。頁190
ガータカヤー:殺し屋。頁194 ඝාතකයා
プラ―タ:角チップ。頁213

訳者あとがきで言及されるU2に関しては頁10に"Sunday Blooday Sunday"の替え歌 "How long will they sing this song?"が、頁26に"Mothers of the Disapeared"(行方不明者の母たち)という歌と同じタイトルのビラが出ます。
同じく訳者あとがきで言及されるカラテキッドに関しては、カジノのパキスタン人が「カラチ・キッド」と呼ばれています。パキスタ人ですが、ウォッカを嗜んで、賭け事をする。このカジノには、イスラエルの武器商人と、北京語を話す中国人二名も出ます。(日本人は出ません)

頁19
 それはなんてことのない写真だった。写っているのはサリーをまとった女で、銃撃が始まってすぐ、大佐に逃げるよう促されている。女は茂みに潜むおまえに気づいたかのようにカメラのほうを向いている。シャッターを切った瞬間、女は慌ててサリーを頭に被せたが、顔を隠すには遅すぎた。その顔は渦巻く砂塵の中でさえ、はっとするほど美しかった。
(略)
「で、どうやらこっちはその愛人のようだな」
「つまり、こいつらはスープレモが下したセックス禁止令に逆らっているわけか? 隅に置けねえな」
「それは政府軍が広めた噂だよ。当のスープレモだって、(略)すべては自爆テロ犯に恋人を作らせないための策略さ」

タミル・イーラム解放の虎のセックス禁止令についてはハイジャック犯についての本*2に詳しいです。たしか、本書ではスープカレー、否スープレモと書かれるヘッドのプラバラカン自身が女子大生とデキてしまって、大幅緩和されたとか。

頁21
「それはそうと、JVPにこれ以上関わるのはやめておけよ。中産階級コミュニスト気取りほど惨めなものはない」
(略)
「わからないわけじゃない。誰もが一度は通る道だからな。おれだってベトコンがヤンキーをやっつけたときには喝采を送ったし、インドネシアで同志たちが虐殺されたときには涙を流したさ。それに、資本主義はいずれおれたちみんなの首を絞める。でもな、お若いの、事実には向き合わないと。アカの命を誰よりも多く奪っているのはアカだ。スターリン毛沢東ポル・ポト以上に精力的な殺し屋は神様だけさ」

こういう人にうってつけの素材がガザ、パレスチナでしょう。ハマスイスラム原理主義マフィアですから何処をどう見てもアカ、パルゲンイではない。好きなだけユダヤ帝国を批判可能。

頁27、タミル人が父親をアーッパと呼びます。グーグル翻訳どおり。

上巻200頁に出た「辮髪の中国人」が下巻46ページにも出ます。下巻では注釈なし。

上巻に日本はまったく出ないのですが、下巻ににはちょくちょく出ます。

  • 頁77、ディランが仕事を辞めて東京で修士号を取ると宣言する場面が出ます。
  • 頁113には「日本の塩がこの国の食べ物を毒す」とあります。意味分かりません。原発処理水の話が出る前の小説ですし、味の素のことをあえてソルトと言ってるんでしょうか。
  • 頁123には、香港、東京、サンフランシスコと、カムアウトして暮らせるかもしれない都市名が連呼されます。

頁112
「結局、誰のせいなんだよ?」とおまえは尋ねる。
ポルトガル人は宣教師らしく正常位を好んだ。オランダ人はバックから攻めてきた。イギリス人がやってくる頃には、われわれはひざまずいて両手を後ろに回し、口を開けて待っていたのさ」
「イギリス人に植民地にされてよかったよ」おまえは言う。
「フランス人に虐殺されるよりはましだな」僧侶が言う。
「ベルギー人に奴隷にされるよりも」
「ドイツ人にガス室送りにされるよりも」
「スペイン人にレイプされるよりもな」
「この国の惨状を思うと、中国人か日本人に買収してもらったほうがいいんじゃないかという気がしてくるね。難しいことはアメリカ人とソ連人に任せて、タミル人の問題はインド人に任せるんだ。ポルトガル人の問題をオランダ人に任せたように」

債務の罠の中国と並び称されて、「あなたはどっち!?」になるんだから、日本としては光栄の至りなのかそうでないのか。秘密のODA SHOW。

『セクシー田中さん』もオジサンのことを「おじ」と呼んでましたが(チャラおじ、イケおじなど)本書下巻50にも「フェザーボアを巻いたぽっちゃりボーイのおじ」なる表現が出ました。訳者の山北サンはシェハンサンより少しお姉さんだそうなので、芦原サンと同世代かもしれません。しかし、フェザーボアを巻いてる時点で「おじ」なのだろうか、札幌首ちょんぱ女装おじさんのような人ではないかと思いましたが、ちゃんと男性の画像も出ましたです。

頁72
「マーリンダ、きみのお母さんはタミル人だと聞いたが?」
「半分バーガーで、半分タミルです」
「お父上は?」
「三年前に他界しました。彼はシンハラでした」
「それは残念だ。ということは、きみは何人になるのかね?」
スリランカ人です」
「いかにも今どきの若者らしい答えだ。(略)われわれのほうはもう手遅れだがね」
「部族主義って(略)」とジャキ。「国より民族、だなんてさ」
「部族主義にも。真実はあるのだよ」スタンリーはのたまった。「シンハラ人は数の上ではタミル人に勝る。だが、タミル人はシンハラ人より賢い。シンハラ人よりよく働く。そして、(略)」
(略)
「でも、人種なんて存在しない。ぜんぶ作り話なのに」ジャキが言った。「誰かが都合よくでっちあげただけ。だって、シンハラ人とタミル人の見分けがつく人なんている?」
「それは違う」と、スタンリー。「黒人が俊足なのも、中国人が勤勉なのも、ヨーロッパ人が発明を得意とするのも事実だ」

本書は「~族」表記をせず、「~人」表記をするので、ウイグル人チベット人と書いてる私にとっては気をよくさせる本でしたが、「~族」表記も一ヶ所あります。頁86「ソ連人、中国人、クメール族は神を持たない」というせりふがそれ。〈族〉をここで出すか。なんでカンボジア人と書かなかったんだろう。あるいは、クメール族と書くなら、スラブ族漢族と統一表記するとか。俄罗斯族汉族。クメール人は中文ウィキペディアでも、見出しこそ《高棉族》"gaomianzu"ですが、本文では《高棉人》"gaomianren"です。拼音"ian"は「イアン」と読むより「イエン」と読んだ方が原音に近い。

zh.wikipedia.org

そうかと思えば、下記のような「~人」の表記ブレも。

頁193
(略)差異ばかりが取り沙汰されるが、裸にすれば、シンハラ人もタミル人もムスリムもバーガー人も見分けることんどできやしない。火をつけてしまえば、人間なんてみな同じだ。

ムスリムムスリム人と書かないが、バーガーはバーガー人と書いてしまう。バーガーに「人」なんてつけなくてもいいのに。どうもここや「クメール族」は、校正の人が余計な仕事をしたような気がしないでもなく。

本書は映画「ボヘミアン・ラプソディ」以降に書かれたせいか、とにかくLGBTQ?の「G」の乱交ぶりが目を覆うばかりに出ます。主人公マーリの従軍が拒否されるのは、彼が手が早いので部隊内にHIV感染が広まる恐れがあるから、てな箇所すらある。マーリはゴムをつけたりもするわけですが、エイズ検査に関しては、受けたのかねという質問に対し明確な答えが記載されぬまま、物語は進行します。

下記は頁174に出てくるスリランカ出身の写真家と歌手。本書によると前者はやはり「G」だったそうですが、英文ウィキペディアにその箇所はないです。めずらしい。後者はたんに有名な人だから出ただけなのかな。

en.wikipedia.org

en.wikipedia.org

頁183にはエアランカ爆破テロの犠牲者のうち西洋人観光客の霊が三人出ます。ドイツ語でウンダバー"wunderbar"とかフランス語でモニフィーク"magnifique"とか言ったりしてる。

頁299訳者あとがき
(略)近年の研究によれば、十九世紀に至るまで南インドから移住したタミル人のほうが数の上では勝っていたとも指摘される。

上の話は知りませんでした。何かに載っていて読み飛ばしたのか、まだ読んでないのか。

面白い小説でしたが、先の読めない現在進行形の時代を描いてるわけでなく、過去の、総括したい時代の話ですので、おのずとそれがリミット、限界になって、それ以上は広がらないんだろうなという一種の安心感を持ちながら読むようになっています。そこから逸脱の予定調和崩しはない。直木賞作家垣根涼介サンの『ワイルド・ソウル』*3が過去の日系アマゾン棄民を題材にしながらも、現在進行形でそれに復讐する体裁をとっていたようには、なりません。そうしないのも含めて、味なのかな。復讐してもいいと思うんですが、ダメかな。以上

(2024/7/27)