তারিণী মাঝি『船頭タリニ』"Tarini, the boatman." তারাশঙ্কর বন্দ্যোপাধ্যায় by Tarasankar Bandyopadhyay. (現代インド文学選集⑦【ベンガリー】)(সমসাময়িক ভারতীয় সাহিত্যের সংকলন ⑦ বাংলা)読了

カバー画 田島昭泉 菊地信義ー装丁

白水社の『その他の外国語文学の翻訳者』に登場する、世界六位の話者人口を誇るというベンガル語(七位だったかもしれない)訳者の人の『ジョルシャゴル』というインド側の小説集(大同生命国際文化基金)を読んで、同じ原著者の小説がめこんからも出ていたので借りました。

こっちを訳したのは大西正幸さんという東大出の人で、同姓同名の人が多いのですが、この人は1976~1980にインドでベンガル文学と音楽を学び、その後、オーストラリアでパプアニューギニア、ブーゲンビルの少数民族言語を研究し、本書刊行時は同社大学の研究所で嘱託研究員だそうですが、「訳者あとがき」はアデレードで書いているので、二足のわらじとか、日豪半々で暮らしてるような人かもしれません。あたかも立教に奉職する前の前川健一サンがタイと日本半々で暮らしていたように。

大西 正幸 (Masayuki Onishi) - マイポータル - researchmap

nrid.nii.ac.jp

1975年に東外大AA研ベンガル語夏期講習会を自主的に継続しようと、コッラン・ダシュグプトという講師の方のもとで読書会が続けられ、ほぼ同時期に奉仕園で「インド文学研究会」というサークルが出来、めこんの編集者桑原晨さんもそのメンバーで、そこで『船頭タリニ』を読んで、インド現代文学選集を企画されたんだとか。

インド現代文学選集は、トップバッターのウルドゥー、クリシャン・チャンダルの『ペシャワール急行』の凄惨美がとても印象に残っているのですが、実はほかはぜんぜん読んでません。ラインナップとしては、ヒンディー一冊、同じ大西さんによるベンガル一冊、カンナダ一冊、タミル一冊、英語一冊を出した後、本書が最終巻になるんだとか。インドの文学事情はよく分かりませんが、映画「バーフバリ」で一躍その名を日本に馳せたテルグ語ほか、それなりに多言語でいろいろ文学はあるんじゃいかと思うので、ちょっと残念な気もします。個人的には、ラダックの作品を一冊、現代インド文学の枠内でブチこんでほしかった。

…まあ、それは、アッサムやナガランドみたいな、「インドの少数民族文学」ジャンルで、また別に企画されるべきなのかもしれません。

あとがきで、謝辞を述べると水くさいと言われそうだから、事実だけ書くと書かれた親友ドゥルガ・ポド・ドット、植物に関する知識をほぼ『インド花綴り』(木犀社)とご本人から得た西岡直樹さん、大西あゆ子さん、旅の途中で出会ってから三十八年のつきあいになる頼れる現地の友、トゥシャルさん、タラションコル研究者のモハデブ・ドットさん、ボショント・コビラジさん、登場人物のモデルになった医師のビシュ先生、タラションコルの甥のバシュデブ・ボンドバッダエさん、ベンガル語の師、ケショブ・チョンドロ・ショルカルさん(故人)に深い感謝の意が述べられています。

丹羽京子さんの『ジョルシャガル』は、ひとつひとつの話の原題が併記されてないのですが、こちらはバリバリ書いてありました。『船頭タリニ』については、グーグル翻訳でベンガル語にした「船頭」が নৌকার মাঝি で、後半部分が合致、「タリニ」は তালিনী でややちがうのですが、「タリーニ」とのばすと、তারিণী で合致します。さすが話者人口世界六位七位。諸般の事情でグーグル翻訳を対応させていないチベット語のように、いちいち打ち込む必要なし。

丹羽京子さんの『ジョルシャガル』におさめられている『魔女の笛』という作品をグーグル翻訳すると、「笛」がちゃんと出ないのですが、見透かしたように、本書解説は、『魔女の笛』の原題が『魔女の竹笛』であると書いています。なるほど、竹笛ならタラサンカルのベンガル語ウィキペディアの短編一覧にもそれらしいのがあります。『船頭タリニ』は、『ジョルシャガル』と同じ短編『ラエ家』がかぶって収められていて、なんでわざわざ同じ話両者で訳しなおしたりするんだようと思いましたが、翻訳者同士で、仲が悪いとか、どっちかがクセ強いとか、そういうのがあるのかもしれません。ないかもしれません。ワカラナイダカラ。狭い業界は人間関係がこじれるとめんどくさいし、数の力で淘汰されないので、へんな人がずっといすわれる。

『ジョルシャゴル』頁206「ラエ家」

「ええ、あの、こんな上等のコメは何だか水っぽく思えて、我々はあの脱穀してない米でないと食べた気がしないんですが」

 ラエは思わず笑い声をあげて、そばにいた者に命じた。「聞いたろ、脱穀してないほうの米を持って来なさい」

上は丹羽京子さんのほうの、明らかな誤訳ですが、大西さん訳ではきちんと稲作を理解した訳文になっています。

『船頭タリニ』頁172「ラエ家」

「へえ、つまり、こんな細身の米粒ですと、私どもは何だか水っぽく感じるのでして。ヌカまみれの大粒の米でないと、私どもの口には合わないのです、領主様」

 領主はほうほうと大笑いをすると、すぐに命じた。「おい、料理人タクル*11、大粒の米を炊いて持って来い!」

*11「タクル」はバラモンの男性への呼称。高位のバラモン家では、料理人もバラモンでなければならなかった。

そのほかで言うと、好みの問題ですが、大西さんは役割語を使うことが分かります。それはまあ小さな話で、丹羽京子さんと大西正幸さんの大きな違いでいえば、大西さんのほうは各カーストを細かく注釈していると思います。上記はそのいい例。また、現地ビルブム県のヒンディー教徒は「信愛派ヴァイシュナヴァ」と「性力派シャークタ」が盛んであると大西さんは書いていて、ラエ家がシヴァ神の神殿を家屋内に持っているのも、「性力派シャークタ」だから、と説明しています。丹羽京子さんはそこまで書いてません。信愛派はクリシュナ神へのバクティ(信愛)を説き、姓力派はターラー女神とシヴァ神をまつったりするんだとか。お稲荷さんとか八幡様とか天神様とかお諏訪さまとか熊野権現とか春日大社とかいろいろあるみたいなもんかと勝手に推測しますが、当たらずとも遠からず、でしょうか。

『ラエ家』に、バグディという、棒術をよくする武闘系カーストが登場することは丹羽京子さんも書いていて、中国武侠小説の《镖师》や、スネークヘッドのもとになった、地主が雇う用心棒ごろつき《地头蛇》みたいなもんかと勝手に思ったのですが、『郵便配達夫』によると、ドームという下層カーストも棒術、武闘をよくするそうで、ただドームのほうはダコイトとして名を馳せているとのことでした。

ja.wikipedia.org

鏢局は、金品や旅客の護送を請け負い、鏢師、鏢客と呼ばれる用心棒が派遣される。貨物が紛失、盗賊等により強奪された際には、委託主への賠償責任を持つ。一般には沿道の顔役にみかじめ料を払って、道中の安全を図ることが多い。
中国の大衆小説である武俠小説においては、鏢局と鏢局が護送する荷を狙う盗賊などが登場することが多い。

それで、さらに、丹羽さんが訳したバングラディシュ側の小説『赤いシャールー』ラルサルで、終盤、老人の夫をバカにしている小娘の第二夫人が幽閉される部屋に、遠くのヒンディーのドーム部落から、祭りの太鼓の音が途切れることなく響き続ける印象的な場面が、もう一歩印象深く思われました。ならずものの、非アーリア民族集落。

と、いうことで、各短編のタイトルも、速攻でグーグル翻訳で原題表記に辿り着けると楽観していたのですが、あにはからんや、どれもどれもうまくいかず、ある程度手打ちして、それをグーグル翻訳にかけるとパーフェクトなベンガル文字の原題が現れるという、その繰り返しでした。ベンガル語版ウシキペディアのタラションガルサンには、一個くらいしか載ってないかったかな。学刈也。

bn.wikipedia.org

めこんの【現代インド文学選集】各巻には、ツルツル印刷の、訳者と著者にまつわるよもやま話の二つ折小冊子がはさまっていて、この巻は、訳者夫妻が1977年に西ベンガル旅行中に知り合った旧友と、2010年に三十年ぶりに現地で再会し、かつて留学していた大学に行き、本書に登場するさまざまな小説の舞台(寡婦と成金とが所有権を争う池や、強盗が出没した大樹、船着き場跡など)をへめぐり、タラションコルの住んでいた街や研究者、生家、縁者を訪ねた旅が綴られています。

左が生家で、写っている人はタラションコルの甥っ子さん。甥っ子さんも(当然ながら)ボンドパッダエ姓なので、じゃーバラモンだ、という。右は、その生家のある、舞台となる事物も多くある街の、バスターミナル隣の駅前旅館。2010年当時はまだ狭軌鉄道が走っていたそうですが、この後、2014年に廃線になったとか。タラションコルの小説にも多く登場する鉄道だったそうです。小冊子には、鉄道の写真もありました。

Google マップ

上は、本書に登場する船着き場と船着き場の、グーグルマップのルート。別の橋を経由してます。

goo.gl

上は、ラブプルのグーグルマップに、なぜかふたつ載っている、タラションコル博物館。上のほうが生家みたいなんですが、なぜ二つもミュージアムがあるのか、インドに慣れてない私には分かりません。

ラエ家のあった(ということは本書では『舞踏館』と訳されるジョルシャガルのあった)デカという町は、グーグルマップ上では、どこなのかよく分かりませんでした。

以下各話感想。

তারিণী মাঝি『船頭タリニ』"Tarini, The  Boatman." 1935年発表。

1975年の奉仕園インド文学研究会で熱心に読まれた邦訳とのこと。右肩上がりの経済成長期だと、それまで救えなかった命が、今なら救えるということで、救えなかった極限状況を繰り返し語らなければならなかったのかなあと思います(言いっぱなし聞きっぱなしで、何度でも語り続けることで生きてゆけるようなものかと)そしてそれは、言語や文化は違えど人間は同じ人間という確信が「発見」された当時では、翻訳によって国家や言語の壁を越えて諸国民に共有されねばならない観念だったのかもしれなとも思います。しかし、21世紀の、豊かになってから斜陽化する社会で、その語らいは必要だろうか、というもうひとつの問いも生じることは事実です。スモールガバメントなので、目の前の、自国民のディザスターだけでいいじゃいか、という。

そんな葛藤が粟立つ様に生じるのを感じた、本作品ラストの極限状況でした。

海神丸 - 岩波書店

武田泰淳 『ひかりごけ』 | 新潮社

井上靖 『氷壁』 | 新潮社

『船頭タリク』否『船頭タリーニ』はカニバリズムの話ではありませんが、何となく比較の対象となる日本の極限状況ドラマが思いつかなかったので、てきとうに三つ貼りました。

ডাক-হরকরা『郵便配達夫』"The Postman"1936年発表

郵便配達夫をグーグル翻訳すると、পোস্টম্যান、ポスタミャーナになるのですが、この原題、ডাক-হরকরা ダーカ・ハラカラーもグーグル翻訳で日本語にすると「郵便配達員」になります。わからない。

この短編集でいちばん好きな作品。ここに登場する郵便配達夫は、破れた笠をかぶって、手に槍を持ち、郵便袋は肩にかけ、槍の刃の部分に鉦をつるさげて、ジュンジュンと鉦を鳴らしながら、人力で鉄道駅と郵便局のあいだを走る仕事のしとです。鉄道の到着時間にあわせて活動するため、夜討ち朝駆け。もう片手には風よけランプを持って走る。主人公のカーストは、前述の、太鼓を叩いたり、ダコイトをしたりする、ドーム。しかし彼は謹厳実直で、仕事から帰ると、どんぶり酒をひっかけてそのまま田仕事に行き、夕餉のオカズにするキノボリウオやナマズまで田んぼで捕まえて家に戻る。

そんな中年男と、親の二番煎じの人生を送りたくない遊び人の息子との、相克の物語。左の写真は、たびたび強盗団が出没し、小説でもそうなったバンヤンの木。源実朝を切りつけて殺した公暁が隠れていた鶴岡八幡宮の銀杏の木はさすがに倒れましたが、バンヤンはまだあるそうで。

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Google マップ

ট্যারা『やぶにらみタラ』"Squint"1934年

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(グーグル翻訳)長い間、バングラデシュの人々は、片方の目が曲がっている場合(タラがある場合)、幸運またはラクシュミ タラの兆候と考えています。親は、この重要な症状を治療する代わりに、幸運を逃したくありません. 多くの子供たちは、無知と 5 歳までに小児眼科医に相談しなかったために片目が失明します。

上のバングリ―邦訳と本編は、あんま関係ないです。チベット小説の『タルロ』とか『ラロ』は私も好きな作品ですが、ベンガルにもタラがいよった、みたいな感じ。愚者の精いっぱいの生き方のストーリー。舌っ足らずのしゃべり方の邦訳が「~だど」とか「聖者ちゃま」だったりするのは、好みの問題ということで。ここに出てくる「バウリ」というカーストが分からなくなって、たまたまバングラディシュレストランで食事後に読んでいたので、店員に聞きましたが、ネパール人なので分からないとのことでした。しかしまあ、インドであっても、どこでも誰でも大麻吸ってるわけでなく、修道場アーシュラムにたむろしてる連中が常習者ってだけなんですね。

অগ্রদানী『供養バラモン』"The Memorial Service Brahmin"1937年

ベンガル語でAgradānī、オグロダニと呼ばれる、バラモンの中でも最も卑しいバラモンだそうで、死者の供養で、死者が生前好きだった食べ物を丸めて固くした塊(ビンドと言うらしいです)をまるごと食べなければならない勤めの人。

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上の本作朗読動画の写真がそれでしょうか。本作は映画にもなってるそうですが、うまいこと予告編が見つけられませんでした。

Agradani - Wikipedia

びんぼうなのにバラモン、という意表を突いた主人公の、とりかえばや物語も絡めた、波乱万丈のストーリー。妻の出産が金持ちバラモンの奥さんの出産とかぶってしまい、バラモン相手の産婆さんが金持ちのほうに呼ばれて行って不在のため、シュードラ相手の産婆さんを呼んでへその緒を切ってもらう場面があります。インドはいろいろ悩ましい(もしくは、前世紀はなやましかった)

রাখাল বাঁড়ুজ্জে『ラカル・バルッジェ』"Rakhal Banrujye"1935年

本書のベンガル表記だと、「ঁ」と「ু」がうまく結合してない気がします。気のせいだとは思いますが。下記の朗読に原題があったので、写しました。

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題名の「バルッジェ」はボンドパッダエの簡略形だそうで、インドの人名にも、アレクサンダーがアレクとか、エリザベスがベッキーみたいのがあるんですね。成金と寡婦が池の所有を巡って争う話。インドの仲人オバサンみたいな人が出てくるのですが、またこの人が、ドントケアとかベリーグッドとかマリッジとか、英語をポンポン交えてしゃべるので、訳者の人も、イイキャラだとしています。頁147に「八宝」という、結婚式の八日後に嫁さんの実家を訪れて行う儀式が出てきて、ベンガル語だと「オシュトモンゴル」ということばになるんだそうで、なんでモンゴル?と思って検索しましたが、何も見つからず、「八宝」をモンゴル語にしても、আটটি ধন āṭaṭi dhana ということばになりました。

রায়বাড়ি『ラエ家』"The Rai Family""1936年

丹羽京子『ジョルシャガル』にも収められている話。明らかな誤訳(上の米つきに関する箇所)が正されているのはいいとして、それ以外の重複邦訳を行う理由が思いつきません。数少ないベンガル文学の邦訳で、何も同じ作品をバッティングしなくてもいいものをと思う。冒頭に、中世ベンガル地方を席捲したポルトガル人海賊に由来する子守唄が出ます。ジョルシャゴルにもそんな描写あったかなあ。オボエテナイダカラ。

মালাচন্দন『花輪と白檀』"The  Garland and The Sandalwood"1932年

これも、丹羽京子『ジョルシャガル』にも収められている話。。数少ないベンガル文学の邦訳で、何も同じ作品をバッティングしなくてもいいものをともう一回思う。大西さんの訳では「女伴侶」と書いてショキとルビをふる、近藤ようこ『ルームメイツ』みたいな、女性シェアハウスみたいな人間関係が出るのですが、丹羽訳でそういう箇所が会った記憶がまるでなく、なんなんだこりゃと思ってます。

stantsiya-iriya.hatenablog.com

以上